以前に触れたことがありましたが、僕が膨大な量の書物を読み漁るようになったきっかけは、18歳の時の彼女からの宗教勧誘でした。
もちろんそれだけではありませんが、その時人生屈指の集中力を持って考え、考えた結果宗教の教義に対して「価値観が合わない」と話すと大泣きされたという出来事がその後の人生観を大きく変えてしまいました。
そしてまた近頃になっては、20代の初めの頃に親友に宗教勧誘をされたことを思い出します。
特に思い出す必要もないのですが、ただ単なる春先の思い出を記した「洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた」にやたらとアクセスが集中しているので、思い出してしまいました。ということで、「そんな事もあったなぁ」ということをあえて形に残しておきます。
なお、「カルト」には分類として宗教カルト、政治カルト、マルチネットワークなどの商業カルト、そして自己啓発セミナーなどの教育カルトなどがあります。
カルト宗教というと、新興宗教とか原理主義などを意味しそうですが、人を傷つけ人生を台無しにするような洗脳&搾取宗教や、原理主義過激派のようなテロリスト集団は破壊的カルト宗教として若干呼称を変える必要がありますし、強制的な洗脳までいかなくても様々なマインドコントロールを行っているところについては洗脳カルト宗教と呼ぶにふさわしいでしょう。
しかし、何をもってカルト宗教とするかについては、一種の原理主義的な崇拝、信仰があればそれはカルトですし、僕から言わせると霊魂とか天国地獄を持ち出す霊感商法まがいの宗教法人などを含めて、世間一般の宗教の全てがカルト宗教です。
文化や風習などと言いながら、形而上学的領域で人々を脅し、金銭を払わせたり行動をコントロールするような団体は、胡散臭い占い師や霊媒師を含めて全てカルト宗教とみなして良いでしょう。
こうしたカルト全般とマインドコントロールについては、またいつか書くことにして(カルト全般について→カルトの定義)、今回は僕がまだまだ迷いの中にいて、迷いの中にいたからこそ脱マインドコントロールができなかった時の思い出についてでも書いていきます。
18歳の時に宗教勧誘を受けた時の僕は「レベル1」。当時の彼女を泣かせることしかできませんでした。そして親友から宗教勧誘を受けた頃は、多少レベルは上がっていましたが、もちろんまだ迷いの中であり、脱マインドコントロールできるほどの力量はありませんでした。
きっかけは親友からの一本の電話から。
「哲学に詳しい先輩がいるので話してみないか?」という遊びの誘いのような電話からでした。
哲学に詳しい先輩
その頃、地元から若干離れたところに友人は移り住んでいました。
そして、その「哲学に詳しい先輩」も彼が住んでいるところの近くに住んでいるということだったので、ひとまず僕は電車に乗ってその人の家の最寄り駅まで向かいました。
「哲学について何を話すのだろう?」と思いつつ、特に何かを学ぼうという気も無く「どうせボコボコに言い負かして帰ることになるのだろうな」などと思いながら、僕は電車に揺られていました。
駅に着いた僕は友人に到着の連絡を入れました。
すると、十分くらいして「哲学に詳しい先輩」が、友人と二人で車で迎えに来てくれました。
どこかファミレスか何かに行くのだろうと思った僕でしたが、あまり人がいるのも何なのでという感じで、その先輩の家に行くことになりました。
親友は特に哲学に興味など無いタイプだった
さて、よくよく考えてみると、親友は特に哲学に興味など無いタイプでした。
どちらかと言うと、本ばかり読んでいる僕に対して、「あんまり難しいことばっかり考えてると気が狂うぞ」などと、注意してきたようなの人物です。
「難しいことばっかり考えてんと、たまには外で飲もう」などと言いながら、缶ビール片手に長距離の散歩に連れ出すようなタイプでした。
そんな彼が何故か急に「哲学に興味があるのなら哲学に詳しい先輩を紹介するから、一度会って話してみないか?」などと言い出したのです。
思えば若干不可解でしたが、特に拒否するようなことでもないので、話に応じてみたという感じです。
まあ別にどのような人が出てきても、知識比べなら負けるかもしれないものの、最低限ドローに持ち込むくらいは余裕だと思っていましたし、たいていの場合は論破くらいはできると思っていましたので、違和感を感じながらも平常心で駅に向かったという感じでした。
いざ、先輩の家
車で少し走ったところにその先輩の家はありました。ひとまず車庫に入り、車を降りて家の中に入りました。
ガチャ。
「南無〇〇〇〇〇、南無〇〇〇〇〇、南無〇〇〇〇〇…」
「あ、気にしなくていいから」
…
家に入ると、おそらく「哲学に詳しい先輩」のご両親の声と思しき勤行が聞こえてきました。
「二階ね」
そのような感じで、勤行は無視して先輩の部屋に入ることにしました。
「まずい…車で送ってもらったから来た道がわからない…帰り道がわからない…」
内心そのような感じでしたが、
「大丈夫。論破すればいい。今までの書物たちよ、僕に力を貸してくれ。ソクラテスよ、プラトンよ、アリストテレスよ、我に力を授け給え。カントよ、ヘーゲルよ、デカルトよ、我に力を授け給え。ショーペンハウアーよ、ニーチェよ、ウィトゲンシュタインよ、我に力を授け給え…」
というような祈りモードに突入していました。相手が南無〇〇〇〇〇なら、こちらもこちらで祈ってやるという感じでした(もちろん気分的なものですが)。
願いよかなえ!いつの日か!
