「同じ」であることを根拠に「団体に入りませんかと」勧誘してこようという試みに何度かあったことがあります。
ある点についての考え方が同じである、ということから、そうした点についての社会活動をしている団体に加入し、一緒に活動しようというようなお誘いです。
しかし、考えが同じでも行動の選択まで同じであるかはまた別次元の話です。
本当に意見が「同じ」ならまだいいですが、「理解」しただけで、団体加入に誘ってきます。
一部の団体には属していたりしますが、なるべく煩わしいものからは避けて暮らしたいという気持ちがあるので、ほとんどの場合お断りしています。
たいていは運営者の金銭的利益目的だったり、よくわからない信念による駆り立てのものが多いので、あまり嬉しいものではありません。
理念の共有
三流のコンサルというか、自己啓発に触発されたコンサルという名の宗教家は「一流の会社はしっかりした経営理念を持っている」と言います。
それが「本当に思っていることなのか」とか「しっかりしたものなのか」ということは別にして、そうした経営理念などブラック企業だって持っています。しかも歯の浮くような立派な格言を掲げています。
それを大声で唱えることを強制します。
経営理念を持つことは、あまり関係ありません。
確かに会社の方向性を示すのはいいのかもしれませんが、絶対的ではありません。
基本的に社長がすぐに入れ替わるような会社なら、あったほうがいいのかもしれませんね。
それ以外は社長の人柄が全てを決めるような気がします。
同じ/個性はそんなに重要か?
体育会系、というか儒教的思想下の組織形成の際には、やたらに「同じ」が重要視されます。
そこには個性がいらないどころか、個性は邪魔者になります。
義務教育は、儒教的思想が色濃く反映されているので、それを排除しようとします。
「なぜ同じでなくてはならないのですか?」と聞かれても答えられないのに、暴力的に強制してきます。
会社の中で個性を武器にしようとする人
一方、逆に「個性」を会社に持ち出す人がいます。
残念ながら、一部の個性は抑えていただかなくてはなりません。
「個性的な人」が評価されるということを盲信して、会社の中で個性を武器にしようとする人がいます。
会社には会社の個性があります。
個人の個性を全面に押し出す場合は、会社に勤めてはいけません。
自営業者などになってください。
その職業選択の決定権は与えられているのに、会社に文句を言う人がいます。
そういう人は、素早くクビにしなくてはなりません。
それが経営者のひとつの仕事です。
生徒手帳に書いてある校則
以前の「同じ」では、昔の論争相手との仲を少し思い返しました。
思い返せば、思考鍛錬というかディベート、論争の原点は、中学生の時の3年間の間にかなり基礎が出来上がりました。
テーマはほとんどが「生徒手帳に書いてある校則」です。
普通、大人や同級生の気を引くため、とか、鬱憤を晴らすためという理由と勘違いされそうですが、僕は純粋にその「立法意思」と運用のされ方について、疑問を晴らしたいという方が適切な感じでした。
「なぜ逆らう?」と聞かれても、それはよくわからないものが定まっているからで、定めがなければ逆らいようもありません。
裁判でも実際の訴えがなければ、法律自体の解釈が問われることはありません。
法律ができても事件にならなければ、「判例」というものは当然に出来上がらず、条文自体の解釈や、憲法との適合性も問われません。
僕はこれと同じ構図を作るために、たびたび事件を起こすのでした。
そこで繰り返された問答は、その後の僕を楽しいストーリーへと導いてくれました。
「相手の決定権」を前提とした戦い方
それは義務教育だから許されることであって、私的企業なら許されないかもしれません。
ところが僕は勤め先でも同じようなことをしていました。
ほとんど勝ちましたが、論争に勝っても様々な決定権はたいてい相手にあります。
そこで、僕は完全に勝つために、その「相手の決定権」を前提とした戦い方も覚えるようになります。
実利が欲しかったというより、思考の戦いがしたかったのでしょう。
今は、そんなことはしませんが、その時の楽しかった経験は、やはり貴重な財産です。
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