ちっぽけな誤解の種子
以前、「スーツ姿の時とパーカー姿の時で人の対応が違う」ということについて触れたことがありました。そのような感じで、ちょっとした許容や一時的な役割ですら相手に勘違いを生み出してしまうというようなことについて触れていきます。 ちょっとの「許容」や「一時的な役割」といったものは、ちっぽけな誤解の種子となることがあり、良かれと思って選択したそれらは、時に相手の中に邪念を生み出してしまうことがあります。 「聖人君子ならば、何事も広い心で許すだろう
こんなふうに淡々と、日常茶飯のように
ある人にとっては難しく、また難しいからこそワクワクするようなことであっても、またある人にとっては日常茶飯のように淡々とこなすことができるものであったりします。 そんな日常茶飯事レベルになった時、当然ながらその余裕さに比例して、それに「なりたい」という気持ちやワクワクは消えていきます。 それがなく渇望している人にとっては、嫉妬や羨望の対象となるものであっても、それを持つ人にとっては「普段、意識すらしない」ということもよくあります。 ただそ
寓話の現実化
いつか読んだ寓話が現実となるようなことがたまにあります。 それらはあくまで例えが現実的になるという感じですが、寓話も誰かが創作したものでありながら、その創作においては現実の体験のシーンたちが少なからず反映されているので、別におかしなことでもありません。 そうした印象やシーンにイメージを向けたからこそそれがよく見えるということもありますが、そうした認知的な話だけでなく、「見えやすくなっただけ」という説明だけでは説明しきれない形で物事が実際

ヒカリゴケ(光苔)
ヒカリゴケ(光苔)は、シッポゴケ目ヒカリゴケ科ヒカリゴケ属のコケです。苔なので洞穴や岩の隙間や倒木した木の陰等々苔の生えやすいところにいます。 蛍光の反射のような光を放っているように見えるので、ヒカリゴケという名がついていますが、蛍光反射テープ等々と同様に光の反射によって光っているように見えるだけ、という感じのようです。 レンズ状細胞が光を反射し、レンズ細胞内の葉緑体でエメラルドに光っているように見えるだけで、蛍のように自分で発光してい
野生化が進むにつれて
野生化という表現が良いのかどうかはわかりませんが、事業等々どんどん事が進んでいくと実践的で実務的な話ばかりになり市販化されている「それ系の情報源」に触れる機会が減っていきます。 まあもちろん直接的に関係しているものは、継続的に情報に触れることもありますが、「あたかも社長が読んでいるかのような名前の雑誌」などは、そうした人になりたい人たちが読んでいるというのが実情で、本当に社長をしている人は全く読んでいなかったりします。少なくとも僕の周り
車窓の外には、原野がひろがっていた
以前、奈良に行った時のことですが、友人に春日山原始林の方に連れて行ってもらったことがあります。春日大社の神山ということで伐採が禁じられていたからこそという感じのようですが、確かに何だか少し雰囲気が違うような気がしました。 ― さて、世の中には「ブルー・オーシャン戦略」として語られることがある経営戦略があります。まあ端的には、競合が多く労力の割に不毛な争いとなるようなレッド・オーシャンを避けて、競合がいない市場に飛び込みましょう戦略という

第1600回投稿記念
これで1600記事目になります。ブログ創設から1600回目の投稿ということで「第1600回投稿記念」です。 前回の第1500回投稿記念は、2019年6月1日で、前回からの100記事は、4ヶ月ちょっとかけて投稿したという感じです。旅行記を細分化して連投したことや「笑う月」を開始したことで後半にはスピードが高まりましたが、前半はかなり緩やかでした。 さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。 また、contactからご連絡いただいた方
一滴の雨のしずくが、大海の主成分であることに変わりはない