いきなりですが、「哲学に詳しい先輩」に人生の楽しさや幸福感についてどう思っているか聞かれました。
適当に「観念論的実存主義ってところですかね」
などと言ってかわしてみました。
意味がわかる人なら、そちら方面から攻めてみようと思ったのです。
すると「某書籍」、「某新聞」、「某新聞の海外版的なやつ」を持ってきました。
その中の某新聞の一部分を示して、
「ここにね、カントが出てるよ。カントを読んだことある?」
多分あかんわ、これ…
と思いました。
ということで適当に話して、話を終わらせてしまいました。
僕の中では「早く帰ろう」ということしか頭にありませんでした。
「ところでね、願いってどうやったら叶うと思う?」
「叶う時もあればかなわないときもあるんじゃないですか?願いを持つこと自体が、たいてい何か不足を前提としているんじゃないですか?だから叶ったとしても、感じていた不足が無くなる程度というか…」
「うーんとね、違うの」
「…」
すると彼はおもむろに隣の部屋からプラスチック製簡易型仏壇のようなものを持ってきました。
中には「習字で筆先を整えるために半紙を撫でまくった跡」のような紙が入っていました。
「これにね、願いを書いてお勤めするんだ」
「何でそんな事しなきゃならないんですか?」
「僕はね、これで営業成績がノルマに達したんだ」
「あんまり関係なくないですか?まあ気分的な支えにはなったのかもしれませんが…」
「違うの!ここに書かないとダメなの!」
「書くことが必須なんですか?」
「書いてお勤めしないとダメなの!」
「いや、おかしいでしょう?」
「でもそうなの!」
宗教のマインドコントロールとは恐ろしいものです。
ということで終わらせるために、一気に叩くことにしました。
「じゃあ、その宗教ができる前の人たちはどうしてたんですか?
そのやり方が発明されるまでの大昔の人たちはどうしてたんですか?
今現在生きている人たちで、そのやり方を知らない人たちはどうなんですか?
動物は?植物は?
その願いの叶え方を知らない存在は、空腹を満たすということすら叶わないんですか?」
「本願は叶わないんだ!」
「本願ってなんですか?」
「心の底からの願いさ!」
「じゃあ歴史上の偉人たちも全部紙に書いて仏壇に入れて唱えたりしてたんですか?
カントも?アインシュタインも?そんなわけないじゃないですか。
どっかの法王と会ったとかそんな事を会報誌みたいなやつに書いて権威付けしたりしてるようですが、その法王も同じように唱えてるんですか?」
「…」
「そうして願いを紙に書いて、毎日願いを確認したりすることで意識がそっち向いたりなんかして、その願いが叶いやすくなるというだけかもしれないでしょ?
そうなると、その『方式』だけが正しいということにはならないでしょ?
時代も地域も違う中で、様々な人が様々なことを成し遂げたりしているのだから、あなたの言うそのやり方だけが正しく、そのやり方でないと叶わないなんてことがあり得るはずがない」
そんなやり取りをする僕と「哲学に詳しい先輩」の会話を親友は黙って聞いていました。
そして、ずっと黙っていた彼が、沈黙に耐えかね口を開きました。
「お前はお前の道があるということやな」
まあもう既に「ひとまず帰れればそれでいい」と、そう思っていました。
「少し二人で話してきます」
そんな感じで、ひとまず先輩はさておき親友をベランダに連れ出し、二人で話すことにしました。
「どういうつもりかな?」
「おまえならわかってくれると思って」
「まあ、オレにはわからんわ」
「お前はお前の道があるということで、それでええ」
「二度とこんな真似すんなよ」
「すまんかった。それでもやっぱり、幸せになって欲しかってん」
「これからは『ああ、あの人はああ見えて家では毎日願いを書いた紙に向かって唱えたはるんやなぁ』という目で見られんで。世間はそう見るで。それが一生ついてまわるで。なんかいい話をしたとしても『勧誘の予兆』とみなされるで」
「そらわかってる」
「もちろんオレにもやで」
「しゃあない。わかってる」
「まあ今日のところはまあええわ。今日の話はこれで終わり。さあ帰るで」
錯綜する帰路
そんな感じで、「もうそろそろ帰ります」と先輩に伝え、駅まで送ってもらうことにしました。
そんな帰り際ですら先輩は、「これだけは読んで欲しい」と何かの冊子を渡そうとしてきました。
「いえ、結構です」
そんな感じで冷淡にあしらいながら、駅に到着しました。
先輩は、「こんな僕の話に付き合ってくれてありがとう」と涙目でした。
そして友人は深々と礼をしていました。
深々と頭を下げる彼を一瞥したあと、僕はそれから振り返ること無くホームに向かいました。
―
「『帰依するぞ、帰依するぞ、帰依するぞ』とふざけあった彼とは、もう一生宗教をネタにできないのだな」
そんな思いがまず最初にやってきました。
「今後彼とはどう接していけばいいのだろう?」
そんな課題が出てきました。
