礼儀の条件

慇懃無礼(いんぎんぶれい)という言葉があるように、丁寧過ぎる対応で逆に相手に対する皮肉を込めているようになってしまうというパターンもあります。

礼儀の条件ということで、礼儀について触れていきますが、これは一種の洗脳であり、意識的な結界でもあります。基本的なマナーというものは「相手を不快にさせない」というものであるはずなのに、礼儀が形式的になった故に、「礼儀がなっていない」という無駄な不快感を呼び起こすものにすらなっています。

礼儀を重んじろというのはミスター脳筋こと孔子が統制のために説いた道徳です。礼儀を重んじるということをもって上下関係を保とうということです。そういう礼儀は無視しても大丈夫です。

ということで、礼儀に関して書いていきます。

礼儀が「相手のため」になるための条件

礼儀が「相手のため」になるための条件として礼儀の目的や機能について考えてみましょう。

「何のための礼儀やマナーなのか?」という点を考えれば、「相手に不快感を与えず、相手との関係を良好にするため」というようなことが浮かび上がってきます。

礼儀の目的は相手との良好な関係であり、そのために相手に不快感を与えない、というようなことになっています。

しかし脳筋体育会系、ミスター脳筋こと孔子が説いた儒教的発想があると、逆に不快感を発動させてしまうということが起こりえますし、同時に礼儀やマナーは単なる上下関係維持のためのツールに成り下がってしまいます。

礼儀が「相手のため」になるための条件としては、その奥にあるものが「上下関係維持」ではなく、双方が不快感なく、快く関係性を築けることであり、「円滑なコミュニケーションとなるように」という意図が必要になります。

しかし、礼儀に対する捉え方しだいで、緊張を生むだけだったり、自己評価を下げたり、「礼儀がなっとらん」と不快感を感じるだけのものとして機能してしまいます。

礼儀が人の意識レベルを下げる

大企業どころかある程度の規模の会社などでは営業担当として配属された時にたいてい礼儀を中心としたマナー研修のようなものがあります。

こうした研修で説かれる礼儀やマナーの教育は「第一印象で嫌われてはもったいない」というようなことを意図するものですが、このマナー研修にはプラスの側面とマイナスの側面があります。

「関西人には関西弁の研修資料を作れ」

というのはさておいて、礼儀を重んじすぎると、かえって営業がうまくいかないということは、経験として実感している人もまあまあいるのではないでしょうか。

他人行儀すぎると相手との距離が縮まらず、緊張状態が続き、表面的な関係だけで終わるというようなものです。

また、謙遜しすぎて自信がないように見えてしまったり、本当に自信をなくしてしまったりというような感じで、交渉において覇気がなくなってしまうというようなことことも起こります。

そのような感じで、あまりに礼儀を気にしすぎると、それが人の意識レベルを下げてしまうということが起こったりします。

礼儀を重んじる人が陥る不快感

相手を不快にさせないための礼儀が、意味なく人をガチガチにしたり、単なる形式になったり、「私は礼儀を勉強したのに、あなたはそれに合わせないってどういうこと?」というような無駄な不快感を呼び起こすということがよくあります。

礼儀を重んじる人は、逆にその礼儀作法への執著によって不快感発動の条件の作っているという感じです。

「礼儀がなっていない」ということで勝手に怒り出すというようなものです。

礼儀やマナーが逆に与える不快感

そしてそうした礼儀に対してうるさいような空気が出たりすると、逆に周りの人にたちに重い空気感を与えることになるので、逆説的に人に迷惑がかかってしまいます。

相手のことを慮り、相手に不快感を与えないためにという目的であるはずの礼儀やマナーと言ったものが逆に不快感を与えてくるという良い例です。

「礼儀がなってない」とか「礼儀やマナーを知らないなんて…」という無駄な不快感のタネも問題ですが、それ以上に問題なのは、礼儀が人の意識レベルを下げてしまうことです。

「客にタメ口」で営業トップ

通常の方程式通りに考えると、礼儀を重んじ、マナーを完璧にこなしている方が得点が高そうですが、意外と「客にタメ口」くらいの人のほうが営業成績がよく、逆に研修ビデオと変わらないくらいに丁寧に話す人が、営業成績で下の方ということはよくあります。