一滴の雨のしずくが、大海の主成分であることに変わりはないように、客観的な世界を仮定した場合、一人ひとりが社会の構成員であるように、言葉、情景といった一つひとつの記憶が膨大な無意識を構成するものであることには変わりありません。 それがどのようなものであれ、いずれ心的複合体として重要度の高いものとして発露することがあります。非常に微細なものであってもいつか何かしらの意図の発生の材料となっているという感じになります。 ひとつの言葉がきっかけと
それに、モデルと言っても
本人にとっては自己顕示欲を始めとする自尊心獲得ゲームとなり、他者にとっては欲を刺激するものとして捉えられがちなモデル等々の職業ですが、経済社会の中ではどうあがいてもそれに携わる人が繰り上がり式などで役割を担うことになります。 世間が求めていないものは需給が成り立たないということになるため、少なからず求めに応じて役割を担う人が必要になってきます。 モデルに限らずですが、そうした属性を持つものを構成する人たちの是非を問うよりも、その人達の心
無名性によって構成された世界
「名」は何かを区別し、他との分離を引き起こします。それは基本的に便利なものですが、個という執著をもたらすものにもなりえます。 言語を用いない自然界は「無名性によって構成された世界」ですが、それでもやはり視覚や聴覚といった別のベクトルで区別がなされていたりはするでしょう。そんな中でも記憶の組み合わせから起こる言語的な判断が無い分、分離の感覚は少ないと考えることができます。 ― 名があることによって起こることは良いことばかりではありません。
やむをえずつけた符牒
「やむをえずつけた符牒」ということで隠語についてでも触れていきましょう。 世の中にはたくさんの隠語のようなものがありますが、何だかひねりに欠け、バレてしまうのではないかと思ってしまうようなものもたくさんあります。 別にバレてもいいという意図でつけられたものもあると思いますが、中学の同級生の裏ネーム的なものの場合は、バレた途端に喧嘩になってしまったりするので、多段階に変形させて隠語化せざるを得ません。 あまりにストレートなものになるとバレ
意識的操作を超えたもの
自分が外の世界に反応するのではなく、外の世界が自分に反応する、ということは、認知バイアス等々を用いてある程度論理で説明しようと思えば説明できますが、それだけで捉えられるものではありませんし、あまりそうした事を言うと「表層的な意識とは裏腹なのはなぜだ!」ということになりかねません。 まあ、目覚めが最悪ならば、その最悪具合に応じてその日一日は「不快なものに目が行く」ということになってしまう、と言う程度ならばなんとなく納得がいきますが、そんな
発想の種子の、登場のしてきかたのさりげなさ
どのような表現にしてもその人の内にあるものしか外には出てこないため、どんな組み合わせになるにしても発想の種子に関してもできるだけ多いほうが面白みが増していきます。そんな発想の種子の登場のしてきかたはいつもさりげなく、遠い昔にちらっと見ただけというようなものですら、何の脈略もなくある時ふと何かの起点となったりします。 そういえば、近年「英語教育をなるべく若いうちから」というような流れになってきているようですが、発想にしても思考実験にしても
再びぼくの意識に、たっぷり充電された状態で浮び上がってきた
あまり気にかけなくなった対象やほぼ忘れていたような物事であっても、ふとした時に「再びぼくの意識に、たっぷり充電された状態で浮び上がってきた」といった感じで、より洗練された形で復活してくることがあります。 その中でもとりわけ一度沈みまた浮かび上がってくるもの、それは意欲などになるのではないでしょうか。意欲すら洗練されて復活するという感じです。 やる気や意欲というものは安定しているようなものではなく、ある程度継続的に意欲に燃えているような人
腰をおろして泣いていた
ふと気付けば歩道橋で腰をおろして泣いていたという経験があります。 それは夏の疲れがもたらしたものなのか、ふと気付いた何かしらの虚しさなのかはよくわかりません。 秋風がもたらした愁嘆。 それは何だか体からの本音のような、体が限界にきたからこその悔し涙のような、それよりももっと哲学的な「生きてるって何だろ生きてるって何?」のような雰囲気だったのかもしれません。 その当時、それまで病気で動きが鈍かった分を取り返すように、さまざまな事に奔走して
