内に秘めた白いもの

最近ベースを弾こうとしてうまく弾けなかった自分のなかなかの下手さぶりに「福山雅治、結婚 ひゃーーー」となったおばさん並みのショックを受けています。

エネルギーの調整、出しどころのひとつとしてのベースが上手く弾けない、LUNA SEAすら怪しい、PE’Zなどとんでもない、という感じになると、何かを喪失したような気分になります。

理由の半分以上は、抱っことタイピングに最適化された腕や指の影響だと思います。

基礎練習でもすればある程度は元に戻るでしょうが、基礎練習という面白くないものは、その奥に上手く弾けるようになりたいという強烈なモチベーションが必要であり、「誰々のように」というような感染経路があって生まれるようなものです。

既にいろいろなものを通り越しているので、そうしたものはなかなか得ることはできません。

かといって技量が残っていればそれでもいいのですが、極端に低下しています。

これは青春とその名残としての技量の両方を、再度得ることが難しい、という意味を含んでいます。

ということで、「福山雅治、結婚 ひゃーーー」のおばさんのような喪失感です。

それはそれでまあ、別にいいのですが、そんな自分は、自分が嫌悪している「ローカルラジオに出てくる半分枯れたうんちくおじさん」に近い存在になってきているのではないかという危惧があります。

「今でこそ普通になってるけど、何もなかった時代に俺達世代が洋楽のレコードから手探りで…」という、自尊心獲得意図全開のラジオトークをする、一応現役のおじさんたちです。

まあ自尊心獲得意図など全く無いので、そこまではいっていないと一応思ってはいますが客観的にはどうなのかはわかりません。

それで、話は飛びますが、実は昔の従業員を昨年道端で見かけたんです。

娘を幼稚園に送り届ける時に信号待ちで一緒だったんです。

僕が僕であることに気づき、信号が変わった途端、変速がいっぱいついている自転車の利点を活かして原チャリほどの速度で去っていきました。

それからインターネット上で彼を調べてみると、娘の幼稚園の近くで働いているようでした。

で、それから派生して、彼が関わったらしい、おじさんのフォーク弾き語りのような動画を発見しました。

おじさんが歌っています。

年の功ということなのか機材も良いものを使っていると思います。

音にも曲にも歌声にも何の問題もないはずなのですが、

白毛混じりの陰◯の感じがぷ~んとしてしまいます。

ああこれか!

と思ってしまいました。

ラジオトークをする「今でこそ普通になってるけど、何もなかった時代に俺達世代が洋楽のレコードから手探りで…」というような語り口のおじさんたちが放っているもの…

どれだけ熱心にロックを奏でても、フォークを奏でても、別にモテようとしていなくても、何かしらのかっこよさがあっても、一生懸命さがあればあるほど、何かが漂ってくる…

それは、陰◯のシラガ感でした。

自分もイエスかノーかでいえば、ギリギリそちら側に移行しているのか?

と考えると、「福山雅治、結婚 ひゃーーー」のおばさんのような喪失感があります。

別に若くいようという気はありません。

ただ、ベースも上手く弾けないとなると…

仮に曲を作ろうと思っても、

作れるつもりが作れない、

創作しているようで創作とは呼べない。

というような結果になるのではないかと思ったりもしています。

しかし一方で、それに抗うというのも、

「まだまだ若いぞ、と思っているということは若くない」というのと同じになってしまいます。

「何日か寝て、手のひらと腕をほぐしてからだと意外と上手く弾ける」ということを勝手に決定事項にしています。

Category:music 音楽

「内に秘めた白いもの」への6件のフィードバック

  1. 老苦ですね。
    僕はヘッセのナルチスとゴルトムントが大好きなのですが、
    モテなくなったゴルトムントがしょぼくれてるのは凄く悲しかったです。
    bossuさんのブログ大好きなので爆笑しながら読みました。

  2. こんにちは。いつも拝読しております。

    いくつかお伺いしたいのですが、曲を作られていたときの発端(インスピレーション)とプロセスはどのようなものでしたか?

    そして、作っているとき、完成したとき、人前で演奏したときの体感や意識状態はどのような感じでしたか?

    また、それらが今日のBossuさんの日々のお仕事や過ごし方(お子様との絵本作りなど)など、どのあたりに共通項があったり影響があったりしますか?

