孤独を学ぶ
おお、諸君世界政策の大都会に住むあわれなやつよ。諸君若くして才能に恵まれ、名誉心に苦しめられている人々よ。諸君は、あらゆる出来事に― いつも何かしら起こるのだが― 一言するのを義務と心得ている! 曙光 177 前半 また少し久しぶりになってしまいました、曙光です。 引用にも出てきていますが、コメントしたがる奴って何なんでしょうね。 「
祖先に対する批判
新しい世代は、祖先の見解を取り入れたばかりでなく、可能な場合には一層激しく取り扱うことによって、自分を感じはじめた。祖先に対する批判は、当時は悪徳であった。現在では年少の理想主義者たちは、批判ではじめる。 曙光 176 後半 あまりにも現実というものを軽視していることが、迷いの原因です。 普段現実だと思っていることは、様々な情報に起因
商人文化の根本思想
個人的な競争が古代ギリシア人にとって精髄であり、戦争や、勝利や法がローマ人にとって精髄であったのと同じように、商業が精髄である社会の文化が成立しつつあるのを、われわれは今日幾重にも見る。商人は一切ものを作ることなしに評価し、しかも彼自身の個人的な需要に応じてではなく、消費者の需要に応じて評価することを心得ている。「誰がどれだけこれを消
商業社会の道徳的流行
現在の道徳的流行の原則― 「道徳的な行為とは、他人に対する同情心の行為である」― の背後に、恐怖心という社会的な衝動が支配するのを、私は見てとる。 曙光 174 序 某産業団体の「裏役員(決して怪しい存在ではありません)」をしているため、先日、自己啓発に洗脳された人から、当該師匠をセミナー講師として、起用して欲しいという説得をされまし
労働の讃美者
「労働」が称賛され「労働の祝福」について倦まず語られる場合、私は公益的であって個人的でない行為が賞讃される時と同じ底意を見てとる。あらゆる個人的なものに対する恐怖という底意を。 曙光 173 前半 労働自体がよく賞賛されることがありますが、そうした労働を含め、社会的な物事においては、個人的な利益よりも公益のほうが賞賛される傾向にありま
悲劇と音楽
たとえばアイスキュロスの時代のギリシア人のように、心情の根本的な調子が戦闘的である人々は、なかなか感動しない。しかし同情が一度彼らの厳しさに打ち勝つと、それは彼らを夢うつつのように、「魔物の力」のように感動させる。 曙光 172 前半 アイスキュロスは、古代アテナイの三大悲劇詩人の一人とされ、悲劇を確立させたとされる人のようです。 さ
近代人の養育
すべてを食べる人間は、一番上等の種ではない。 曙光 171 中 うまい飯屋を「知っているだけの人」の類については、さんざん触れてきました。 しかし、味覚など本人の感性しだいであり、結局は頭の中で合成しているだけのことです。錯覚させようと思えばできてしまうことです。 しかし錯覚させなくても、たとえば白米や塩などであっても、よくよく味わう
感情の別な見通し
ギリシア人についてわれわれは何とたわいのない話をしていることだろう!彼らの芸術について、一体われわれは何が分かっているのだろう。その芸術の魂は― 男性の裸体美に対する情熱である!そこからはじめて彼らは女性の美を感じた。したがって彼らは女性美に対して、われわれとは全く別の見通しを持っていた。そして彼らの女性に対する愛も類似した関係にある
われわれが極めて疎いギリシア的なもの
東洋的であれ近代的であれ、アジア的であれヨーロッパ的であれ、これらすべてのものは、ギリシア的なものと比較すると、嵩高(かさだか)なことや、崇高なものの表現としての巨大な量を楽しむことが、特有なことである。われわれは、ペストゥムやポムペイや、アテナイにおいて、またギリシア建築術全体の前において、ギリシア人が、どんなに小さな量で何か崇高な
ひとつの模範
私はトゥキュディデスのどこを愛するのか?私が彼をプラトンよりも深く尊敬する原因は何か?― 彼は人間と出来事のあらゆる典型的なものに、最も広範囲で最も偏見のない喜びを感じ、そしてどの典型にも、ある量のよい理性が属していることを見出す。これを、彼は発見しようと努める。彼はプラトンよりも大きな実際的な公正さを持っている。 曙光 168 前半
