タグ別アーカイブ: 哲学

哲学分野

ストア主義的

ストア主義者が、自分で自分の行状に命じた儀式ばった態度のために胸苦しく感じるときに、ストア主義者の快活さが生じる。彼はそのとき、自分を支配者として享楽するのである。 曙光 251 一種の苦行による快楽のような構図です。自制、自戒により自らを知的で本能に支配されていないとの「確信」を得るための一つの指針が、胸苦しく感じる瞬間です。自分で自分に命令しているという、支配者としての自認という構造になっていますが、支配していると思わなければならないと渇望している根底には、コントロールしなければならないという、条件付け、そして

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誰が一体いつか孤独になろうか!

恐怖心をもつ者は、孤独とは何であるかを知らない。彼の椅子の背後にはいつも敵がいる。― おお、孤独と呼ばれるあの繊細な感情の歴史を、だれがわれわれに語ることが出来ようか! 曙光 249 孤独が嫌だからといってある対象と一つになりたくても、それには限界があります。いくら近づいてもそれ以上は近づけない、そして同化したくてもできないということは、想像しただけでも十分にわかります。 意識の上である程度同化するようなことはできます。しかし、一つになったわけではありません。 ― 孤独とは一体何なのでしょうか? 孤独とはもちろん「

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悪い気質の由来

多くの人間の気質の不正なところや突飛なところ、彼らのだらしなさや節制のなさなどは、その祖先が犯した無数の論理的な不正確や、不徹底、また性急な推論などの究極の結果である。 曙光 247 前半 論理的な不正確というものは、それがどう不正確なのか知るには、通常は正確な論理というものが必要になります。しかしその不正確は、論理思考の不徹底からという原因が、容易に想像されます。つまり不正確か否かは、確定はしていないものの、「不徹底であるから、確定的ではない」ということは理屈ですぐに分かります。 この方法論をもって、すぐに盲信と

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いわゆる「自我」

いわゆる「自我」ということでアイツこと自我について触れていきましょう。 まず、自分とは一体どこにあるのでしょうか? 認識している主体でしょうか? しかし、この主体は受け取っているだけで、しかもこれ以外に認識の間口はありません。 個人という人格は、外部からのラベリングや関連性を示されたもので、カテゴリなどから付けられた様な属性は、属性であって、自分ではありません。以前少し触れましたね。認識の悲劇の終幕 生存本能に支配され、恐怖心にやられ、渇望感は沸き起こり、それを消すことがなかなかできない、やっているつもりがやらされ

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決疑論的

どんな人の勇気や性格も耐えられないようなある悪辣(あくらつ)な二者択一がある。ある船に乗っていて、船長や船手が危険な誤ちを犯し、彼らよりも自分の方が航海の知識の点ですぐれていることを発見し、―そこで自分に次のように問う。どうだろう!おまえが彼らに対して暴動を起こし、彼ら二人を監禁してしまったら?おまえの優越はそうするように義務づけないか?だが一方彼らも、服従しないという理由でおまえを拘禁するのはもっともではないか?と。 曙光 436 前半抜粋 あらゆる選択をするときに指針となるのは、道徳・倫理・宗教上の戒律などです

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認識の悲劇の終幕

以前に書きましたが、認識の悲劇は、がっかりによって終りを迎えます。「最大のがっかり」 「自己犠牲が一番の人間向上の手段であった」と、ニーチェは触れていますが、今でもよくブラック企業などはそんなことを言います。 何のために自己犠牲ということをしてしまうのでしょうか。おそらくその点については触れられること無く、自己犠牲の先に「何かの意志に適う」ということを盲信しているという構図です。 自己犠牲の精神からの脱却 認識の悲劇の終幕ということで自己犠牲の力とがっかりについてから進めていこうと思います。 自己犠牲の力と「がっか

