前進
われわれが進歩を賞讃するとき、われわれはそれによってただ動きを賞讃し、われわれをその場に停止させない人々を賞讃しているにすぎない。 曙光 554 序 「現状維持は後退である!」というようなことをよく言う人がいますが、ひとまずは、そうした社会的なことは置いておいて、前進のために最も重要なポイントについてでも書いていきましょう。 進歩していかなければならないというわけではありませんし、前進していなければならないというわけでもありませんが、まあ前進できるかできないかでいえば前進していきたい時に前進できる方がいいだろうとい
同様に寛容
「灼熱した炭の上に一分間長く置きすぎたので、すこしばかりまさに焦げようとしている。― これは人間の場合でも栗の場合でもまだ差し支えがない!この少しの苦しさと硬さがあってこそ、本当に心がどんなに甘く硬かいかが味わえる。」― その通りだ!諸君のような享楽家はそう判断する!諸君のような崇高な人喰い人は! 曙光 402 灼熱した炭の上、ということで、「焼いた炭の上を歩け」という狂気じみた自己啓発研修についてでも書いていきましょう。怪しい自己啓発セミナー、自己啓発合宿についてです。 焼いた炭の上を歩くという自己啓発研修 聞い
廻り道をして
この哲学全体はそのすべての廻り道を通ってどこへ行こうとするのか? 曙光 553 序 哲学をやりだすと、徹底的に廻り道をしてしまうことになりますが、もしかしたらある程度は必要なプロセスなのかもしれません。 誰にでも分かるようなもので、完全な哲学があれば、それ以外のものは残っていないはずですが、ルートとして幾多の可能性があるため、それぞれがそれぞれの表現で、それぞれの思考ルートをたどって行くことになるのでしょう。 ただ、最終的には小学一年生の問題集から、ノーベル賞くらいの発見をするような形で飛び越えることになります。
一番危険な忘却
われわれは、他人を愛することを忘れることではじめ、愛する価値のあるものを自分にもはや見出さないことでおしまいにする。 曙光 401 「自分自身に全幅の愛を注ぐ」という感じでいきましょう。そうなるとナルシシズムのようだと思う人もいるかもしれませんが、「うぬぼれ」とは少し属性が違いますので注意してください。 所謂「うぬぼれ」は、他者との相対的な比較によって自分は優位にあるという自己愛です。 顔がキレイだとか、実力があるとかそういう感じですね。 でも一般的に思われているそういうものは、比較対象がないと判断できない要素です
理想的な利己心
妊娠の状態よりも荘重な状態があるだろうか?われわれのするすべてのことは、われわれの内部で成長しつつある者に何らかの意味で役立つに違いない、という密かな信念のもとになされる! 曙光 552 序 利己的ということを考えた時に、「それは利己的であり、受け入れられない」と言っている人も、「常識」や「全体を優先する」という観念のもとなんだかんだで利己的であり、「利己的」という言葉は、あまり意味をなさない言葉でもあります。 社会的な合議の場なんかで利己的だと、周りから非難が飛び交うというくらいのもので、どうあがいても自己中心的
道徳的柔弱
成功のたびごとに恥じらいを感じ、失敗のたびごとに良心の呵責を感じるような、感じやすい道徳的な性格の人々がいるものだ。 曙光 400 無意識レベルの抵抗感というものは凄まじいものです。 道徳的柔弱ともいうべきか、頭のなかでは欲しいと思っていても、無意識に抵抗感がある場合が結構あります。 何かを手に入れるとしても、ルートを制限し、それ以外のルートを許可していないというケースが多く、例えば、社会道徳に反するような形では手に入れたくない、という感じで思っていることがよくあります。 一生懸命働いて、会社で出世して、というケー
将来の徳について
世界が理解しうるものになればなるだけ、それだけ一層あらゆる種類の荘厳が減少したというのはどうしてであろうか?あらゆる未知のもの、神秘的なものに面したときわれわれを襲い、理解できないものの前に崩折れて恩寵を願えとわれわれに教えた、あの畏敬のいたく根本的な要素は恐怖であったからか?そしてわれわれが恐怖感をもたなくなったことによって、世界はわれわれに対する魅力をも失ったのではないであろうか? 曙光 551 前半 何となくイメージとしてですが、功徳(くどく)を積むと良いことが起こり、そして功徳を積むには忍耐が必要だというよ