無条件の忠誠の誓い
車の免許を取るために自動車教習所に行った時のことです。 「はいはい」と返事すると、「『はい』は一回でええんや!」と中尾彬調の教官に叱られたことがあります。なぜ叱られたのはよくわかりません。 だれにでも同じことを言っているのならいいですが、おそらく教習生などにしか言っていないでしょう。相手がそこそこの大人ならきっと言っていないはずです。
去就に迷う
去就に迷う。 ー 「この仕事はやっていられないが、食い扶持が無くなるのは困る」、さあどうするか。 世間でもよくありがちな「身の上をどうするか」というこの命題に対しての回答は、「すぐに辞めろ」です。 イライラや焦燥感、恐れなどを解消するために稼いでいるのに、その稼業によって、イライラや焦燥感などが出てきているのならば、もっと良い仕事を探
いかなる道徳が退屈させないか
道徳の時間というのは他の授業とは異なり、変な空気感が出ます。それはやはり道徳というものは人生にストレートに関わることであり、ギムキョの偽善をひしひしと感じる時間であるからです。基本的に何かの教材を使って、自分たちの思想を教え込もうとしますが、やはり多感なティーンにはそれが偽善に映ってしまい、本来の目的からは逆行した結果が生じることがあ
多分早すぎる
一昔前までは知りたくても知れない、調べようにもなかなか調べられない、よって自分塾を開き、自問自答するしかないという感じでしたが、最近では小学生でもiPadを持っています。自分が思春期の頃にはそういったものがありませんでした。 知りたくてもなかなか調べることが出来ない、調べようとしても調べ方すらわからない、という状態は自問自答力を鍛え、
ルソーに反対
われわれの文明は何かあわれむべきものそれ自体を持つということが真であるなら、ルソーとともに「このあわれむ文明はわれわれの劣った道徳に対して責任がある」と結論を続けるか、あるいはルソーに反対して次のように逆の結論を出すかは、諸君のお好み次第である。 「われわれのすぐれた道徳は文明のこれらあわれむべき状態に対して責任がある。善悪に関するわ

現代人の皮肉
日下一切の大きな関心事を皮肉に取り扱うのが、ヨーロッパ人たちの流儀である。彼らはそれらの仕事に忙しいため、それらを真面目に考える暇がないからである。 曙光 162 現代人の皮肉ということで、京都人の皮肉やそうした京都における皮肉の本意などについて触れていきます。 先日、パスカルの「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである」とい
時代に適した美
時代に適した美ということで「平安美人」という言葉が、現代では侮蔑に使われることもあるように、時代時代で美しさの基準は変化していきます。ある程度の「調和」という意味で一定の傾向はあるものの、一応変化していきます。 つい先日も触れましたが、間違っても80年代だけは繰り返してはいけません。いつまでも美しいとされるようなものはたまにありますが
見え坊で、けちで、賢くない
諸君の欲望は知性よりも大きく、諸君の虚栄心は欲望よりもさらに大きい。― そうした諸君のような人間には、かなり多くのキリスト教的な実践と、それに加えてわずかばかりのショーペンハウアー的な理論が徹頭徹尾おすすめできる! 曙光 160 見え坊は見栄っ張りを指し、外面・外見をよく飾ることで人からよく思われようとすることであるため、人の虚栄心に

死者を復活させるもの
御存知の通り、自分の生まれ年(1983年)付近のものには身体からアレルギー反応が出ます。「80年代の匂いがするものはすべて抹消する」という思いは未だに消えていません。 80年代のすべてがダメというわけではありませんが、せっかく一度は死んでくれたあの「寒気を催す流行」をまた繰り返そうと何とか頑張る人たちを見ると、それだけで嫌いになります
お世辞屋の風土