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新しい眼で見る

「新しい視点」と銘打って、それまでの考え方から一歩進んで物事を考えてみよう、と学校や研修で説かれることがありますが、説いている方も大したことがない上に、「人が一応納得するレベル」の話しかしてくれないので、根本からガラッと変わることは少ないでしょう。 たまにガラッと変わるようなこともありますが、基本的に人間は、とてもショックな出来事がないとなかなか考え方は変化しません。 頭で一度理解したようなことでも、感情による抵抗によって元の木阿弥になることはよくあります。 パラダイムシフトで一時的に興奮状態に ちょっと想像した「

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見せかけの利己主義

大人数の人々は、彼らがその「利己主義」について何を考え、何を言おうとも、それにもかかわらず、一生涯自分たちの自我のためになることは何も行わずに、彼らの周囲の人々の頭の中で彼らに関して形作られ、そして彼らに伝えられた自我の幻影のためになることだけしか行わない。―その結果彼らはすべて一緒に、非個人的な意見や半個人的な意見、勝手な、いわば文学的な評価の霧の中で暮らしている。あるものは、いつも他者の頭の中で、この頭はまた他の人の頭の中で、というようにして暮らしている。奇妙な幻影の世界であり、それは同時に非常に冷静な外見を呈

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ドグラ・マグラ

本は今までにたくさん読みましたが、特に興味もわかなかったというのが本音です。しかしながら、「ドグラ・マグラについてはどう思われますか」というご質問を受けたのでついでに読んでみた次第です。 ということで、先日読んだのはドグラ・マグラです。著作権保護期間が切れているため、青空文庫にあります。 「ドグラ・マグラ」夢野久作 文自体はそこそこ長いですが、すぐに読めます。どんな内容かは、読めばわかるので読めばいいと思います。ドグラ・マグラは、読むと気が狂うと言われるそうですが狂いません。別に普通のことが書いてあるだけです。 読

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結婚の偶然

「まだひとりぼっち?」というような広告がよく出ます。まだどころか全存在は永久に独りです。独りでないかのように感じるのは錯覚ですから、独りであっても、誰かといても、結局は独りなのだ、と肝に銘じるどころかそれが自然です。 好きな人がいればその人と結婚すればいいですが、「出会いがないけど結婚がしたい」という人は、今一度自分がどういう理屈でそのようなことを考えているのか考えてみたほうがいいでしょう。 「みんなが言っている」というのは、世間の人を説得できても、僕のような類には通用しません。それは根拠として乏しいどころかナンセ

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不死を夢見る人々に

大昔からでしょうか、不老不死を追い求めるようなテーマは数知れず、今でもアンチエイジングという言葉がちらほら歩いています。 そういう事を追いかけている人もちらほらいたりするものの、老いなかった人も、死ななかった人もいないので、現在もそのような人を確認できないわけですが、どうしてそんなにその事実を無視するのでしょうか。 しかしながらそんな事実よりも、もっと忘れそうになるのが、「不死は幸せだ」は本当か、ということです。夢見ているのだから、いいものだと思っていることは間違いありません。 「不死=幸せ」は本当か? おそらくイ

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どれほどの力が現在思想家の中に集まらねばならぬか

考古学者や国語学者という言葉を見ても「ああそうですか」という感じがしますが、なぜか「哲学者」という言葉を見たときには違和感を感じます。 同様に、陶芸家、噺家、という言葉を見てもなんとも思いませんが、「思想家」という言葉には「関わらないほうがよさそう」という感じがします。 哲学や思想 その原因は、哲学や思想が人生の根幹に関わりそうな事柄だからでしょう。テレビ番組を見るような感覚でその場の楽しみとしては聞き流せないような事柄を取り扱っているからこそ、変な感じがします。 その変な感じには、やはり「学問なのか?」というよう

