スマートフォンの普及に伴い変化してきた情報の取り扱い方と情報がもたらす衝動、そして人と人との会話についてでも触れていきましょう。
最近ではセルフレジのようなものも普及して「一言も話さない店員」に出くわす機会も増えてきました。それくらいに個人主義的な風潮になってきているというような感があります。
とりわけ社会情勢により自宅にいる機会が増えたりしていた時期以降は、「会話が噛み合わない」というような事がよくありました。
これは単に「得た情報を吐き出したい」という衝動が各々にあって、得る情報がパーソナライズされたものばかりなので、その情報が各々異なるということに起因しています。
もっと単純に言うと、①興味関心がある分野が異なり、②大量の情報を得た時、それを言語化して吐き出したいという衝動が起こり、③お互いに相手の興味関心の分野には、興味関心がないので会話が成立しない、というような現象が起こりやすいということになります。
そして、これはこうした情報空間に慣れていない人によく起こるような気がします。情報を処理する能力が発達途中である若年層はもちろん、インターネット慣れしていないある程度高齢の方のほうが「会話が危ない」というケースもよくあります。
情報がもたらす衝動に対して、制御ができないという感じです。
その衝動は、アプリケーション内の「工夫」によるギャンブル的なドーパミン回路を弄るものがもたらすという面もありますし、コンテンツに刺激された感情の処理のこじらせの場合もあります。
例えば、情報を更新する時、多少待たせておいた方がスロットマシンのような刺激が来ます。そうした計算の元に依存させるように設計してあります。運営元としてはそれが収益の最大化につながるのだから致し方ありません。
親類に陰謀論の話ばかりをされていた時期もあります。
「あなたも見てみなさい」と言われて試しに見てみたら、胡散臭いおっさんが、和室で日本酒を飲みながら蘊蓄を垂れているだけの動画でした。
おそらくこうしたものに対する耐性がないのでしょう。
平常心で接することができるようになるには、十年くらいかかるのかもしれません。盛り上がった後に「結局あれは何だったんだ」ということを繰り返し、真っ当な評価に落ち着いていくというような感じなのでしょう。
情報を得ると
「この話をしたい!教えてあげたい!」
とありがた迷惑なことをしてきます。
また、スマートフォンから離れられないということが起こってきます。つまり人生をスマートフォンのために捧げているということになります。
現実にいる人との仲も捨ててのめり込むということです。
胡散臭いおっさんの蘊蓄を含めた動画やSNS、フリマアプリなどは現実と関係が強いという錯覚をもたらせ、実際は現実から離れて自分たちに依存しろという仕掛けをしています。
「それを取り上げようとすると、強いストレスがかかる」となるとそれは依存症に当てはまります。
しかしギムキョな感じで警告されているのは「何時間までにしましょう」という時間的な提案です。
個人的には、そういうことではなくて、一度思いっきり没入してみて実際を知るというのが一番良いと思っています。
その一番良い例は、やはりニュースに対する評価です。
あるニュースを知った、その内容を周りにいる人に話したくて仕方ないという衝動が起こったとしましょう。
それで何になるのでしょうか。
遠くの場所で大型トラックの事故が起こった、と。
で、それを知って、それを周りに話して何になるでしょうか。
「近くの場所で大きな交通事故が起こって、あの道は通行止めになっているから、別ルートを通ったほうがいいよ」というのであれば、意味もありそうなものです。しかしそれ以上に特にその情報に意味はありません。
毎日動画を漁って何になりますか。
毎日写真を投稿して何になりますか。
毎日買い物をする必要はありますか。
それらはドーパミン不足に起因する代替行動です。
こう言うと怒る人は怒ります。
それは依存症です。
インターネットに限らずですが、常に道具に対する適度な距離というものを見直す必要があります。
端的には、他にももっと楽しいことはあるのではないかということです。
お互いに「情報がもたらした衝動」から話したいことだけを話し、相手の話には無関心で「早く終わってくれないかな。次、自分はあの話を吐き出したいんだ」となってしまうと、目の前の人との会話がつまらなくなります。
つまらないので、ドーパミンが不足します。
そしてそれをインターネット空間で埋めます。
そんなことをしていると、人との関係は希薄になります。
その間にも運営元は広告収入や手数料収入で儲かっていきます。儲けてもらうのはいいのですが、依存させようとマインドコントロール手法や行動経済学に基づいたような小技をどんどん使ってきます。それは営利団体の運営元としてはある意味での最適化なので仕方ありません。
使ってもいいのですが、コントロールされてはいけません。
と、思っています。
結局、周りの人との関係性が弱くなり、目の前の現象への集中力も弱まり、楽しみを感じることが減ります。そして、それで欠乏した分をインターネット空間の情報で埋めるという構造になっています。
そういえば親類に陰謀論の話ばかりをされていた頃に、その親戚は、動画共有サイトのトップに自分が見ている陰謀論の動画が表示されるので、世間のみなさんがそれを見ていると本気で思っていたようでした。
「それは閲覧履歴に基づくものであって、世間で盛り上がっているというわけではないのです」
というと
「でもチャンネル登録はしてないよ」
という返しをされました。
そういう問題ではなくてですね…
ということなのですが、納得させるのに少し骨が折れました。
つまり端的には情報弱者ということになります。
そうした人たちが、「自分はあの話をしたいのに」と、お互いに衝動にやられていると喧嘩になります。
まあこうした現象も、人々が慣れて、ある程度飽きて、それで落ち着くところに落ち着くと思っています。
個人的には、何かを話したい衝動があっても、「軽く衝動が起こったな。でも、別に話す『必要』はない」と、ただ確認をします。
そうしている間に、相手は話したいことをどんどん話してくれます。
それだけで勝手に聞き上手判定をいただいたりします。
聞き上手というのは、聞くのがうまいというより、「自分の衝動に暴走させられない」というところがキーポイントなのかもしれません。
「次、自分はあの話をしたい」と思っていると、相手の話をあまり聞きませんからね。早く終わるのを前のめりで待っているような感じになってしまいます。
自分の衝動にも振り回されないのだから、相手の衝動にも振り回されません。
自分の衝動を制御しようと思うと、抵抗に応じてそのうち暴走します。相手の衝動についても同じです。
なので、ただ、流れるように観て確認するだけで良いと思っています。
最終更新日: