強い仲間意識で結ばれた間柄

いつまでも周りには誰かしら友だちがいるだろうと思いきや、社会生活の中での区切りごとにそうした友人知人はどんどん姿を消していきます。

強い仲間意識で結ばれた間柄というと基本的にはかなり長い間親しく付き合いのある親友たちということになりますが、こうした友人たちとは別に仕事上におけるプロ同士の仲間意識のようなものもあったりします。

今ではあまり積極的に人に会うことはありませんが、それでも先日名刺のストックが切れたので、会っていないようで会っているという事実に気づいたりしました。

しかしながらそれら関係の人は、付き合い自体が浅いのでもはや知人とすら呼べない関係程度だったりもします。

同級生や同期社員といったものを代表例として、ある期間だけ何かしらの理由により「約束をしなくても顔を合わせる機会があったからこそ付き合いがあった」というだけの人たちもたくさんいて、それら人々はある区切りと共に関係が消えていったりします。

「自分と相手を繋ぐもの」が消えた途端に繋がりも仲間意識も消えるというような感じです。

人との関係性の強さは、差別や執著、そしてそれらからくる苦しみを生み出したりもします。仲間意識が強すぎると排他的になり排斥行動を起こしやすくなるという面もあります。しかしながら、洗脳やマインドコントロールのような類は、意図的に交友関係を切るように勧め、周りとの関係性を薄くしたりするので、あまりにも「強い仲間意識で結ばれた間柄」がないと、それはそれで危険なのかもしれません。

関係性の維持を意図して飲み込む言葉

仲間意識というと同じ会社、同じ業界、異業種であれ互いにプロ、といったようなものから生まれるものもあるものの基本的には友人関係がベースとなります。

そんな「友だち」といった意識が基本にはなりますが、

「それを言ってしまうと友だちが友だちではなくなってしまう」

ということで、弟子(仮)周りの若い人たちに話を聞くと関係性の維持を意図して言葉を飲み込むケースが多いようで、友だちという友だち、親友という親友がいないような感じがよくあるそうです。

「それ言ってしまうと…」という面については、こちらが打ち明けるようなものと、相手へのツッコミというものと、その両方のようです。

自己開示のリスク

まあその要因の一つとしては、現代における「自己開示をしたら、ちょっと喧嘩になった時に、ネット空間で晒し者にされるかもしれないというリスクがある」という恐怖から、本音を言わないという感じの構造が挙げられるということになっているようです。

そして一方で「気に食わなければ次」というような流動性の高さも要因となっているのではないかと思います。

しかしながら、別に晒し者的な感じにしても、そうしたリスクは「手紙の回し読み」などで昔からあります。なので、無駄な恐れだと思っています。まあ面倒なのは、「それを友人がかばってくれる」というようなリアルな操作がしにくいという点くらいでしょう。

群れと仲間と友人

そんなことを思うと近年の「若手ベンチャー企業」みたいな組織における仲間意識についてふと考えたりします。そうしたベンチャー企業は、大学のサークルの延長みたいな感じで、親友という親友がいない人たちが、何かしらの「ごっこ」をしているような雰囲気を持った企業が多いような気がします。

仲が良さそうなのはいいですが、そんな感じの関係性がその後10年、20年続くようなことを期待するほうが無理があります。

構成員が大学を出たりしてそこそこの20代の人達なので、異性との接触を含めた「群れ」の方を中心として活動しているように見えることがよくあります。仲間といえば仲間ですが、深い部分での友情というものはなく、孤立感、孤独感に対する相互補償関係を求めてというような感じがしてしまいます。

まあ弟子(仮)も出会った当初はその口でした。

「ワンピースに憧れてるんか?」

と聞くと、顔を真赤にしていました。

自分と相手をつなぐもの

群れと仲間と友人というものを分類するには結構簡単で、自分と相手を繋ぎ止めていたものが消えた後でも関係が続くかどうかというような部分になると思います。

ある会合で顔を合わせて名刺交換して少し話してというだけの関係だった人は、いわばその「会合」というものが自分と相手をつないでいたものになりますし、同級生であれば学校、同僚や上司や部下であれば職場という「特段個別に約束をしなくても顔を合わせたりする場」によって自分と相手はつながっていたということになります。

どこかしら食事に行ったりするという場合でも、そうした場があったからこそという感じで「既に顔は合わせているし、今からすぐに行く」という手軽さがあったからこそという感じになります。

そうした「自分と相手をつなぐもの」が消えた後でも繋がりがあるというのが友人たちであり、気兼ねなしに付き合うことができるというのが親友という感じになるでしょう。

苦しみを共にするのではなく喜びを共にすることが…

一応、ニーチェは「苦しみを共にするのではなく、喜びを共にすることが友人を作る」みたいなことを言っていたりします。

ニーチェのことなので、「友人」というものに「うふふ」という感じを含ませているような気がしたりもします。

やはり苦楽を共にした人たちほど「強い仲間意識で結ばれた間柄」ということになると思いますが、確かに苦しみを共にするということで「関わらないでおこう」と去っていった人たちもいます。

まあ例を挙げれば、3人対20人で囲まれた時に一緒だった一人とは親友ですが、もうひとりとはその事件以降会っていません。

「苦しみを共にするのではなく、喜びを共にすることが」

というフレーズは曖昧で、いろいろな見方をすることができます。

喜びを共にするという面を「喜び度合い」で考えてみた場合、言葉を飲み込んでいるということは、互いのコミュニケーションに制限があって、喜びにもリミッターが掛かっているという意味で友人にはなりえないという意味を含んでいるのかもしれません。

逆から表現すれば、鬱屈した状態は苦しみであるため友人になりえないということになるでしょう。

しかし、根本的に友人というものの定義自体が曖昧なので、友人を作ること自体がよいかどうかもわかりません。

そして、まあ「超人」から考えれば、不服ながらも嫉妬を隠し、耐え忍びながら「我こそが」というような奴隷精神よりも、強者の精神の方を称賛するというような感じで斜めから表現したのかもしれません。

逆境のときの友人

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