    寒暖差が出始めた季節の変わり目、ご自愛くださいませ。

    これからも投稿を楽しみにしております。

    (先日、大滝詠一さんの「幸せな結末」セッションのドキュメンタリー番組が放送されていました。大滝さんはまずトラックを完成させて、それを流しながら首都高に車を走らせ仮で鼻歌を口ずさみ、それを元にここのメロディに対して合うのはこの言葉の音(おん)というかたちで響きの元に言葉を選択していきながら仮歌詞を作っていき、そして歌いながらその両者の仮の状態を調整していって今の形になったそうです。)

    1. コメントどうもありがとうございます。

      曲作り最初期はただ、ギター(コードが使えますから)といっしょに寝転びながら8時間くらいぐるぐるしているような感じでした。
      全身で握りしめている感じですね。しかし、そのときは何も降りてきません。

      しかしああいう時間も必要だったのかなとは思います。

      大滝さんのお話は参考になりますね。
      最終的には同じような感じかもしれません。
      先にそれなりの崩したコード進行で何か空間のかたまりを作ってそれからはじめていました。

      今現在にも通じることですが、作るプロセスは空間から「捉える」「つかまえる」であり、完成の定義はある意味では捉えた瞬間、ある意味ではそれを具体化した瞬間です。
      前者の場合は、釣り的な楽しみ、後者はゲーム中に近いですね。演奏時の体感は単に浮き上がっているような感じだけです。

      捉える先の選択のスタートはだいたい「違和感」です。そして「それがクリアになった世界や変換されて逆に面白くなった世界などの可能性世界」を意図するような感じでしょうか。

      影響としては、「時間をこなせばいい」という感覚はなくなりました。
      例えば、8時間なら8時間の勤務時間中、淡々と作業をこなすという感覚はなくなったので、「暇そうにしているとしても、実際は創造中」ということで、客観的には遊びのようでもその場の最適な状態を選ぶようにしています。

      1. ご返答いただきまして、ありがとうございます。

        もうひとつ質問させて下さい。

        レッチリのギタリスト、ジョン・フルシアンテが20年ほど前のインタビューでヴィパッサナーを習慣にしたことによる影響について話していました。

        下に引用します。

        “「瞑想の習慣によって俺の練習時間は飛躍的に充実したよ。
        すべてのギタープレーヤーに推奨する。効果を肌で感じてほしいね。」
        「音楽を感知する俺の能力はそれ以前よりずっと研ぎ澄まされたね・・・・お蔭で俺は10分間にわたるジミ・ヘンドリックスのソロも驚くべき速さで記憶できるようになったよ」
        以前なら1ヶ月かかってたとこを長くて2~3日でコピー出来るようになったらしい。
        曲を聴きながら「あそこで何が起こったんだ」と思うことがヒントになりギターを弾きながら、どうして弾かれたのかを分析し結論を自分の曲作りに反映する、のだと。”

        (ここでいうジミヘンのソロはライブ音源の即興部分をさしているとのことです。また、この発言の数年前に薬物治療を終え、このころから多作になったそうです。)

        先のコメントの質問とご返答をお踏まえいただいた上で、このインタビュー内容はBossuさんとしてはどのように解釈されますでしょうか?

        1. ヴィパッサナーに関してあまり科学的な解釈を加えるのもどうかとは思いながら、もしその「瞑想」というものがヴィパッサナーを指しているのであれば、おそらく次のような事が起こっています。

          普段「無意識的な動き」は、その言葉のとおり意識することはありません。
          そこで、ヴィパッサナーはすべてのプロセスをスローモーションにしつつ徹底的に観察します。
          体の動きや音の認識も、基本的には過去の記憶から近似的に条件反射していますが、これを一旦解除して、「もう一度、神経を通す」ようにするわけです。
          それで神経の流れなどもよくわかるようになります。
          これが第一の要素です。

          そして、次に第二の要素として、音楽という一種の抽象空間自体も六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)と切り離すことはできません。
          神経が通ると、そうしたものとのやり取りの解像度は高まります。
          別のチャネルで捉えることもできるようになる場合があります(自分と合わない音律を臭いと感じたり…)。

          そして、これらが進んでいくと、変換することができるようにもなりますし、今までは捉えられなかった空間を捉えることもできるようになります。

          そうなると、遊びに応用することができるようにもなります。
          この遊びとは、例えば「砂場であえて歪な山をたくさん作って水を流すとどのように川が形成されるのか?」をある程度推測しながら、川作りを楽しむようなものです。
          意図的な歪さを形成して、それに対する「自然による最適化」を面白がる、というようなこともできるようになります。

          個人的にはそのような感じかなと思っています。

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