厚化粧した廃墟
廃墟というと八幡の通称軍人病院を思い出します。その場所は、尾ひれがついてまた尾ひれが付き軍人病院と呼ばれていました。 なお、現在では立入禁止になっているようです。 心霊現象が絶えないという感じのようですが、おそらく思い込みからやってきているのでしょう。「実際には軍人病院では無かった」という場合に「負傷した兵隊を見た」というのは、辻褄が合いません。ということできっと妄想の産物です。 当時単車に乗っていた僕は、一番最初は単車仲間と複数人でと
ある種の侮蔑
何かを必要以上に保護することは、ある種の侮蔑を意味することになってしまうという構造を持っています。 「〇〇だから大目に見ろ」「〇〇だから仕方がない」というような論調は、その属性を持ちつつも為し得るべきことを成し遂げた人々を侮蔑することにもなります。 そしてそうした達成の可能性をハナから放棄することにもなりかねず、それは俗的表現をすれば自信を獲得することを他者が奪うということになるということでもあります。 ― 環境の差異を考慮できない思慮
主人公の最後の叫び
人体の構造上、「いえあおう」の順番で音の出る部分が奥に入っていき、軽々しいものから重々しいものへと変化していきます。 これは、そのまま情報空間に対するもの~物理空間に対するものというバロメーターを示すという感じになっています。「い」なら情報的で意識寄り、「う」なら物理的で肉体寄りといった感じです。 「いえあおう」の順でわかる意識的な叫び~肉体的な叫び 母音が「い」から始まるということは、いわば意識的なものであるという感じになり、「う」か
燃やしてしまった写真
デジタルデータとして残すというのが基本となった現代では、写真を燃やすという行動が未だに個人レベルで起こっているのかはわかりませんが、昔はよく写真を燃やすという描写がよくありました。今それを垣間見れるのは、抗議行動かカラオケのイメージ映像くらいのような気もします(実際にあるのかは知りません)。 そういえば、中学校卒業の頃の話になりますが、「家にあるのは縁起が悪い」という理由などから、卒業アルバムの中の一部の同級生の写真を切り取って燃やすと
共通の話題にしえない運命があったからといって
年齢や地域や日常の生活が異なれば、それだけ同じ話題で盛り上がるという可能性は低くなっていきますし、国が異なれば共通の部分などもっと僅かなものになるので、話の内容がある種原始的になっていきます。 同世代の人達と会う時であっても、十代の時ならば同じような情報に触れていたりするので会話にも困りませんが、今頃となっては社会の中でどう生きてきたかとか、職場という単位を含めてどのようなコミュニティの中に属していたかという差が鮮明になってきます。 よ
どうやら糠喜びにすぎなかった
僕は普段あまり世間的な喜びを感じることがありません。 何かにつけて喜んだとしても、喜びに舞い上がって脇が甘くなって結局失敗したり、誤解したまま喜んで後で事実を知って落胆したり、喜びも束の間自体が急変するということもあります。 ということで「どうやら糠喜びにすぎなかった」ということが起こりうるというのが、理として否が応でも成り立っているので、そうした理から現象を観ているというのが基本になります。 爆発的な喜びに舞い上がることがない それが
しぶしぶ仏頂面の対応
しぶしぶ仏頂面の対応ということで、近所のコンビニの店員についてでも触れていきましょう。個人的には「嫌いな人からは飴の一つももらわない」ということにしており、また広い意味での豊かさがなく貧しいものを避けるという感じで生活しているので、最寄りのコンビニながら全く行かなくなりました。家からの距離は1.3倍位になってしまうものの、もう一つの方のお店を利用することにしています。 これは所要時間的な効率を考えれば非合理のように見えますが、時間だけで
現代のような分業社会では
