最近聞いた話ですが、推しの文化により、関連したものによって自分を表現しようというか、話の取っ掛かりを作って誰かに絡んでもらおう、できればモテようとするような雰囲気があるようです。
しかしながらそんなことでいくら取り繕おうが、本来、顔だけで人格はバレてしまうので、深い部分ではあまり意味がないのではないか、深い仲になったりする点においては、それほど有効ではないのではないか、と思ったりします。
また、服装がもっさいわけではなく、実は顔が…ということが言われたりすることもあります。意外と同じ服を同じようなサイズ感で顔が締まった人が着ると、特にもっさくは見えないというような感じになっていたりします。
顔の締まりは、集中や適度な緊張、そして「自分自身に対する自分の評価」等々が関係しています。顔の筋肉のトレーニングなどおまけのようなものです。
就職により地方から京都にやってきた人の顔の締まりの変化
そうしたことを一番最初に思ったのが、20歳くらいの時です。職場に同い年の人がいたのですが、その人は「自宅から最寄りの自販機まで三キロくらいある自然豊かな場所」で育ち、就職のために京都に来た人でした。
最初の半年はそれほど感じませんでしたが、職場にやってきて一年も経った頃、顔がみるみる締まっていきました。とりわけ目元、目頭が中央に寄るような形で、大人の顔に変化していきました。
仕事による集中というものもありますが、やはり「人に見られる」というようなことが、こうした顔の締まりに大きく関係していると思います。
目がランランのおばさま達に囲まれて
以前、神戸へ動物とふれあいに行った時に団体ツアーのような人たちに出くわしました。
そのツアーガイドのような人は、よく見ると顔が「…」なのですが、異常なほどにかっこよく見えました。その人に案内されるおばさま方はみんな目がランランです。
まるでファンクラブ限定ツアーにて、スターと一緒に歩いているような目の輝きでした。
というようなランラン光線を浴びているからか、ツアーガイドのような人は自信満々です。
ランラン光線による光の屈折
ランラン光線による光の屈折からか、顔が石原軍団のような雰囲気にすらなっています。眩しい陽が差し込み、目を細めたときには黄色い声すら飛んできそうな感じでした。
しかし、よく見ると元の顔は「…」です。ただ、顔の締まりと眼光はしっかりしたものとなっていました。スーツ姿も相まって、元素材に対して+50点くらいはブーストされていたと思います。
その時に、自信と顔の締まりは大切なんだなぁというようなことを思ったりしました。
ただ、こうしたものは、少し無理矢理にでもどこかしらで「自信」を先につけなければ好循環は生まれません。
ということなので、多少服装に力を入れて、少し自信を放ちながら「人に見られる」という助走が必要になるような気もします。
しかしながら、それはあくまで助走です。
「いくつになっても冒険しますよ的な三十七歳半くらいの人のまま」というのもまた、こじらせを感じます。