一層やさしくなること
われわれがだれかを愛し、尊敬し、讃嘆していて、さて、あとになってから、彼が苦しんでいることが分かると、― われわれは彼から湧き出てくるわれわれの幸福は、自分自身の幸福の豊かな泉から出てくるということ以外は考えていないから、いつも大いに驚くのであるが― 、われわれの愛や、尊敬や、讃嘆などの感情は、本質的な点で変化する。それは一層やさしくなる。 曙光 138 序盤 まあ曙光においてニーチェは、この後「彼が望むなら慰めの言葉を与える」ということで「よい復讐である」なんてなことを書いています。 昔「人は面白いなぁ」と思った
罰する正義
「あなたの為を思って言っている」 という場面がよくありますが、99%くらいは嘘で、発言側の見栄や「恥をかきたくない」という恐怖心が発端で、そういう言葉を発しています。 そんなことは中学生にでもなれば分かることのはずですが、その発言者の人は自分も中学生を経験しているはずなのに、よほど鈍感な中学生時代を過ごしたのか、どうもそういう嘘をつきます。 もちろん嘘と言っても、本心も数%も入っているとは思います。 ただ、純度100%で相手を思い、説教するのはそれ相応の人くらいです。せめて菩薩レベルでしょう。 まれにそういう人がい
認識と美
人間たちが依然として行っているように、彼らの尊敬と幸福感とを、想像の仕事と偽装の仕事とのためにいわば取って置くなら、想像と偽装とが対立する場合、彼らが冷淡と不快を覚えても驚く必要はない。 曙光 550 序 どんな業種にも共通して言えることですが、概ね抽象的な本質を掴んだものだけが勝っていきます。 おそらくこのあたりのズレが、ぽっと出の居酒屋なんかをすぐに廃業に追い込んだりしているのでしょう。 特にそれほど好きではないのですが、スティーブ・ジョブズなんかはその本質を捉えることに関しては天才的だったと思います(といって
よりよい人間たち!
社会をより良くしていこうとするのはいいのですが、たいていの場合弱者にばかり合わせる形で玄人を制限し、あげく「選べない」という形で辟易させ、結果社会の加速を制限していることにそろそろ気付きましょう。 すごくわかりやすいのはガスコンロでしょうか。 「天ぷらを揚げている途中に電話がかかってきて長電話になり、天ぷら油から火災が発生」 という事が多すぎて、強火のままでいきたいのに「カチッ」と勝手に弱火になり、調理の流れが制限されるということが起こっています。 またそのセンサー的出っ張りのせいで軽めの鍋が傾くということがよく起
魂の呵責について
ある人が他人の身体に何らかの呵責を加えるなら、今日では誰でも大声で叫ぶ。そんなことができる人間に対する憤慨は直ちに起こる。 曙光 77 序 魂の呵責についてということで、人がすごく憤慨する瞬間は、自分では何となく不服に思いつつ一応守っている各種「制限」、つまり社会的なルールを逸脱している人を見たときだったりします。もちろん、それだけとは限りませんが。 経済的なルールは、収益を最大化するために緩和されることがありますが、それ以外のルールはだいたい厳しくなっていく一方です。 自分が不服に思っているルールがあったとして、
「自己逃避。」
バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように、自分自身に対して短気であり、陰鬱であり彼らの行なうすべての店で逸走する馬に似ていて、そればかりでなく、自分自身の創作から、短い血管をほとんど破裂させそうな喜びと情熱だけを獲得し、その後でそれだけ一層冬のような寂莫と悲観とを獲得するような、あの知的な痙攣の人間たち、― 彼らはどのようにして自己の内面で我慢できようか!彼らは「自分の外」のものに同化することを渇望する。 曙光 549 前半 今回も例のごとく 「バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように」 と
悪く考えることは、悪くすることを意味する
