いわゆる高級!
諸君は、同情の道徳はストア主義の道徳よりも高級であると言うのか?証明せよ!しかし、道徳の「高級」と「低級」とは再び道徳的な尺度では測られないということに注意したまえ。なぜなら、絶対的な道徳というものは存在しないからである。そこで物差しはどこかよそから手に入れたまえ。― さあ気をつけて! 曙光 139 何かを判断しようと思うと基準が必要

申し分のない相手を望む
申し分のない相手を望むということで、「理想の相手」について触れていきましょう。「本当に理想的なパートナー」というものを思い浮かべる時、どんな人を思い浮かべるでしょうか? 思う存分わがままに設定したとして、もう一度その設定を振り返ってみてください。 おそらく、どこかしら抵抗があるのではないでしょうか? 例えば、相手は金持ちの方がいいとい
正しく評価されることが珍しい人
多くの者は、何かある方向にひどく不正なことをすることなしには、よいこと、偉大なことに熱中することができない。これは彼の持ち前の道徳である。 曙光 404 偉人と言われるような人、偉業を成し遂げた人、そうした人たちは概してマイノリティです。 育った環境が特殊なものであるというような原因は、あまり関係なく、ひとまず変な人だらけです。 勤め
最も些細なものでもすでに十分である
最も些細なものでもすでに十分強くわれわれに印づけられていて、― どっちみちわれわれはそれらを免れることはないのだ、ということが分かったら、われわれは数々の出来事から遠ざかるべきである。― 思想家は、彼らが一般になお体験しようとする事物のすべての大よその基準を、自分の中に持たなければならない。 曙光 555 経験したことは全て無意識が覚
誇りのさまざま
女性は、その恋人が自分たちにふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。男性は、自分たちがその恋人にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。 曙光 403 序 このへんはさすが自称心理学者ニーチェといったところですね。 ただ、いずれにしても、相手に合わせるとどんどん展開は悪くなっていくというパラドクスが待っています。 どうして
前進
われわれが進歩を賞讃するとき、われわれはそれによってただ動きを賞讃し、われわれをその場に停止させない人々を賞讃しているにすぎない。 曙光 554 序 「現状維持は後退である!」というようなことをよく言う人がいますが、ひとまずは、そうした社会的なことは置いておいて、前進のために最も重要なポイントについてでも書いていきましょう。 進歩して
同様に寛容
「灼熱した炭の上に一分間長く置きすぎたので、すこしばかりまさに焦げようとしている。― これは人間の場合でも栗の場合でもまだ差し支えがない!この少しの苦しさと硬さがあってこそ、本当に心がどんなに甘く硬かいかが味わえる。」― その通りだ!諸君のような享楽家はそう判断する!諸君のような崇高な人喰い人は! 曙光 402 灼熱した炭の上、という
廻り道をして
この哲学全体はそのすべての廻り道を通ってどこへ行こうとするのか? 曙光 553 序 哲学をやりだすと、徹底的に廻り道をしてしまうことになりますが、もしかしたらある程度は必要なプロセスなのかもしれません。 誰にでも分かるようなもので、完全な哲学があれば、それ以外のものは残っていないはずですが、ルートとして幾多の可能性があるため、それぞれ
一番危険な忘却
われわれは、他人を愛することを忘れることではじめ、愛する価値のあるものを自分にもはや見出さないことでおしまいにする。 曙光 401 「自分自身に全幅の愛を注ぐ」という感じでいきましょう。そうなるとナルシシズムのようだと思う人もいるかもしれませんが、「うぬぼれ」とは少し属性が違いますので注意してください。 所謂「うぬぼれ」は、他者との相
理想的な利己心
妊娠の状態よりも荘重な状態があるだろうか?われわれのするすべてのことは、われわれの内部で成長しつつある者に何らかの意味で役立つに違いない、という密かな信念のもとになされる! 曙光 552 序 利己的ということを考えた時に、「それは利己的であり、受け入れられない」と言っている人も、「常識」や「全体を優先する」という観念のもとなんだかんだ