「何が哲学に詳しい先輩だ。宗教勧誘じゃないか。人を騙し嵌めるようなことをしやがって」
そのような怒りもやってきました。
「何が彼をそこまで動かしたんだろう?」
そんな疑問も出てきました。
「どんな気持ちで電話をしてきたのだろう?」
そのようなことも考えました。
「彼の目的は何だったのだろう?どんな結末を望んでいたのだろう?」
もちろんそのことを考えると、単に信者集めというような意図だけではないような気がしました。
先輩と結託してマインドコントロールを行い、入信者を増やすというような「単純な数集め」というような感じでもないような気がしました。
「アンチ宗教」の発想が無くなるきっかけに
昔は一緒に今彼が入信している宗教をネタにしていたくらいでした。
しかし彼は変わりました。
彼が入信してしまったプロセスは容易に想像できました。親御さんの一人が信者であり、その宗教のことが原因で両親が離婚し、信者側の親御さんと二人で暮らすようになったことが第一要因です。
その生活の中で、親との絆のようなものと信仰が入り混じったりしながら、気持ちが弱った時に勧められたのでしょう。
「卑怯じゃないか」
そんなことも思いました。
しかしもちろん彼の人生です。彼に任せるしかありません。
そう思う一方、所詮他との関連性で成り立っている「私」の意志決定などあてにならない、関係性で生じるものであるのならば、変更もできるという考え方もあります。
現時点では親御さんとの生活という空間があるため「変更することは難しい」などとも思いました。
しかし、「何かを変えなくてはならない」という願いを持つこと自体が執著であり、こうあって欲しいと思うのは、煩悩でしかありません。
「他人がどうなろうと、どうでもいい」というのとは少し違いますが、この心がどうあるかというのが重要であって、人のことはどうでもいい、そんなことを思いました。だから、ひとまずは相手がカルト宗教であろうが、それが破壊的カルトレベルでない限りとりあえずどうでもいいだろうということを思いました。
そういうわけで、この時に18歳の時の「アンチ宗教」の発想が無くなるきっかけができたという感じです。
そう思うと、苦いような経験でありながら、僕にとって極めて意味のあるような経験でもありました。
それから10年以上経た結果が、「洗脳カルト宗教の勧誘に来た人を逆に説法して脱洗脳を試みた」に表れていることでしょう。
なお、「アンチ宗教」ではありませんが、その理由として憲法等々の「信教の自由」とか信仰の自由のようなものを理由にしているわけではありません。そうなると純粋な哲学的領域より社会における国家の主義や思想のほうが理として優先されるというおかしな構造になるからです。
―
再度強調しておきますが、「他人がどうなろうと、どうでもいい」というのはあくまで、己の心を制するために使いましょう。「他人にはこうあって欲しい」という願いを持つ事自体が、他人の状態を自分の心の状態の条件にすることになるからです。つまり他人に依存することになります。
だから「宗教にハマっている友人・知人の心を変えなくては自分は落ち着かない」という場合、まず制するのは己の心です。
なぜなら結局、友人知人をなんとかしたいという動機自体が「自分の騒ぐ心を落ち着かせたい」という自分都合だからです。
そこで友人・知人を無理やり変えようとか、変わってもらわなくては「自分が困る」という構造なのであれば、ある種「相手のことなど思っていない」ということにもなります。
人のことを思っているようで、結局我が身可愛さが発端です。
しかし、相手の状態に依存しないのであれば、相手が何を信じていようが、何も問題はありません。
ということで、別にアンチ宗教でなくてもいいのです。怒りが生じるならその怒りが自分にとって毒になります。怒りが生じるなら、その考えに自分が影響されてしまったということになります。ということは少なからず依存していることになるのです。もちろん構造としては「己の考え」や意見への執著というものもあります。
そしてそんな感じで起こっている現象は全て内側です。
しかしその内側は分離を前提とすれば「我」という発想になりますが、本来は分離しているわけでもないので慈悲の方向で現象を起こしまえば良いという感じになります。
―
そうなると、結局「人のことはどうでもいい」という状態が、一番人のためにもなってしまうということになりますが、字義的に捉えるとただのエゴイストのように見えます。
しかし、「みんなのために」とか「あの人のために」と言っておきながら、そんな「外界の状態」を条件にしている事自体が、結局自己都合の「騒ぐ心の解決条件」になってしまっているということになります。
そういうわけで、本来簡単なことなのですが、言葉で伝えるのは難しいという感じなので、ほとんどの人には理解できないかもしれません。
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