現代のような分業社会では、全体像を捉えた上で個別的作業をするということが難しくなっています。 なぜ全体像を教えないのかという点に関しては、分業の方が合理的であり生産効率が高いからという理由もありながら、「出世させて高い給与を与えたくない」とか「口を出させたくない」という企業側の都合があるような気がします。 しかしながら良い製品やサービスは、可能な限りその構成員の全てが全体像を把握している状態でないとなかなか生まれません。 みんなが全体像
工程を順序立てて、誰にでも伝達可能な教本をつくる
「工程を順序立てて、誰にでも伝達可能な教本をつくる」という感じが主流になり、人文科学の分野でもやたらと数学的に示すということが主流になってきました。実務や実学などでは、その方がやりやすいということはわかりますが、一定領域以上となるとメタ的に示さないと変な方向に行く、ということがよくあります。また感情の世界においても同様です。 数学的な示し方や推論が万能かどうかという点ですが、そうしたものはたいてい大雑把にモデル化されていて、細かな要素を
自給自足できるようになれば
新規創業者の10年以内の廃業率から考えると、収益を年間で0から100万円にするのは意外と一番難しく、100万円から1000万円までもまあまあ難しく、1000万円から1億円は比較的容易でそれ以降もどんどん簡単になっていくというのが実際のところではないでしょうか。 どういう流れでそうなったのかはわかりませんが、独立することが推奨されてきたような感じになり、幾多の事業者が登場しましたが、実質的に成り立っているのはごくわずかで、以前から統計で出
食料や日用品のような、一種の消耗品
食料や日用品のような、一種の消耗品として、暇に対する情報というものがあります。特に話題探しのようなことをしている人にとって、到達が容易で軽々しい情報が日々の消耗品として必要なのでしょう。 知っても仕方がないような情報にも消費を刺激する要素が含まれていたり、はたまた何かの注意をそらすために無駄に騒ぎ立てられていたりと、そうした消耗品的な情報にはあまり良い要素はありません(「話題」は暇な人の消費対象)。 消耗品的に消費されていく情報の中にも

形見の品のようなもの
墓を筆頭に故人に対する思いを物質的に扱ったものは、単に執著を生み出すだけなのでなるべく避けるべきことではあります。 特に墓石などは高額で、さらに継続した儀式などでお金を取られたりすることになる、つまり、霊感商法的な墓場ビジネスに利用されるだけなので避けねばなりません(墓場ビジネスと霊感商法)。繰り返しておきますが、心を縛る執著を生むため原始仏教などでは墓は否定されており、墓は後世において利権獲得のためにご都合解釈で運用され始めたシステム
意識下で書きつづっている創作ノート
何だかんだで一度見聞きしたものは全て覚えていて、ふとした時にそれが意識に上がってきて影響を与えたりします。意識下で書きつづっている創作ノートには常に何かが書き込まれ、まとまりとして形になった時、何かしらの理由で必要になった時にふっと意識に登場し、日常に影響を与えてきます。 見聞きしたものについては、サブリミナル的に無意識に届くということもありますが、やはり基本的に意識が向く矛先とか解釈の仕方は認知バイアスによって取捨選択されているという

藪蘭(ヤブラン)
藪蘭(ヤブラン)は、キジカクシ科スズラン亜科ヤブラン属に属する常緑性多年草で開花期は7月・8月から10月くらいです。 耐寒性・耐暑性共に強いため育てやすく、水さえ欠かさなければ基本的に放置していてもキレイに花をつけます。我が家でも藪蘭(ヤブラン)は屋外で野性的に育てています。 藪蘭(ヤブラン)は、学名から「リリオペ」とも呼ばれたりします。また山菅(ヤマスゲ)や、サマームスカリといった呼ばれ方もするようです。ヤブに生えながら葉の形がランに
地図に出ているコースを走っている間は
地図に出ているコースを走っている間は安心ですが、若干面白みに欠ける部分もあります。 それが続くと何だか義務的にこなさなければならないことのようになってきて、それが旅だと「なんだか違う」という感じにもなってきます。 もちろんそれでも概ね初めて見る景色に囲まれるので多少の新鮮味はあります。ただ、やはり何度か通った道だと義務感が生じてきたりもします。 道路標識だけを頼りに 十代の時は、ナビはおろか地図さえも参照せず道路標識だけを見て走ったりし