悪く考えることは、悪くすることを意味するということで、「悪く考えること」についてでも書いていきましょう。 意識の中には遮蔽効果があります。五感からも、意識からも大量の情報がやって来る中で、省エネルギーのために、「すべてを見ずに一部のものだけを見る」ということが起こっています。 そういうわけで「悪く考える」ことは、ある種無属性の対象の中から「気分を害するもの」を中心に意識に上げ、「悪くする」ことを意味するという感じにもなります。 そして、一般的に悪いことが起こった時、その結果を操作しようとします。 しかしながらよくよ
自己弁護する
多くの人間はしかじかの行為をする最上の権利を持つ。だが彼らがそのために自己弁護すると、われわれはもはやそれを信じない。― そして見当違いをする。 曙光 399 自己弁護することにはさまざま弊害があります。それが正当そうに見えるようなことであっても、どこかに自己欺瞞があります。 自己弁護とは、もちろん自分をかばう目的で言い訳がましく弁護することです。概ねプライドを守るためという感じで、つまりは自尊心の保持のためになされます。 根本的に自己弁護をするということは自己弁護の動機があるということです。その動機の裏には、何か
ヨーロッパ的でなく、高尚でない
キリスト教には、何か東洋的なものと何か女性的なものがある。これは「神はその愛する者を懲らしめる」という思想の中にあらわれている。なぜなら東洋の女性たちは、懲らしめと世間からその身を厳しく隔離することとを夫の愛のしるしと見なし、このしるしが中絶すると不平を訴えるからである。 曙光 75 「誘惑者」で触れていますが、同級生のお母さんたちはみんなお母さんという感じですが、最近では「お母さんではなく一人の女性として」というような風潮になってきているのか、未だに「若い女」を目指そうとしているような雰囲気があります。 それと同
力に対する勝利
これまで「超人的な精神」として、「天才」として尊敬されて来たものすべてを考慮するなら、大体において人類の知性はどうしても極めて低劣で悲惨なものであったに違いない、という悲しい結論にわれわれは到達する。立ち所にかなり人類を越え出ているという感じをもつためには、これまでほんの僅かの精神しか必要でなかった! 曙光 548 序 人を欺くつもりで演じるのではなく、本人も行ききっている形で堂々と物事を説く人がいた場合、その雰囲気に周りが感化されてしまうということが昔からよく起こっているようです。 ご本人が自己洗脳状態にあって、
キリスト教徒の底意
次のことが第一世紀のキリスト教徒のごく普通の底意ではなかったろうか。「罪がないと思いこむよりも、罪があると思いこむ方がよい。というのは、はなはだ強力な裁判官がどんな気持ちでいるのか、よく分からないから。― しかし裁判官は罪を意識している者ばかり見つけたいと思っているのではないかと気がかりでならない!彼は大きな力をもっているので、自分の面前の人間が正しいということを認めるよりも、罪人を赦す方がたやすいであろう。」 曙光 74 前半 キリスト教徒の底意(そこい)ということで、正しいと認めるよりも赦す方がたやすい、という
精神の暴君たち
小さな個々の問題や実験は軽蔑すべきものと思われた。人々は一番の近道を望んだ。世界のすべてのものは人間によって整えられているというように思われたので、事物の認識可能性もやはり人間的な時間の単位によって整えられていると人々は信じた。一切を一挙に、一言で解決すること。― これが密かな切望であった。 曙光 547 中腹 宗教的なものは代表例として当然ですが、一種の経済的民間信仰のようなものも、人を盲目にしていきます。 自由な状況で自由に思考するよりも、わかりやすい「神」などを設定したほうが、全てを一気に解決できるというよう
かつてのドイツ人的な教養
あのドイツ人的な教養はヨーロッパ人を馬鹿にしたということ、またそれはそうした関心に、それどころかそのように模倣したり張り合って自分のものにしたりすることに値しなかったということは、否定することができない。まあ今日、シラーや、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、シュライエルマッハー、ヘーゲル、シェリングなどを捜すがよい。 曙光 190 中腹 「シラーや、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、シュライエルマッハー、ヘーゲル、シェリングなどを捜すがよい」 … 「誰?」 という感じの感想を持つ人が大半のはずです。 ということで、
「真理」のために!