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「純粋な精神」の偏見

純粋な精神、純粋な人、そういう時に使われる「純粋」は、純粋ではなく愚かなだけの可能性が高いでしょう。無知が一番の元凶と言われますが当然です。 ここでいう無知は、「日本語を知らない」とか「テストの点が悪い」とかいうものではありません。純粋すらアイツに利用されます。 そういう観念、ラベリングがあると、「純粋、あるがまま」といっても、キャンバスにペンキをぐちゃぐちゃに塗って「何にもとらわれない芸術」という結果を生み出す原因になります。 無知と純粋 じゃあ何が無知なのか。何が純粋ではないのか、ということに疑問が出てくるでし

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効用からの誤った推論

守護霊が見えたから、やっぱり守護霊はいるんだ、というような事を本気で信じている人がいますが、そういうことはやめておいたほうがいいでしょう。 やめろといってもどうせそのままは聞き入れないことくらいはわかっていますから、やめておいたほうがいい、というふうに言っておきますが、それは存在を肯定しているわけではない、ということは断言しておきます。 「それを守護霊と呼ぼうが構わない」という類ではありません。「時にそれは魂や真我と呼ばれるが、その人には守護霊というふうに出てきた」というような類ではないということです。そんなものは

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命令の証明

一般にある命令 ―の良し悪しは ―それが厳密に実行されたとして、その命令の中で約束された結果が生じるか、生じないかによって証明される。 道徳的な命令の場合は― ほかならぬ結果が見通されえないものであり、あるいは解釈しうるものであり、曖昧である― この命令は、全く学問的価値に乏しい仮説に依存しており、この仮説の証明と反駁とは、結果からでは、根本的に同様に不可能である。 曙光 24 抜粋 毎日何かに拝んでいて、しばらくして病気が治った、と。 しかしながら病気が治ったことを根拠に「拝んだから治った」といっても何の証明にな

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よい自然と悪い自然

自然か人混みかの二択なら、断然自然によく行きますが、三流のコンサルですら何かの本で読んで知っているように、自然を見て「いいなぁ」と思える原因としては、「視界が開ける」ということが一つのポイントになります。 これを何処かでサービスとして味わおうとすると、ただ単に視界が開ける、ということを味わうがために料金は数倍になったりしますが、それでも需要があるということは、それだけ不自然な状態の中にいつもいるということでしょうか。 自然はいつでもどこでもそこにあるのに、それに目を背けているために自然を求め、無駄にお金を払って自然

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道徳の歴史における狂気の意義

狂気という言葉は、「みんながやっていないことをやっている」という意味で、常識はずれの範疇にあります。 その常識はずれの中でも自分に害がありそうなものは「狂気」になり、自分の利益になりそうというようなことは「偉業」などと言われたりします。 無害というかほとんど自分とは関係なさそうならば、印象は「変な人」くらいのものです。 それくらい人の評価と言うものは自己都合によって変化してしまいます。 かつてのナチスも、暴力的な支配ではなく民主主義によって動いていたので、その時代のドイツにおいては彼らの行動も国内の評価としては偉業

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倫理の感覚と因果関係の感覚との相互運動

倫理の感覚と因果関係の感覚との相互運動ということで、ニーチェはまさに曙光のこの項目で、核心に迫るようなことを言っています。 「必然的な作用を把握する」、つまりあるがままの因果関係だけ把握できれば、アイツの特性である、空想的な因果関係が破壊されるということについて触れています。 空想的な因果関係を観察する 「空想的な因果関係」とは先に触れたような風習によってもたらされる倫理的規定からもたらされる妄想であり、アイツの得意とする「関連思考」に無意識的な信念まで組み込まれてしまっているような状態です。 つまり、迷信のような

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変容

「ずっと変わらないもの」というものはありません。それは自分が過去との対比との中で変化を検証している対象のみならずです。 変容(へんよう)とは、一応姿形が変わることを意味しますが、変化との違いとしていろいろな説明がなされています。変化は物理的変化であり、変容は質的変化であるという定義や、変化は可逆性をもつが、変容は不可逆性を持つというような感じです。 変化と変容 例えば粘土やプラスチックを変形させる場合は変化で、人間の性格が変わった場合は変容であるというような感じのイメージになりましょうか。前者は一応元のような形に戻