その理由は非常に単純で、「礼儀を重んじすぎるせいで、自分自身への評価を下げてしまう」という現象が起こっているからです。

義務教育的に教え込まれたことをこなすことでやっていけるのは学校です。

しかし営業などなど特に民間レベルでの仕事は、特定の何かをこなせば済むというわけにはいきません。

礼儀を意識しすぎると自分自身への評価を下げてしまう

礼儀を重んじすぎて緊張してしまう、きちんとした礼儀になっているかというところが気になるというのももちろんですが、何より礼儀を意識しすぎることで、自分自身への評価を下げてしまうことが最大の弊害になってしまうのです。

逆に礼儀を気にすらしないような意識レベルの人は、緊張もしないため頭はフル回転する上に、お客側との変なバリアも無くなっていきます。そしてその自信と親近感でお客の心をつかむのです。

それほどすごい相手ではない

礼儀を重んじろなんてな教育がありますが、意図的に相手に失礼なことをして怒らせる必要はないものの、無理に自分を下げてまで丁寧にする必要もありません。

ミスター脳筋である孔子という「自称聖人」は、単に自分が一番上にいたいがために礼儀について語ったにすぎません。

礼儀という意識的結界を作ったから、それに沿わないと変な空気になるだけで、そうしたものを万人が保持していなければ、礼儀など何の意味もなさなくなるということです。

孔子としては相手に「自分を下げろよ」と威圧したというのが本当のところでしょう。そしてそれを文化にまで染み付かせたからこそ統治が上手くいったというのが礼儀の本質です。ということで、相手を不快にさせる必要もないので、多少は配慮しつつも自分を下げる必要はありません。

「友達のお兄さんお姉さん」とか、「自分のお母さんの友達」と接する程度の心持ちで十分なはずです。

経営の神様と言われた人がいますが、彼が、

「お客様は神様だ」

と言ったとか言わなかったとかいうせいで(その言葉の真意は知りませんが)、どうしてもイエス・キリストと迷える子羊くらいの力関係で接してしまう人が多いような気がします。

これはすごく単純で、礼儀と上下関係を混ぜてしまっているから起こっているのです。

礼儀と上下関係を混ぜるな

礼儀と上下関係を入り混ぜてしまうと、概してこんなことが起こります。

世話をしてもらったら

「ありがとう」

これは問題がありません。

「お上のお通りである」

「ははー」と土下座

は問題です。

人によって態度を変えること、それが問題です。

以前、隠れてバイトした時に、挨拶をして無視をされたというエピソードがありましたが(あの日のおにぎり ANOTHER STORY)、まさにそれが問題です。

つまり、礼儀を偽善ツールにしている人達もいるということです。彼らは上下関係と礼儀を混同しています。

客には頭を下げ、出入り業者には頭を下げないことによって、自ら作り上げた上下関係を確認し、自尊心を保っています。

体育会系、儒教的な発想では、礼儀はタダの上下関係維持ツールに成り下がる

上下関係のような体育会系、儒教的な発想のままだと、礼儀はタダの上下関係維持ツールになってしまいます。

しかし、そこには本来の意味での礼儀はありません。

上下関係などが虚像であり、単なる力関係の構造にしかすぎません。あくまで何某かの関係性の上でなりたつものであり、アプリオリなものではないのです。それを礼儀を使って文化的にまで染み込ませ、無条件に年功序列の差別などを生み出しているに過ぎません。

こうした「礼儀への解釈」があると、必然的に礼儀と上下関係を混ぜ込んでしてしまうことになり、結果、礼儀を意識することで「下に属する」という観念を強化していくことになるため、本来の力を発揮できない人になっていってしまうのです。

もし、礼儀を意識するならば、あくまで相手を不快にさせないということだけを意識し、そこに上下関係を持ち込ませないことです。

でないと、知らず知らずのうちに自分に対する自己評価を下げてしまうことになり、力を発揮できない人だらけになってしまいますからね。

あらゆる謙遜の限界

礼儀の条件 曙光 392

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