誰が一体いつか孤独になろうか!

恐怖心をもつ者は、孤独とは何であるかを知らない。彼の椅子の背後にはいつも敵がいる。― おお、孤独と呼ばれるあの繊細な感情の歴史を、だれがわれわれに語ることが出来ようか! 曙光 249

孤独が嫌だからといってある対象と一つになりたくても、それには限界があります。いくら近づいてもそれ以上は近づけない、そして同化したくてもできないということは、想像しただけでも十分にわかります。

意識の上である程度同化するようなことはできます。しかし、一つになったわけではありません。

孤独とは一体何なのでしょうか?

孤独とはもちろん「独りぼっち」のことを指しますが、「誰が一体いつか孤独になろうか!」ということで、一般に言われる「孤独」と「孤独ではない」という概念について触れていきます。

現象を感じる場所

さて、この世界がどうなっていようが「感じること」が出来るのは自分の五感と意識でしかありません。他人の存在を認知するというような現象についてもそれらは対象との接触からイメージの形成と言ったプロセスを経てこの心で受け取っているだけという構造を持っています(五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)五種の執著の素因は苦しみをもたらす)。

たとえ何か物理的に同一化出来たとしても、感じている場所が同じではなく、確実に感じているとわかるのは、元の自分と同じ心、それまでにもあったような一つの心だけです。

それが感じる何かが変化するだけ、決して一つにはなれません。一つになる必要もありません。

群れたい気持ち

孤独はいけないことだ、みんなと戯れたい、群れたい気持ちはみんなもっている、というのが相場のようですが、そんなことはありません。

世間では「仲間がいるのはいいことだ」というようなことを疑いなく思っているフシがありますが、よくよく考えてみると、仲間がいることということ自体は無属性であり、無属性ながらその仲間への執著があると、それは苦しみを生み出します。

「孤独は嫌なことだ」という感じで「群れたい」という欲が出たり、裏を返せば孤独への怒りを持つことになるという感じです。

外に何かを求めて、何か安心感のようなものはあるのかもしれませんが、それは自分の意識が変わっただけで、何かと「絆」ができたわけではありません。その時に出来たようなつながりは、永続はしません。

諸行無常ゆえに

自分も相手も変わらないのであれば、変わりはしないかもしれませんが、諸行無常ゆえに心身共に瞬間瞬間で変化し、そして変化があったから、その人との関係性が経験されたということになります。一つの関係性がある地点からは永続するということはありません。

変化を捉えることで現象を感じているということになり、他人の存在すらも変化を捉えることで起こり、変化があるからこそそれと出会い、出会ったからには必ず別れるという感じになっています。

いつか孤独になるという以前に、孤独でなかった試しはありません。たまに意識がかき乱されて、意識が持っていかれるかのような錯覚が起こることがあります。その時に、孤独ではないと錯覚しているというようなことです。

いつ何時でも孤独だと知れば、群れを求めることも、逆に孤独を渇望することもなくなるでしょう。

孤独には「分離」がある

孤独だと思うためには、「分離」しているという認識が必要になります。自分と誰かは切り離され、独立して存在しているのだ、という認定です。

そう考えると、いつまで経っても、何をどうしようとも孤独であること以外に可能性はありません。

しかしながら、対象に客観性をもたせることもできますが、そんな客観世界の存在性は、主観の中に入ってこないと存在し得ないというか、世界の中に無いのと同じになります。

そう考えると、あなたがいなければ相手はいないのです。

あなたが選ばなければ、存在していようが存在していないのと同じことになります。ということは、何かしら「選ばれて」いまの心に描写されているはずです。

そうなると、心が受け取るものはすべて他人でも外界でもありません。

そこには分離が無いのです。

そして、分離がなければ、孤独もないのです。

誰が一体いつか孤独になろうか! 曙光 249

孤独や孤独感と「独立して自由であること」

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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