永遠の葬式

永遠の葬式ということで、葬式の話でもします。

つい昨年の今頃、おばあちゃんが亡くなりました。これで全てのおじいちゃんおばあちゃんが亡くなったという感じです。

ということで、このシーズンになるとおばあちゃんのことを思い出します。

実家建て替えの間、少し離れたところに住んでいたのですが、その頃毎朝おばあちゃんの自転車の後ろに乗って小学校前まで送ってもらっていたことをよく思い出します。

そんなおばあちゃんと最後に観たテレビ番組がブラタモリの「会津磐梯山」の回でした(病室にて)。ということで、なぜか五色沼に行きたくなります。

さて、葬式です。

意図せぬ葬式というのがあったので、僕の3人目のおばあちゃんである向かいに住んでいたおばあちゃんとの思い出についてでも書いていきましょう。

3人目のおばあちゃん

家の向かいに、天涯孤独のおばあちゃんが住んでいました。

既婚者でしたが、子を若くして病で亡くし、旦那も早くに亡くなったということで、僕が物心ついてからずっと独りでした。

で、学校から帰ってきて、家に家族が誰もいないときは、よく弟と一緒にそのおばあちゃんの家に行っていました。

まあおばあちゃんからすれば、僕たちは孫のような存在であり、僕達もまたそのおばあちゃんを「3人目のおばあちゃん」だと思っていました。他人への慈しみ、血縁者以外の人間への慈しみの感覚を最初に教えてくれたのはこの3人目のおばあちゃんだと思っています。

どうせなら貰って欲しいということで、紋付羽織袴をくれたりもしました。

僕が高校生くらいの時から体を壊し、ちょくちょく入院するようになりました。

もう家で寝たきりのような時になった時、僕と弟、母や近所の人がみんなで毎日少しだけお世話に行っていました。

特に何の話をするわけでもなく、ただ手を握るような形でもということで何だかんだで毎日のように行っていました。

僕や弟からすれば3人目のおばあちゃんですからね。

弟はさらに熱心で、車椅子を押して歩いたりと、そんなことをしていました。

で、結局問題となるのは、そのおばあちゃんが亡くなった後のことでした。

弁護士か何かが出てきたようで、遠縁の親戚が相続の手続きにやってきました。

書類のために何度か家までやってきていましたが、事務的に終わり、用が終わると帰っていきました。

ということで、僕は「そんなもんだ」くらいに思っていましたが、弟はその親戚にブチ切れたりしていました。

そんなことがあった後、3人目のおばあちゃんは「こないだハンコをついたけど、次に入院したら、この家が無くなっているとかいうことはないだろうか?」などといらぬ心配をするようになりました。

「大丈夫大丈夫」

と、僕と弟は言いましたが、どうも不安がっていたので、

「もしそんなことになっても、うちの家に住めばいい」

なんてなことを言って、やり過ごすのでした。

日に日に、目が濁り、生命力が弱っていっているのが感じられました。

「恐い」

そんなことを繰り返していました。

僕や弟は、そんなおばあちゃんの手を握るくらいしかできませんでした。

そんな折、経典のようなものを手に持って話しかけてきたのでした。

「うちが死んだら、ちゃんと葬式してね」

そんな感じで何故か僕達がお願いされるのでした。

特に宗派は書きませんが、まあ一般的な宗派です。

それが正しいとか間違っているとかいうよりも、彼女の望みです。

おばあちゃんの最後の望みはしっかり受け止めました。

「ちゃんとやるよ」

そういって彼女を安心させることしか、僕達にはできませんでした。

葬儀当日

その後、3人目のおばあちゃんは亡くなりました。

おばあちゃんには葬式の約束をしたものの、どういったことになっているかは知りませんでした。

まあ弁護士か何かを通じて、遺言か何かの形できちんと執り行われるだろうと思っていました。

ところが、その遠縁の親戚が「○価」だったようで、おばあちゃんの望みは虚しく、「○価」形式の葬式が執り行われました。

そのおばあちゃんの家が式場となっていました。

弟は堪りかねたようで、会場に罵声を浴びせに行っていました。

「オレが遺言の確認をしていれば」

と弟は非常に自分の甘さを悔やんでいました。

といっても、もし遺言と相違する内容であっても、誰にどんな責任が課され、どう処分されるかと言えば、おそらくそれは宙に浮いています。

間もなく、家は処分され、新築になりました。

おそらく親戚が土地を売って完了といった感じでしょう。

確かに、もう既に3人目のおばあちゃんは亡くなっていました。

そして法律上、僕達には何の権限もありません。

相続権のある遠縁の親戚に委ねるくらいしかありません。

既に故人ですから、自分の死後、どうなったかの確認はすることができません。

最後の意志すら叶えられない、そんなこともあるのです。

葬式などただの儀式です。

それとわかっていても何となく後味の悪いことを経験しました。

そうして宗教団体にお金は流れていきます。

まあ生前に一切の世話をせずとも相続資産が入ってきた、というのも彼らとしては「勤行のおかげ」なのでしょう。

そこにカルトの恐ろしいところがあります。

彼らの創る価値は、こうした葬儀マネーなのかもしれません。

永遠の葬式 520


葬式代、戒名代、そして墓にかかる費用、それらは一種の墓場ビジネス、墓場利権でしかありません。霊感商法と変わりないものとなります。

墓場ビジネスと霊感商法

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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