茶飯事の匙加減
料理を作るということが面倒なときもあると思いますが、調理は理科の実験的な面白さもあり、かつ、味による楽しみというものもあるので、「外食ばかりで料理が作れない」というのはもったいないのではないか、ということを思うことがあります。 化学反応を目の当たりにすると言う面や包丁を使うという一種の彫刻や職人技を磨くかのような面があるので楽しみは満載です。 腕を上げるためにはひとまず様々なパターンを試すということもさながら、熟練のためには数が要になる
金輪際なしに…の後日談
「二度あることは三度ある」というようなやつでしょうか、なぜかアクシデントというものは連続することが多く、そうした時は集中力が格段に落ちていたりします。 集中力が落ちている時、物をよく落としたり無くしたりすることがあります。おそらく、ちょっとした注意力が保てなくなっているのでしょう。そして少しずつの「注意不足」が積み重なり、大きなアクシデントとなってしまう場合があります。そして、それはそれだけで終わってくれず、何度が連続して続いてしまうと
好事家の硬骨漢
欲を肯定し「欲を叶えやすいような世の中にしていこう」というタイプの人達がいます。しかし、欲は苦しみです。特に生命維持の領域を超えた欲はまさに無駄な欲であり、それを発端としてさまざまな煩いをもたらしてしまいます。 世の中では「そういう性質なのだから仕方がない。欲を叶えられるようにして欲しい、叶えやすい社会にして欲しい」という感じで物事を捉えているような人がいます。しかしながら、社会に何かを要求する前に、その欲自身と対峙してみてはいかがでし
好々爺たちに紅一点
男性ばかりの職場に女性が、または女性ばかりの職場に男性が一人でも入ったりすると空気が極端に変わったりします。 特にその異性が若い人ならなおさらです。サボり癖やギスギス感などが程よくなくなり緩やかな緊張感と癒やし作用をもたらしたりします。 最近ではそうした事を受けてか、わざとそうした人員配置をしたりするようです。僕が勤め人だった頃も、おじさんばかりの部署に新しく女性社員が配置されたりしていました。 おじさんばかりの部署に新しく女性社員を配
アシナガバチを保護中
昨日の昼間、家の裏をアシナガバチがフラフラになりながら歩いていました。羽が機能せず、かなり弱っている様子で、足を引き摺るように歩き、その様子を観察しているとバタンと倒れてしまいました。 一昨日に近くで巣の駆除が行われたようで、その時に駆除を逃れたアシナガバチだと思います。一昨日の夜から近くで羽音と威嚇音を交互に繰り返すようなヘルプコールが続いていたのですが、どこにいるのかもわからない感じでした。何となく助けを求められている感はありました
好一対への下馬評
何かの現象を評価・判断する時、既に持っている知識の中からしか評価をすることができません。その時に既にある知識と知識が組み合わさったりして新しい判断基準ができることもありますが、概ね今までの間に培った知識・経験則からしか評価や判断をすることはできないという感じです。 そう考えると、世間での評価・ランキングなどいかにあてにならないものかということがよく分かるはずです。 そうしたものは恣意的に操作されたものである可能性を排除できませんし、評価
首実検、のち、下剋上
そう言えば少し前悪徳体育会系が世間から袋叩きにあった事がありました。メディアに触れない僕の耳にすら届くほどの大盛り上がりを見せていましたが、世間では大なり小なり同じような構造が蔓延しているはずであり、だからこそあれ程の盛り上がりを見せたのでしょう。 意志決定の簡素さやそれに伴う素早さ、そして統制の合理性から考えれば体育会系の構造は「楽」ですが、一方その裏でアイヒマン実験さながらの人格変容の構造を持っています。 ゲッベルスさながらの洗脳企
口八丁の金字塔
口の上手さだけでなく、人は自信にも感化されてうまく転がされてしまいます。妥当性ばかり追求している人より、ホラ吹きの方が大物のような人になっているというケースを実感している人も多いのではないでしょうか。 単に口が上手いということなら「それはスキルだからなぁ」と納得できそうなものですが、それが嘘であっても、大見得であっても、結局周りが感化されて嘘のように実現しているという場合があります。 ある種不公平に感じますが、それくらいに口の上手さの裏