「キリスト教の真理が本当であることを証明したのは、キリスト教徒たちの節操のある実行であり、苦しみに際しての彼らの沈着であり、しっかりした信仰であり、何よりまず、あらゆる試練にもかかわらず普及し、成長したことである。」― そのように諸君は今日でもなお言う!気の毒なことだ!これらすべては、真理が本当であることも証明しないし、偽りであることも証明しないこと、真理は真実とは違った証明がなされること、そして後者は全然前者の論拠ではないことをどうか学んでくれ! 曙光 73 たまに「社会的に考えてはいけない」というようなことを言
奴隷と理想主義者
奴隷と理想主義者ということで、いかにも奴隷で理想主義者っぽく映る人々について書いていきましょう。 日本でも2017年時点で戦後70年ちょっとくらいですが、終戦直後は焼け野原、その頃は今とは随分違った「普通」があったはずです、その後高度経済成長期などを経て、何故か日本のスタンダードのようなものが確立しているかのような風潮があります。 歴史としても半世紀くらいで、しかも状況は様変わりしているはずなのになぜか人生観だけは固定化されているような変な風潮です。 20歳位の時、つまり活字中毒の時に、よくこんなことを考えていて、
なぜ「自我」を二重にするのだろう!
他人の体験の場合それを眺めるのを常としているような眼で、われわれ自身の体験を眺めること、― これはわれわれの心を極めて和らげるものであり、推賞するに足る薬品である。これに反して他人の体験を、あたかもそれがわれわれのものであるかのように眺め、受け取ること― 同情の哲学の要求であるが―、これはわれわれを破壊に導くであろう。しかも極めて短時間のうちに。 曙光 137 前半 同情と「憐れみ」「慈しみ」などとは若干の違いがあると思っています。 どうしても同情とはどこかしら「憐れみ乞いに付き合う」という要素が含まれている感じが
「死後。」
死後を経験したことがないからこそ、「夢の中では死なない」なんてなことが言われることがあります。 「死んだ後、『私』はどうなるのだろう?」 「死後の世界はあるのだろうか?」 そんなことを思ってみたところで経験したこともないこと、経験し得ないことはいくら考えても想像の域を出ません。 誰がどう死後について語ろうと、その人は死んだことがないので死後のことについては推測の域を出ることがありません。 「死んで生き返った」ということを語ったとしても、それは死んでいないということになります。 だいたい胡散臭い宗教が心の隙間に入って
贅沢な毎日
昨日の昼のことになりますが、現在要介護状態の養子のうさぎを撫でながらコーヒーを飲みつつ、はっぴぃえんどの「風をあつめて」なんかを聴いていると「すごく贅沢だなぁ」と感じました。 ほとんどたったそれだけのことなのですが、そんなことを書こうと思ったら眠気がして、夕方まで爆睡していまいました。 何も南の島に行ってビーチでのんびりとか、そういった手間のかかることをしなくても、同じくらいの「のんびり感」を感じることができるということは、すごく贅沢です。 そんな贅沢な毎日が続いています。 何かを「必要だ」と思い込んで、「やる気が