令和という時代になってからというもの、「ギムキョな感じ」がどんどんしてきました。義務教育の成れの果てとしか表現できないような、人を制限すること、人に負担させることしかできず、創造性に欠けているような方法論が蔓延しています。
まあ大体はみんなで目標を達成しよう系のものが出てきた時は、何かしら反発がありそうな取り決めの前フリだと思っておくほうが賢明です。
「こうですよね?あなたもそう思いますよね?じゃあこうしましょう」
という交渉の仕方です。
まあそうしたものは昔からありますが、愚化され飼い慣らされたということなのか、「うーん…」となりながら「すぐに応じる」という感じになっています。
頓智をきかせるという方法論
こうした時に取りうる手段はいくつもあります。
想像に容易いのは反抗、反発のようなものですが、「頓智をきかせる」というのが最も面白い方法論であると思っています。
世の中には権限等の問題で「どうしても何ともならない」ということが起こったりもします。
「声を上げること」が効くこともありますが効かないこともあります。
「声を上げること」という選択肢を選択した人たちは、まあそうしたやり方が最適であると思っているか、それしか方法論はないと思っているか、という感じなのでしょう。それはそれで構いません。
しかし、きっとマインドコントロール下にあるのであろう某国際機関の「世界の敵」と称されている人も、結局降板しないように、声を上げても通じないという場合が結構あります(今後どうなるのかは知りません)。
こうしたことは、古今東西の統治機構における構造も同じで、苦しむ民が「声を上げるだけ」では何ともならなかったのと同じです。
という中、やはりそうした人たちに対して「何とかうまく切り抜ける術を」ということを考えた人たちもいます。
一応決まっていて変えられないことをどう取り扱うかというところに頓智をきかせた人たちです。
作品に登場する頓智
こうした頓智は、様々な作品にも登場します。
「何とかしてあげたいなぁ」と思った時に知恵を出すという感じです。ヴェニスの商人のオチなどがその代表例でしょう。
「正規取り扱いの上ではやむなし、となるが、何とかしてみよう」
という感じですね。
実際の社会においてもそうした例はたくさんあります。尊属殺法定刑違憲事件もそのひとつになるでしょう。
基準をすり抜ける方法の利用
そう言えば、高校生の時に同級生の一人が卒業時のテストでいわゆる赤点となり、留年になりかけつつ、予備のテストを受けたときのことです。
再テストでクリアできれば卒業できるということでしたが、やはりそのテストでも同級生は基準をクリアできませんでした。
と、なるところですが、担当の先生が配点を操作し、正解している5点問題を15点と設定し直したりして、卒業させてくれたということがありました。
頓智とまではいかないかもしれませんが、そうした基準をすり抜ける方法を用いてくれたわけです。
ところが近年は決まったことについてガチガチの感があります。まさに令和という感じです。
しかし、そんな時こそ機転の利かせどころであると思っています。
決まっていても実質的には意味がない取り決め
そういえば母校でバイクが禁止されている中、信号待ちで先生とばったり会ってしまった時のことです。
お互いに「あぅ!」「あぅ!」となりました。
ここでこれが小説なら、先生側が「私には見えない」という感じで、「鳥が飛んでいるなぁ」などとつぶやいて見逃されるところかもしれませんが、普通に呼び出され停学になってしまいました。
その時に「決まりで卒業まで免許証は預かっておくことになっているから」と免許証を引き渡すことを要求されました。
しかし、「いいですよ再発行しますから」と言うと、「まあそれもできてしまうから仕方がない。じゃあ免許証は持っていなさい」という感じで取り上げられること無く終わりました。
機転を利かせ「一応守っていますよ」でお客を大事に
という感じなので、相手が独占禁止法上のカルテルをすり抜けるために官製カルテルを使うのであれば、商人は頓智をきかせてお客を大事にすれば良いのです。
ユニバーサル何とかは、事業者が寡占であるため、代替手段が少なくという感じで難しいですが、「環境に託けた有料化」については、いくらでも「機転の利かせ」によってすり抜けることができます。
「料金はいただく」ということで決まっていることを守りつつも、難癖つけて同額の料金を値引くということもできますからね。
こんな時こそ「令」の空間からたくさんの人々を救い出す知恵を持つ人が現れるはずです。
「いや、一応守っていますよ」
と笑いながら、それに苦しむ人達を庇う知恵者が現れることを楽しみにしています。
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令和こそ機知に富みたれ。
見る所を忍びざるは、人たるものの心なるべければ。
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