麒麟児が綺羅星のごとく
家にテレビは置かず、かつ、ニュースすら目に触れないという生活をしていますが、なんだかんだで友人や同級生などでいわゆる「有名人」のような人はちょろちょろいて、地元にも現役有名人や元有名人のような人がちょろちょろいます。 そんな人達と銭湯で会ったりすることもありますし、知らぬ間に長い付き合いになっていた人が実は元有名なバンドのメンバーだったり、家の近所に東京ドーム公演をするレベルの人の実家があったりという感じなので、そのような人たちに会った
気丈夫かつ几帳面
まるで営業方上がりか事務方上がりかというような感じになりますが、そのどちらでもないような「職人」というポジションもあります。 業種によって職人がいる場合といない場合がありますが、大体は営業系か事務系かという感じで仕事は分かれています。 これは、食べ物を獲得する能力と、保存・加工する能力のような分類になるため、独立するとなるとまずは前者のほうの能力が必要になります。 独立時に重要となる営業力 食べ物を獲得してもすぐに放置して腐らせていたり
生一本ゆえ間一髪
「人に話をする時はきちんと相手の目を見て話しなさい」 そんなことを幼少期から繰り返し言われていたので、僕はなんだかんだで人の目を見て話す癖がついています。ある時からなるべく眉間などを見るように心がけたりしましたが、今でもだいたいは目のあたりを見るようにしています。 そのような感じで人と接すると、大学生の人などは緊張してしまうのか体が震えたりするそうなので、それも考えものだということを思ったりしましたが、「目を見て話す」という事自体は癖な
紙一重の皮算用
何事も詰めが甘い場合は、結果が芳しくないものになったりします。あと一歩のところで、詰めが甘いと時に台無しになることもありますし、そこまではいかなくても達成できたであろう結果よりも随分と低い結果になってしまう事があります。 かつての僕は結構その口でした。最初はうまくいき、結構なリードを保っているのですが、途中で詰まって結果的に平均的なものになってしまうという感じです。 おそらく無意識的にそうしてしまう傾向があったのでしょう。ある程度うまく
風見鶏の表看板
世の中では「いかに人の注目を集めるか?」ということ競い、その結果を渇望して「広告合戦」のようなことが繰り広げられています。 人々の日常の意識の向き先がマスメディア一極集中から、ウェブそしてアプリケーションへとどんどんと分散していきましたが、大体は人の注目を集めようとしすぎた故に疎がられ、その場所は過疎化し、また新たな場所に人々の意識は移るという流れが続いています。 古くはメルマガ登録、その後はSNSと矛先は異なりますが、結局「広告がしつ

大立者の十八番
「君子豹変す」なんてな言葉もありますが、社会においてもその人自身においても、時に大掛かりな舵切りをする時があります。 「じわじわ様子を見ながら」というやり方は一見リスクが無いように見えますが、「交差点で停止線からチョロチョロ進む車」のような危なさがあります。 そういえば交差点で思い出しましたが、以前信号待ちをしていたところ、後ろから「ガーシャカガーシャカガーシャカ」と聞こえてきました。 テンポ的にはテクノ的なやつです。 「ふう。爆音を垂
絵空事で有頂天
すごく良い思い出でも最後の最後の状態がどうあるかによって、その思い出の解釈が変わってきたりします。また最後の状態はそれほど問題ではなくとも、時を経て異なる視点ができた時、寒気がしたりすることもあります。 その時の感情は一応本物ですが、その後それをどう捉えるかによって、その思い出の印象は変わってきます。 マルチネットワーク(MLM)はまさに絵に描いた餅で人をぬか喜びさせる天才と言えるでしょう。そして現実が進むに連れて、夢を見せられていただ
嘘八百の内弁慶