卑劣なお世辞屋は、現在もはや君主の近くに求めてはならない。― 君主は全て軍人趣味である。お世辞屋はこの趣味に反する。しかし銀行家と芸術家の近くでは、あの花は今でも相変わらず花盛りである。 曙光 158 卑劣なお世辞屋の典型例はもちろん保険屋ですが、大昔に「お互いに褒めあうと良い」というようなテレビの特集があったのを今思い出しました。
「自然音」の礼拝
自然音がリラックスするというのはよくあるケースです。自然界にある音は、耳に入っても特に気に触りません。それどころか自然を感じられて穏やかな気持になってきたりもします。以前少し触れましたが、逆に不自然な機械音はイラッとしてきます。「ピッ」系ですね。 しかしその中間である、自然的な音でありながら、自然界ではほとんどありえない音というものが
不遜ゆえの悪
無駄に遜ることも、とどのつまりは「慢」であり、何かに上下、同列を考えてのことです。上下を意識することのみならず、同じだと考えることも結局は何かの基準をもって選び分けているのですから。もういう判別はもう手放したほうがいいでしょう。特に人に主張しても結局は「だからどうした」です。 不遜ゆえの悪ということで遜ることと「図々しいため相手が先に
消えた懐疑
古代人は― われわれと違って― 来るものに関してというよりもむしろ、現にあるものに関してはるかに懐疑的であった。 曙光 155 後半抜粋 「過去にとらわれずに」に続く言葉は「未来型思考でいこう」という場合が多いでしょう。またもや二元論化です。「ゆく年くる年」と聞いても、「え、今は?」とはならないでしょう。 現にあるものに懐疑的というこ
危機に瀕した者の慰め
どれだけのことが起こっても、慰めというものは必要ありません。起こった現象はすぐに消えすでに記憶になっています。記憶によって自爆しているのだから、何か他のもので埋めようとする必要はありません。 急激な危機に瀕する時は必死で目の前に対応しているだけで勝手に終わります。終わらなくても何かの結果を残して終わります。終わらなくても死んで終わりで
不平家
それは、あの古い勇者の一人である。文明が彼の癪にさわる。文明は一切のよいもの、名誉、富、美人を ― 臆病者の手にも入り得るようにする、と彼は考えるからである。 曙光 153 不平家ということで、不平について触れていきます。不平とは何かを不満に思っていて、心が穏やかではないことを意味しますが、その奥には、不平等としての「公平ではない」と
宣誓のひな型
「今私が嘘を言うなら、もはや私は決して真面目な人間ではない。誰でも私に面と向かってそういってよろしい。」―私はこのひな型を、法廷の宣誓とその際しきたりである神への呼びかけとの代わりにおすすめする。この方が強い。信心深い人でも、これに反する理由は持たない。 曙光 152 前半抜粋 宣誓とは、もちろん誓いの言葉を述べることであり、主に「誠
ここで新しい理想がつくられる
恋愛状態のとき、自己の人生の決断を下したり、激しい気まぐれのために自己の伴侶の性格を断然決定してしまったりすることは、許されるべきことではない。われわれは、愛人同志の誓いを公に無効であると宣言し、彼らに結婚を許さないようにするべきであろう。 曙光 151 前半抜粋 性格も傾向はある程度固定的なものであっても、表に現れる行動などは一様で
結婚の偶然
「まだひとりぼっち?」というような広告がよく出ます。まだどころか全存在は永久に独りです。独りでないかのように感じるのは錯覚ですから、独りであっても、誰かといても、結局は独りなのだ、と肝に銘じるどころかそれが自然です。 好きな人がいればその人と結婚すればいいですが、「出会いがないけど結婚がしたい」という人は、今一度自分がどういう理屈でそ
小さな逸れた行為が必要である
オリジナルや個性という言葉がすごいことかのように取り扱われ、平均的な生活から「少しはみ出そうと」躍起になりつつも、自分塾を正しく開いてこなかった場合には、「オリジナルだ」と主張するようなものを創作したとしても、絶望するほどチンケなものになります。 楽器人生 さて、個人的に楽器をやり始めたのは、詳しく言えば幼稚園くらいですが、ベースなど