道徳的柔弱
成功のたびごとに恥じらいを感じ、失敗のたびごとに良心の呵責を感じるような、感じやすい道徳的な性格の人々がいるものだ。 曙光 400 無意識レベルの抵抗感というものは凄まじいものです。 道徳的柔弱ともいうべきか、頭のなかでは欲しいと思っていても、無意識に抵抗感がある場合が結構あります。 何かを手に入れるとしても、ルートを制限し、それ以外
将来の徳について
世界が理解しうるものになればなるだけ、それだけ一層あらゆる種類の荘厳が減少したというのはどうしてであろうか?あらゆる未知のもの、神秘的なものに面したときわれわれを襲い、理解できないものの前に崩折れて恩寵を願えとわれわれに教えた、あの畏敬のいたく根本的な要素は恐怖であったからか?そしてわれわれが恐怖感をもたなくなったことによって、世界は
一層やさしくなること
われわれがだれかを愛し、尊敬し、讃嘆していて、さて、あとになってから、彼が苦しんでいることが分かると、― われわれは彼から湧き出てくるわれわれの幸福は、自分自身の幸福の豊かな泉から出てくるということ以外は考えていないから、いつも大いに驚くのであるが― 、われわれの愛や、尊敬や、讃嘆などの感情は、本質的な点で変化する。それは一層やさしく
罰する正義
「あなたの為を思って言っている」 という場面がよくありますが、99%くらいは嘘で、発言側の見栄や「恥をかきたくない」という恐怖心が発端で、そういう言葉を発しています。 そんなことは中学生にでもなれば分かることのはずですが、その発言者の人は自分も中学生を経験しているはずなのに、よほど鈍感な中学生時代を過ごしたのか、どうもそういう嘘をつき
認識と美
人間たちが依然として行っているように、彼らの尊敬と幸福感とを、想像の仕事と偽装の仕事とのためにいわば取って置くなら、想像と偽装とが対立する場合、彼らが冷淡と不快を覚えても驚く必要はない。 曙光 550 序 どんな業種にも共通して言えることですが、概ね抽象的な本質を掴んだものだけが勝っていきます。 おそらくこのあたりのズレが、ぽっと出の
よりよい人間たち!
社会をより良くしていこうとするのはいいのですが、たいていの場合弱者にばかり合わせる形で玄人を制限し、あげく「選べない」という形で辟易させ、結果社会の加速を制限していることにそろそろ気付きましょう。 すごくわかりやすいのはガスコンロでしょうか。 「天ぷらを揚げている途中に電話がかかってきて長電話になり、天ぷら油から火災が発生」 という事
魂の呵責について
ある人が他人の身体に何らかの呵責を加えるなら、今日では誰でも大声で叫ぶ。そんなことができる人間に対する憤慨は直ちに起こる。 曙光 77 序 魂の呵責についてということで、人がすごく憤慨する瞬間は、自分では何となく不服に思いつつ一応守っている各種「制限」、つまり社会的なルールを逸脱している人を見たときだったりします。もちろん、それだけと
「自己逃避。」
バイロンあるいはアルフレッド・ドゥ・ミュッセのように、自分自身に対して短気であり、陰鬱であり彼らの行なうすべての店で逸走する馬に似ていて、そればかりでなく、自分自身の創作から、短い血管をほとんど破裂させそうな喜びと情熱だけを獲得し、その後でそれだけ一層冬のような寂莫と悲観とを獲得するような、あの知的な痙攣の人間たち、― 彼らはどのよう
悪く考えることは、悪くすることを意味する
悪く考えることは、悪くすることを意味するということで、「悪く考えること」についてでも書いていきましょう。 意識の中には遮蔽効果があります。五感からも、意識からも大量の情報がやって来る中で、省エネルギーのために、「すべてを見ずに一部のものだけを見る」ということが起こっています。 そういうわけで「悪く考える」ことは、ある種無属性の対象の中
自己弁護する
多くの人間はしかじかの行為をする最上の権利を持つ。だが彼らがそのために自己弁護すると、われわれはもはやそれを信じない。― そして見当違いをする。 曙光 399 自己弁護することにはさまざま弊害があります。それが正当そうに見えるようなことであっても、どこかに自己欺瞞があります。 自己弁護とは、もちろん自分をかばう目的で言い訳がましく弁護
ヨーロッパ的でなく、高尚でない
