遠い視野

甲。しかしこの孤独はいったいどういうわけだろうか?― 乙。僕は誰に対しても怒りをもたない。だが僕は、友人たちと一緒にいるときよりも、ひとりでいるときのほうが、、彼らを一層はっきり美しく見るように思われる。そして僕が音楽を最も愛し、感じたとき、僕は音楽から離れて生活していた。物事をよく思うためには、遠い視野が僕には必要なように思われる。 曙光 485

実際に今この場で感じるときよりも、想像の上で触れている時のほうが美しく見えるというのは常日頃実感のあるような事柄です。

しかし、「その場」、「事実」をしっかり捉えられるようになると、「想像力」自体は豊かになるものの、想像が現実以上に素晴らしいものに映ることは徐々になくなっていきます。つまり錯覚が無くなっていくということです。

程よい距離感

確かに、特に人と人は程よい距離感というものがあります。それ以上に近づくと軋轢が生じ、依存度が高いほど、距離が離れると苦しく感じるでしょう。

そのことを忘れて、人と近づきすぎたり、また人に依存したりしてはいけません。

どんな時でも、相手との軋轢が生じる可能性があることを念頭に置いて接しないと、ふとした時に無駄な争いになります。

特に家族など身近な人の場合は要注意です。

夫婦であれ親子であれ、相手は相手、社会においては管理や保護や責任などという言葉が使われることがあっても、完全に相手の意識は自分とは独立しています。

うさぎである養子も、自分のものではありません。自分と「意見」が合うこともあれば合わないこともあるでしょう。

同じものを見て同じような感情が起こるかどうかもバラバラ、都合もバラバラです。

「目の前の存在も、いろいろな要素が組み合わさって今起こっている現象にすぎず、今、心が五感と意識を通してそれを捉えて感じているにすぎない」

事実はたったそれだけのこと。

「この心」とは無関係

もし相手に心があるならば、同じことが向こう側で起こっているというだけのことで、「この心」とは無関係です。

では何が争い合っているのか。

「今までこの意識が感じ、得てきた情報の総体」と、相手のそれ、というのが事実といったところです。

そうなれば、自分も相手も、そのどちらの意識も自らが作り上げたものではないのだから、自分や相手を責めることも怒りを覚える必要もない、といったところです。

意識と意識が同一になるということはほとんど奇蹟というかありえません。

「相手にしない」も賢明な兵法

だからこそ、無駄な争い軋轢を避けるためには、わざわざ主張し論争する必要な無く、時に「避ける」ということをしても何の問題もありません。

体育会系はそれを「逃げ」とし、臆病者だという扱いをすることがありますが、本来それらは立派なやり方です。逃げることも、距離を取ることも、「相手にしない」も賢明な兵法でもあります。

最大の目的、目指すべきは、相手に勝つか負けるかではなく、「煩いがない」という安穏なのですから。

遠い視野 曙光 485

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