唯物論的には、また、功利主義的には正しい理屈であっても、人の「心」を考慮しなかった理論は失敗に終わっていきます。合理性や数値の上での平等を叶えたとしても、それに携わるのが機械ではなく人である限り、人の心の動きや変化を無視することはできません。 むしろそうした人の心の本質を捉えることこそ、環境によって変化してしまう思考や意志の動きを捉えることこそが最も重要なことだったりします。 コスト的な合理性、組織としての統制のとりやすさを優先し、ヒエ
一本槍に一辺倒
対象が学問であれ、政治主義であれという感じになりますが、ある一人の人物やひとつの主義にいつまでもしがみついているような人たちは「途中からはルーティンで、何も考えていないのではないか?」ということを思っています。 人にもよりますが、十代、二十代の時はだいたい何かに感染します。感染と表現すればよいのか憑依と表現すればいいのかはわかりませんが、何かに没頭し移入してしまうという感じです。 それは音楽だったり、何かの思想だったり、それらを含めて誰
一匹狼の一家言
ある時から何事も一人で考えたほうがより良い推論ができるということに気づきました。「それは独り善がりだ」とか「独善だ」などというような人もいますが、「そういう事を言うのならばせめて同レベルで『納得できるような理屈』を話してみればいいじゃないか」というようなことも思いました。なぜなら、独り善がりだ独善だ、などという言葉は苦し紛れの捨て台詞でしかないからです。 それほど厳密なものでなくとも、論証のような感じで、推論の、 ―思考の軌跡をたどりな
韋駄天が一目散
以前どこかで触れていましたが、僕は文化系ながら太ももが異常に太く63センチほどあります。高校生の時には体育会系の人たちを差し置いて立ち幅跳びなどで学年一位でした(でも走るのは速くありません)。ということで陸上部やラグビー部などからよくスカウトを受けましたが、文化系なので全てお断りしました。 「フォームをキレイにしたらもっと速く走れるぞ」 などと体育教師に言われたりもしましたが、別にその分野に関心もありませんでした。 体育は差別の塊 それ
依怙地になって居丈高に
大きな企業でありがちですが、あまりにくだらないような商品を無理に売ろうとすることが多々あります。 もう商品開発の時点からやり直したほうがいいと、誰しもが思っているような状態なのに「自分の案が間違いだったということを認めたくない」という人のエゴにつきあわされる形で売りに行かされるということもよくあります。 それは取り扱う商品という部分だけでなく、売り方というようなものを含め、何かしら仕事のやり方などについても同様です。 「自分が考え、企画
天邪鬼が暗暗裏に
目の前の現象への解釈は無数にあります。しかし人が各々に持つ視点、重要度のバランスはバラバラなので、解釈の仕方も 千差万別の百人百様です。そして、実際に何かの行動を取ったり選択したりというときには基本的に一つしか選べないので他の人と食い違いが出てくる場合もよくあります。 変な人にもその人なりの考え方や視点があり、それはそれでいいのですが、まれに自分の意見に同意したり同調しないことに腹を立ててくる人もいます。 そして同調しないことに対して「
青二才の値千金
何事も経験の少ない人は少ない人で凝り固まった考え方、物の捉え方がまだ無いので、純粋な眼で物事を捉えることができるという面があります。その一方でもちろん、経験が少ないゆえに「自分が何をやっているのか」ということや「何を理解し、何を理解していないのか」がはっきりしていない分だけリスクを持っています。 「リスクがある」ということはその先にリターンがある可能性がある場合になります。失敗した時の損失といった危険性を内在しながらも成功した時にはリタ
特別企画 その7
久しぶりに特別企画を実施します。前回の特別企画はロングランでしたが、「特別企画 その7」はひねくれつつもサクッと終わりそうな感じのことを進めてみます。 三字熟語を2つ合わせてタイトルに いつ頃買ったものかは忘れましたが、高橋書店の「四字熟語辞典」に載っている「三字熟語」を無理やり2つ合わせてタイトルとして設定していくというものです。 本当は先にやりたいような特別企画もあったのですが、少しひねりが必要だなぁということで先にこちらを進めてみ
