偶然の人間

あらゆる発明の本質的な点を遂行するのは偶然である。しかし大ていの人間はこの偶然には出会わない。 曙光 363

どんなすごいようなことでも、考えて頑張ったからだと思うと、「考えて頑張ったからレベル」の結果しか生まれないでしょう。

いろいろ振り返ってみると、今ある全てが、偶然の要素がたくさん組み合わさって現象化しているはずです。

まあ生まれたことはさておき、誰かと友だちになったことも、今の仕事に就いたことも、偶然の重なりで起こっているはずです。

偶然の重なりによる現象化

例えば、今の仕事を選ぶまでの間に、なぜその仕事に興味がわいたかを考えてみてください。

例えば同業で転職して、同じような仕事をしているとしても、最初の仕事のきっかけや一番最初にしたアルバイトなどは、偶然で選んでいるはずです。

その因果が今でもずっと続いているということをイメージしていただければわかりやすいかもしれません。

「自分が考えて行動を起こした結果だ」

と思いたい気持ちはわかりますが、では、どうしてその考えが生じたのかを振り返ってみましょう。

ある考えを起こす原因が幼少期からたくさん生まれ、そして、偶然あるときにそれを結んで形にする条件が発生したことを思い出すかもしれません。

そのような感じで、たくさんの偶然の重なりによって現象が起こっているという感じになっています。

といっても、時間は過去に流れています(流れを考えればそうなります)。

というより、時間など認識だけの問題で、本当は「存在」しているものではありません。

そして、時間という認識の中で、様々な「偶然」はどういった因果関係で起こるのでしょうか?

それがわかるとゴールは近いです。

一流の人に教わると一流になりやすいが…

ブッダも生存中たくさんの弟子がいましたが、その全てがきちんと悟ったかといえばそうでもありませんでした。ということになっています。

サーリプッタなどの十大弟子などはきちんと「ブッダ」になったとされていますが、その他のたくさんの人達は最後までは悟れていなかったことになります。

誰かに物事を習うと、全てが解決するみたいな風潮がありますが、そのレベルでの習得には、一流の人にかなりの頻度で教えてもらわなければなりません。

それでも、その人と同じようになれるのかはわからないといったところですが、教えてくれる人が二流だと、期待通りには物事を習得することができません。

そんな人に習うくらいなら、いっそ一人で考えてみたほうが、可能性はあります。

実際、伝記的には、ブッダことシッダルタはそんな感じでした。

スマートフォン全盛期の現代では、何でもグーグルが教えてくれそうですが、すぐにピッタリの答えがあると思うのは大間違いです。

社会で生きていく程度ならば、それでもいいのかもしれませんが、Googleは情報の正確性は保証していません。

盲点が生じ「偶然」を見逃してしまう

そして、物事をよく知っていそうな大学教授であろうと大半が二流以下だと思っておいたほうがいいでしょう。

なぜなら、あるカリキュラムにそって何かを習得はしているものの、何かに属して研究するというその方法論では必ず盲点ができるからです。

つまり、何かを「勉強」することは得意でも、何かの「偶然」を発見するための純粋な眼を持っている可能性が低いからです。

実際にその手の人で、自分を納得させるほどの回答をしてくれた人は一人としていませんでした。

もし、正確な回答がどこかにあってそれが確実ならば、それはもう語られず、それに関する議論はなされていないはずです。

もしそんな人達でも「先生だ、権威だ」と思い込まず、「自分にはおそらく盲点がある」ということに気づいている二流ならば、ともに歩く仲間になれるかもしれません。

相手が一流ならばそれでよし、でも、下手に二流に翻弄されて、彷徨うくらいならいっそ、一人で思索しましょう。

その方が、「偶然」を発見できるかもしれません。

偶然の人間 曙光 363

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

「偶然の人間」への2件のフィードバック

  1. 時間は過去に流れているというのは砂時計のことですか?
    時間の認識の中で偶然はどのような因果関係で起こるのかを理解したいのですが、なかなか….。

    1. 時間が過去に流れているというのも印象です。時間自体は存在しません。情報の信号を受け取り、認識する働きがあるからこそ時間という解釈をしているという感じです。

      思考で追う過去からの因果ではなく、今現在にシフトしてみてください。なお、コントロールする必要はありませんよ。

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