今年に入ってから爆読みしたもののひとつに楳図かずお氏の恐怖マンガがあります。
楳図かずお氏にはあまり馴染みがなかったのですが、「なるべくたくさんの一流に触れる」ということで、一気にたくさん読んでみました。
基本的にグリム童話系のマンガはあまり好きではなく、特にひどく残虐であればそれでいいというような描写は好みではありません。
楳図かずお作品も「その延長にある中の一流のもの」かと思っていましたが、良い意味で予想外に素晴らしく洗練された作品となっていました(とりわけ「イアラ」の「わび」は良い鍛錬となるでしょう)。
「この世のものではないもの」であろうが慈悲のこころを
そういえば先日また水木しげるロードに再訪問したりということを含め妖怪や「この世のものではないもの系」が意識の中に入ってくる機会が増えているような気がします。
とはいっても、それらに取り憑かれたような人たちが捉えているような仕方でそれらを捉えているわけではありません。
そんな事を考えていると「この世のものではないものと表現しながらも、この世のものであるからこそこの世で認識しているのではないのか?」といった論理矛盾的なことを考えてしまったりもします。
個人的には仮にそうした「陽世の人にあらず」とされる人が現れたとしても、火の鳥異形編の左近介、というより八百比丘尼のように誰でも慈悲のこころで接すればよいのではないか、と思っています。
「自分に非があるはずがない」という傲り
ともすれば、何かを悪者にし、何かを退治すれば自分の不運が去るというようは考えが起こりがちです。そして、その奥には「自分に非があるはずがない」という傲り、保身、居直りがあるという感じになっています。
まあ確かに客観的に見ればそれが人であれ、人ではないものであれ誰かのせいのように見えることであっても、最低限自分の意識の中、解釈の仕方、認知のあり方については自分自身で責任を持たねばなりません。
それは、客観的なジャッジはジャッジで置いておいて、少なくとも自分の気分くらいはできる限り良好に保っておくということに対する責任です。
「良好な状態である自分ならば些細なことは気にしない」という感じなのであれば、少なくとも現状の中で最高の状態を作っておく、という部分には責任を持つという感じです。
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陽世の人にあらず。
狂乱にある人もまた陽世の人にあらず。
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