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夢想された天体不調和に反対

ニーチェは時々こういった、自称アーティストの劇団員がソーシャルネットワークでつぶやきそうなことを言います。ただ、これはタイトルであって、続きがあります。彼には彼なりの考えがあったので、今回は引用します。 夢想された天体不調和に反対。―われわれは多くの誤った雄大さを再び抹殺しなければならない。それはあらゆる物がわれわれに要求する正しさに反対するからである!そこでこのためには世界を事実以上に不調和に見ないようにすることが重要なのだ! 曙光 4 戯言の領域を離れませんか、ということですが、肝心なのは「見ないようにする」と

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物には時がある

物が物として存在するためには時間が必要になります。 すごく簡単な話で、認識するためには時間が必要だからです。 認識がなければ物は存在していようが、存在していないのと同じです。五感のうちのいずれかに認識されなければ、無いのと同じです。 そしてほんのわずかでも認識には時間が必要になります。ストップウォッチでは測れないほどの時間かもしれませんが、時間が必要になります。 もし時間という解釈がなければ、五感は働きようがありません。時間の解釈は一応意識が行っています。つまりアイツの領域です。 実際には物が存在するというよりも主

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身体の限界と楽しみの限界

僕は体育会系ではありませんから、身体の限界と銘打っていますが、特に運動能力的なことについて触れるわけではありません。いわゆる五感を通しての楽しめる限界についてです。 やたらと楽しいことを求めてしまうのは「アイツ」の仕業ですが、楽しみについて以前少し考えたことがあるので、一応書き記しておきましょう。 必要以上にお金を欲しがってしまうのは、ひとつは安心感、もうひとつは楽しみを求めるせいですね。安心感については今までにもさんざん書いてきました。楽しみについて今回は書いていきましょう。 精神力と身体 精神というものは体と密

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風呂

風呂につかると気持ちがいい。体の汚れを落とすと不快が消える。すごくわかりやすいことです。これは非常にわかりやすいパターンなのですが、視点の違いで本質というものが見えてきます。 どうしても風呂につかるという「行為」に視点が置かれて、「なにかをする」ことがいいことなのだ、ということになりそうですが、既にカンのいい人は気づいていることでしょう。 「負荷が軽減する」という視点 それは「負荷が軽減する」という視点です。ゼロから何かが増えたわけではありません。つまり、不快な状態が「おかしい状態」で、通常に戻るというプロセスが、

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最大の「がっかり」

最大の「がっかり」について触れていきましょう。 がっかり 「がっかり」 そう聞くと、期待があって、それが叶わなかったときに起こるものです。何かが「こうあるべき」「こうだろう」という思い込みがあります。表面上は「絶対にこうだ」というようなふうに表れているかもしれません。 そういう前提があって、そうなるだろうと予測、期待していたのに、それ以上の成果なら「おおすげぇ」「予想以上によかった」という感想が、それをダメな方に裏切られた場合は「がっかり」というものがやってきます。肩を落とすというふうに表現されたりしますが、まさに

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読書の秋

読書の秋と言われますが、読書は季節を気にしてはいけません。と、言いつつもやはり涼しくて読みやすい季節ですね。 「読書とは思考の戦場である」、といった旨のことを言った人がいますが、戦ってはいけません。戦いたくなる気持ちはよくわかりますが、戦わずにサラッと流しましょう。 本を読む人は頭がいい、ということがよく言われるそうですが、頭がいいということは「いい」ということには直結しません。それに知識ばかりで苦しんでばかりの人がたまにいます。それは本当に馬鹿げたことです。 愛読書 昔は愛読書というものが数十冊あったのですが、今

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