鎖につながれているもの

鎖につながれているすべての精神に注意せよ!たとえば、その運命のために、狭くて見苦しい境遇の虜にされ、そこで老いてゆく賢明な女性たちに注意せよ。 曙光 227 前半

ふとしたことで精神はすぐに鎖に繋がれてしまいます。世の中で良しとされ、みんなが持ちたがるものでも、やがてそれはただ単に手に入れたと言うよりは鎖へと変化していきます。

入りたかった会社に勤めたとしても、欲しかったヴィンテージのギターを手に入れたとしても、それが自分への鎖になります。

「鎖につながれているもの」ということで「絆」と呼ばれるものやネットワーク、そして先代の幻影と言った鎖について触れていきます。

ネットワークという鎖

鎖といえばネットワークです。人と人のつながりといえば聞こえはいいですが、そんなつながりも鎖になります。絆ですね。

世の中では絆が素晴らしいとか、人と人とのつながり、ネットワークがあることは素晴らしいというような風潮がありますが、それは一方で己を縛る鎖であるという側面も持っています。

そうした形のネットワーク、つながりを気にして意見が縛られたり、視野が狭まったりするということもありますし、実質的にそうした柵のせいで身動きが取りにくいということも起こったりします。また、そこまでのつながりではないにしても、「人のことを気にしていないようで気にしている」という感じで、知らぬ間に己の意志決定が制限されているというケースもあります。

絆という大きな束縛

他の人の意見に影響されているようでは、何がしたいのかわかりません。特に人の顔色をうかがって、自分の行動を狭めてしまうということはよくあります。行動自体も、元々はしてもしなくてもいいことです。

しかしながら、人を気にして「したいのにしない」、したくないと自分に言い聞かせるという自己説得はかなりの苦しみでもあります。何かの団体に属することは、それだけで様々な経験が増えることは増えますが、結果的に萎縮していては意味がありません。萎縮してしまうくらいなら早急に離脱することです。

朝まで続く会議への参加

たとえば、飲み会ばかりの同族企業二代目がたくさん属する体育会系集団がありますが、平気で朝の五時まで会議をしたりするそうです。その朝まで会議の経験をしたことがあるかないか、で取引相手にするかどうかというような風潮もあるようです。

特に地方では盛んなようですが、そういうものを日本語で「しがらみ」といいます。しがらみや鎖を、ネットワーク、つながり、絆という風に美化しています。

特に地域に根ざした会社で、しかもリテール(一般消費者向けの小売など)ではなく、企業間取引ばかりの所では、そういったしがらみを活用しなければならないのかもしれません。

しかしながら、親の会社を継いでおいて、そのしがらみも嫌だ、というのならば、はじめから別の会社に行くか、自分で独立すれば良い話です。

そもそも親の会社を継いだ者同士、親の代から続いているしがらみも相続しなければなりません。嫌なら相続放棄することです。

そんなものは鎖以外の何物でもありません。少なくとも僕はそんな生き方をしたくありません。昔からです。

二代目、三代目など

知り合いにもたくさんの二代目、三代目がいますが、ほとんどの方に共通しているのは、腐っているか、もしくは頑張りすぎているかのどちらかです。親などの会社を継いでいるということですが、たいていその方の実力は二極化しています。

なお、地主思想の不動産収益で「何代目」など論外です。彼らはただの既得権益で遊んでいるだけの人たちですので話になりません。あくまで事業を承継している方々のお話です。

特に二代目などを悪く言うつもりはありませんが、「よくそんな苦しくなる生き方を選んだなぁ」と思います。

といっても、自分でその道を選んだと言えば選んだことになりますが、人格の形成の面から考えた場合、そういうふうに育てられてきたという事も考えられますし、本人たちの責任ではない部分もあります。

ただ、自分のしたいことをすることすら諦めさせられ、時に夢すら描くことが許されなかったような感じでもありますが、やはり様々な柵があるような環境に今現在いるというのは苦しいのではないかと思うときがあります。

先代の幻影

二代目三代目というようなタイプの人達は、何をやっても先代と比較される生き方です。良いことをしても「そもそも土台があったから」と評価されず、少し何か失敗すれば「ボンボンはこれだから」と、従業員にも取引先にも思われてしまいます。

まず、そんなことすらやりもせず、思ってもいない人は、腐っていますから論外ですが、頑張っている人も、その頑張りがあまり報われないという意味で「よくそんな苦しくなる生き方を選んだな」と思います。

ただ、そういった比較が嫌ならば、最初からぜんぜん違う地方に行って、まずは独りでやってみたらいいのにと思います。それは非効率かもしれませんが、別事業体で、結果を残して帰ってきたら、まだ印象はマシなのではないかと思います。

先代のコネを使わずになんとか一旗揚げたとしても、それでも「先代の金があったから」と言われることはわかっています。

いつまでも先代の幻影に取り憑かれるような生き方です。二代目には本当はエールを送っています。一代目よりも確実にキツイと思います。

しかし、やはり先代を意識していては、いつまでも幻影に取り憑かれたままです。無理に越えようとしなくてもいいのではないかと思ってしまいますが、先代の作った地盤は、時代遅れの可能性もあります。

その調整だけでも一苦労だと思いますから、せっかく世の中に必要とされている事業なのだから、己のプライドのためではなく、地場産業としての発展を祈っております。

鎖につながれているもの 曙光 227

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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