凡人が天才のフリをする時に用いる統計・データに騙されてはいけない
僕はなんだかんだで統計・データの分析が得意な方です。でないと会社経営もあまりうまくいきませんし、トレードなんかで勝てるわけがありません。でもそうしたものは参考程度にしています。 データには精度というものもありますし、何某かの意図が組み込まれている場合もよくありますからね。そして何より市場も人の心理も環境も常に動いており、あくまで統計・データはある時点、ある状態の切り取りにしか過ぎず、結論も単なる「要請」くらいにしかすぎないからです。 デ

記号としての役割しか持たない人たちと社会的監視機能
洗脳やマインドコントロールについて触れたり、消費社会について思索を巡らしてみたり、面白い映画とあまり面白くない映画の違いを考えてみたり、「手塚治虫のブッダ」の原作と劇場版の違いに遺憾の念を持ったりという感じで過ごしていると、記号としての役割しか持たない人たち、「入れ替え可能なキャラクターとしての立ち位置」について思いが巡ってきました。 そのような感じで「記号としての役割しか持たない人たち」と「社会的監視機能」についてふと考えました。 た
生命保険を担保にお金を借りる
生命保険会社からお金を借りる方法として、すでに契約している生命保険を担保にお金を借りるという方法があります。 これは契約者貸付制度というもので、既払い保険料で貯まった分(養老保険の満期における生存保険金の部分や終身保険なんかで貯まっている分)を担保として解約返戻金額(保険契約を解約した時に戻ってくるお金)を元にそれより少し少ない額を借りられるというものです。この契約者貸付制度は、もちろん保険契約をしている「契約者」が利用できる制度です。
広告による威厳の喪失
家にテレビもなければ、もちろん新聞もとっていないので、世間のニュースに関しては全く無頓着で無関心という感じで、普段あまり広告に触れることがありません。しかし、なんだかんだでネット上の様々なページに表示される広告なんかを見る機会があります。 その手の広告は、広告対象となる商品やサービスに比例するように品質が低いものも多くあり、そうした広告に顔写真などが利用されるということは、その人の威厳を喪失させてしまうのではないか、と思ったりします。
鹿の王との約束
最近、見る夢の中でも白昼のふとした隙間においても、何故か宝ヶ池の鹿の王が出てきます。 僕が勝手に鹿の王と呼んでいるだけですが、もちろん宝ヶ池に実在する鹿です。その旨は一応「宝ヶ池の鹿」で少し触れていました。 サラブレッド並みとまではいきませんが、かなり大きな体に加え、すごく立派な角を持っています。普段宝ヶ池で見る鹿とは圧倒的に体格が違うという感じです。その風格からおそらく宝ヶ池公園付近一帯の鹿の王だと思っています。 彼との出会いもまた不

味やロマンと駄菓子の機械
味やロマンと駄菓子の機械ということで、駄菓子メーカーの事業譲渡について触れつつ、味やロマンと汎用性についてでも書いていきます。 全国的に展開している企業もありながら、駄菓子メーカーは家族経営の零細企業が多く、事業主の高齢化の問題により消えていく可能性がある駄菓子がたくさんあるようです。 駄菓子を残そうと思っても、駄菓子は結構手作りで製造されていたり、オンリーワンの特殊な機械を使って製造されていたりと事業譲渡、承継のハードルが高いという面
尊厳・自尊心と承認欲求
尊厳・自尊心と承認欲求ということで、人の尊厳や自尊心と他者からの承認、そしてそうした承認を欲する承認欲求について紐解きながら、それらを根本から覆していきます。 「人は他人から自分の存在を確かめる」とでも言いたげに、社会においては尊厳や自尊心を当然のものとして扱い、他者からの承認をもって尊厳を保っているとでも言いたげです。 それこそが人の幸せを決めるものであり、承認欲求は当然に起こる欲求だとでも思っています。 しかしそんなものは必要ありま
