真なるものの専制政治に反対

紫外線で目がやられていましたが、先日、午前中は滋賀方面へ、帰りは夕方から京都へと帰ってきたため、さらに目が焼けてしまいました。

ついでに言うと、盆の渋滞で移動時間が無駄に長かったということも原因の一つです。

さて、「真なるものの専制政治に反対」です。

専制政治、ではないですが、資本主義と労働と時間の間接拘束についてでも少し触れていきましょう。

わかりにくいので、間接的な拘束についてでも触れていきます。

間接的な拘束

最近の行政はどうも調子に乗り過ぎ感があります。

まあ京都市や京都府なのですが。

どうも行政が力を持つと、あれこれ市民に命令をしてきます。

過料などの直接的な命令もあれば、市民しんぶんなどで世論を動かしているつもりなのか、あれこれ息が詰まるような命令をしてきます。

もちろんほとんど無視しています。関わりたくありません。

それはさておき、間接的な拘束です。

「先方の家族」が、僕の行動を決めた

先日、あるアポイントがあったのですが、先方の家族が入院しているということでキャンセルになりました。

ということは、自分とは全然関係ない「先方の家族」が、僕の行動を決めたということになります。

面白いですね。

そこで、周りを見渡してみると、自分とは直接関係なさそうな人の影響で、自分の行動が制限されているようなことがたくさん見つかりました。

ただ、それは「気にしてみよう」と思って気にしだしたから見えてきた事実です。

しかし、事実として推測は可能ですが、本当の事実という事実ではありません。

「アイツ」の正体は、生存本能であり、「自分と関係している」とか、「自分と関係しているから放っておくな。やばいぞ」というような衝動の原因です。

自分との関係性において重要度の高いものから無駄な煩いを起こさせようとしてきます。

例えば「宇宙」を考えた時、本当はいつもイメージされるような「銀河系」などの宇宙だけでなく、空間すべてを含まなければなりません。

しかしながら、自分が認識できたり、想像できる範囲でしか宇宙は概念として出てきません。

意識の中の重要度

しかし宇宙は、すべてといえば全てのはずです。

全てのはずなのですが、自分が捉えることのできる範囲で、しかも重要度の高い順番からしか捉えようとしません。

そこで、あるものを重要だと判断した瞬間から、言葉の表現が悪いですが「差別」とか、「優劣の判断」などがはじまります。

重要な対象による制限

そして、「重要だと判断した対象」によって、意識が制限されます。意識が制限されるということは、行動も制限されます。

これを突破するためには、「重要である」という判断をなんとかしなければなりません。

では、「重要ではない」と再設定するのか、ということになりそうですが、それでは、「重要ではないと思い込もうとしている」という葛藤が始まります。

これは、なんだかパートナーと別れてまだ未練のある人のようです。

物理的距離を取ることでも重要度は下がる

重要度を下げるために、環境を変えたりして、意識からなくそうとします。

重要度は、意識の中での距離に相当するため、実際に「会わない」などの物理的距離を取ることでも、徐々にですが重要度は下がっていきます。

新しい情報が入れば入るほど重要度は下がっていきます。

高校を卒業して、ばらばらになった同級生が、遊びの誘いをしても、新しい環境での新しい友だちを優先しだすことと同じです。ちなみにそれでも付き合いが続く友達を親友と呼びます。

重要度が高かろうが「それがどうした」

ただ、重要度がどうあろうと、それを下げることよりももっと簡単で根本的な解決策があります。

それは、重要度が高かろうが、「それがどうした」と思うことです。

「それがどうした。もし何かがあっても、自分には関係ない」ということを考えることです。

本当に何か関係があるのでしょうか?

何か困るのでしょうか?

それに本当に気づけた時、自称「自由人」の言う自由ではなく、本来の自由へと一歩を踏み出すことになります。

真なるものの専制政治に反対 曙光 507

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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