キリスト教には、何か東洋的なものと何か女性的なものがある。これは「神はその愛する者を懲らしめる」という思想の中にあらわれている。なぜなら東洋の女性たちは、懲らしめと世間からその身を厳しく隔離することとを夫の愛のしるしと見なし、このしるしが中絶すると不平を訴えるからである。 曙光 75 「誘惑者」で触れていますが、同級生のお母さんたちは
力に対する勝利
これまで「超人的な精神」として、「天才」として尊敬されて来たものすべてを考慮するなら、大体において人類の知性はどうしても極めて低劣で悲惨なものであったに違いない、という悲しい結論にわれわれは到達する。立ち所にかなり人類を越え出ているという感じをもつためには、これまでほんの僅かの精神しか必要でなかった! 曙光 548 序 人を欺くつもり
キリスト教徒の底意
次のことが第一世紀のキリスト教徒のごく普通の底意ではなかったろうか。「罪がないと思いこむよりも、罪があると思いこむ方がよい。というのは、はなはだ強力な裁判官がどんな気持ちでいるのか、よく分からないから。― しかし裁判官は罪を意識している者ばかり見つけたいと思っているのではないかと気がかりでならない!彼は大きな力をもっているので、自分の
精神の暴君たち
小さな個々の問題や実験は軽蔑すべきものと思われた。人々は一番の近道を望んだ。世界のすべてのものは人間によって整えられているというように思われたので、事物の認識可能性もやはり人間的な時間の単位によって整えられていると人々は信じた。一切を一挙に、一言で解決すること。― これが密かな切望であった。 曙光 547 中腹 宗教的なものは代表例と
かつてのドイツ人的な教養
あのドイツ人的な教養はヨーロッパ人を馬鹿にしたということ、またそれはそうした関心に、それどころかそのように模倣したり張り合って自分のものにしたりすることに値しなかったということは、否定することができない。まあ今日、シラーや、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、シュライエルマッハー、ヘーゲル、シェリングなどを捜すがよい。 曙光 190 中
「真理」のために!
「キリスト教の真理が本当であることを証明したのは、キリスト教徒たちの節操のある実行であり、苦しみに際しての彼らの沈着であり、しっかりした信仰であり、何よりまず、あらゆる試練にもかかわらず普及し、成長したことである。」― そのように諸君は今日でもなお言う!気の毒なことだ!これらすべては、真理が本当であることも証明しないし、偽りであること
奴隷と理想主義者
奴隷と理想主義者ということで、いかにも奴隷で理想主義者っぽく映る人々について書いていきましょう。 日本でも2017年時点で戦後70年ちょっとくらいですが、終戦直後は焼け野原、その頃は今とは随分違った「普通」があったはずです、その後高度経済成長期などを経て、何故か日本のスタンダードのようなものが確立しているかのような風潮があります。 歴
なぜ「自我」を二重にするのだろう!
他人の体験の場合それを眺めるのを常としているような眼で、われわれ自身の体験を眺めること、― これはわれわれの心を極めて和らげるものであり、推賞するに足る薬品である。これに反して他人の体験を、あたかもそれがわれわれのものであるかのように眺め、受け取ること― 同情の哲学の要求であるが―、これはわれわれを破壊に導くであろう。しかも極めて短時
「死後。」
死後を経験したことがないからこそ、「夢の中では死なない」なんてなことが言われることがあります。 「死んだ後、『私』はどうなるのだろう?」 「死後の世界はあるのだろうか?」 そんなことを思ってみたところで経験したこともないこと、経験し得ないことはいくら考えても想像の域を出ません。 誰がどう死後について語ろうと、その人は死んだことがないの
贅沢な毎日
昨日の昼のことになりますが、現在要介護状態の養子のうさぎを撫でながらコーヒーを飲みつつ、はっぴぃえんどの「風をあつめて」なんかを聴いていると「すごく贅沢だなぁ」と感じました。 ほとんどたったそれだけのことなのですが、そんなことを書こうと思ったら眠気がして、夕方まで爆睡していまいました。 何も南の島に行ってビーチでのんびりとか、そういっ