生きていると嫌な人と出会ってしまう機会がたまにあります。「趣味が合わない」という程度ならばいいですが、「脳が焼け焦げているのではないか?」と思うほどに多少気が狂れているような人や、周りが見えず自分の快楽だけを追求する傍迷惑な人、アラ探しや侮蔑等々により事あるごとに気力を奪おうする人など、多種多様な人と出くわしてしまう可能性は常にあります。
これらは怨憎会苦という「思い通りにならない苦しみ」です。そうなると怨憎会苦から逃れようと「何でも受け入れる人になろう」とか「人と会わないようにしよう」とか、そんなことを考えてしまう人もいるかもしれません。
しかしながら、嫌なやつは嫌なやつであり、明らかに嫌なやつであるというケースもたくさんあります。「自分には寛容さがないのかなぁ」と自分に責任を感じすぎて我慢しすぎたりというのも変ですし、嫌な奴に影響を受けて自分の行動が制限されるというのも変な話です。
そういうわけで、嫌な人との向き合い方のひとつとして、嫌な奴の嫌な部分を爆笑してしまうという捉え方について触れていこうと思います。
変なやつの変な部分をどう捉えるか
まず極めて軽い事例ですが、iPhone6が発売された頃、家電屋に行ったときのことです。
僕は電話としてスマートフォンを使わないので、当然のごとく別の物(確か法人用ガラケーの充電器か何かだったと思います)を買いに行ったのですが、目を合わせるなり「iPhone6はこちらです!」と言われてしまいました。
それ自体は相手もご商売なのでそれで良いのですが、再度僕に話しかけるように「ささ、iPhone6はこちらです!」と言われたので、「あ、いや違うんですけど」と言うと、ふくれっ面で無視して別のお客にまた声をかけだしたりするのでした。
「なんですかこいつは?」
と思ってしまったのですが、ブラック研修か何かを受けて、「目標をセンターに入れてスイッチ、目標をセンターに入れてスイッチ」とつぶやく碇シンジのようになっている状態だったのでしょう(わからない人もいると思いますがご容赦ください)。
ということを思うと、その店員のことが面白くなってきました。
客商売としてはもちろん失格ですし、「脳が焼け焦げている」と言う感じがしましたが、まあそれほど嫌な気分にもならずに済んだという感じでした。
自撮りのために道を封鎖する人たち
また、京都にありがちなケースですが、レンタル物の着物などを着て道を封鎖し、自撮りをしている人たちに出くわすことがあります。
「少し端に寄ればいいのになぁ」と思うこともありますが、観光名所を背景にという点でベストポジションということなのか、最も他の通行人の邪魔になるところに陣取ったりしていることがよくあります。
普通に考えると少しムッとしてしまいそうなものですが、こんな時に有効的なのは「愛は地球を何とか」に出てくるようなエピソードです。
少し物議を醸し出してしまうようなことかもしれませんが、解釈だけの問題なので話を続けましょう。
この人達が単なる若者であれば「ムッ」としてしまうかもしれないものの、もしこの人達が少し前まで大きな病気をしていたとか大怪我をしていたとかそうした経緯があったものの、「手術が成功してようやく普通の若者らしいことが出来るようになって青春を取り戻している」というようなシーンだったとすれば、わずかながら「ムッ」がマシになります。
もちろん事実は違うかもしれませんが、そうである可能性は少なからずあるわけです。
これはもちろん、実際にそうしたケースにある人達をどうこう解釈するわけではなく、「自分の解釈の仕方」としては、前提がどうあるかによって変化してしまうという朧げな点があるという点をうまく使った感情の操作方法です。
端的には、「ああ、この間まではこんなことはできないような人たちだったのだから、今一生懸命青春を取り返していらっしゃるのだろうなぁ」と思って、ほくそ笑むというような感じです。少し京都的なやり方かもしれません。
「昨年の夏は輪になって踊っていらっしゃったのだろう」
と思っておけば、多少は気が楽になります。
一般感覚でいうと「周りが見えず自分の快楽だけを追求している傍迷惑なやつ」という感じになってしまいます。
それはそれで客観的な社会関係性の上では問題として取り扱っていくこともできますが、主観的な感情の領域では自分の心に「苦しみ」を受け取らないためにいかようにも解釈できてしまうということになります。
侮蔑により気力を奪おうする行為は爆笑の対象
これは聞いた話ですが、店舗の店先で商品を組み立てたり梱包していたりすると、急に「君、下手くそやな!」と言ってきたりするようなおじさんがいたりするそうです。
自尊心が欠落し、アラ探しをしたり侮蔑をしたりして自尊心を回復させようとしているのでしょう。
そこで、「じゃあやめときますか?」とか「じゃあ、他のお店に行ったらどうですか?」と言ってみたりすると
「いや、見守っといたるわ」
などと言ってきたりするそうです。
その上で、「値段だけは一人前やな」などと言ってきたりするので、再度「じゃあやめときますか?」と言うと
「いや今回だけは勘弁しておいてやる」
などと言ってきたりするそうです。
ここまでくるとコントとしか思えません。
おそらく誰からも嫌われ、友だちもおらず、「どこの店でも疎まれるので流れ着いて一見さんとしてやってきた」という感じも容易に推測できます。
「これでもか!」というほどの一種の人間国宝級の性格の悪さであり、嫌な奴の代表例のようなおじさんです。
しかしながらこれは「どう料理するか?」というディレクターとしての役割を求められていると考えることができます。
「どう返せばより面白くなっていくか?」ということを考えて楽しんでいくことができますし、そのやり取りは友だちへの土産話としても最適です。
中途半端に考えてしまうと、嫌なやつの嫌な空間に飲まれてしまいます。
ここで「煽ってさらに毒を吐き出させる」ということも一種のカタルシスを利用したカウンセリングとなりえます。
そうなると演出的な面白さだけでなく嫌なやつの心を支えるという一種の社会正義にすらなり得るということです。
相手に合わせて相手の押しを受け入れている場合ではありません。
どこまで限界領域で横暴なセリフを吐き出させることができるかということを楽しんでやればいいのです。
こういうときには相手が横暴になり暴力的にならないかを心配する人もいるでしょう。
しかし、限界を超えて横暴になってきた場合、つまり恐喝まがいの状況になってきたりした場合には、次のような戦術があります。
「そこの防犯カメラ、録音機能も付いてるんですよ」
きっとそう言うと、たいていの相手はたじろいで何かしらモジモジと言い訳をしながら去っていくでしょう。
というところまで脚本を書いても面白いですし、そうなると、「たまには変なやつとか思いっきり嫌なやつでもやってこいよ~」と出会うことを楽しみにしてしまったりするようになるでしょう。
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