見栄や恥に釣られる甘い客ということで、恥の意識とマインドコントロールについて少しだけ触れていきましょう。
マインドコントロールの要因はいくつかありますが、用いられやすい心理的要因として「恥の意識」があります。
恥をかきたくないということに始まり、カッコをつけたいとかモテたいという意識があると、意志決定をコントロールされてしまい時に「甘い客」として取り扱われてしまう他、最悪の場合は世間でいうところの「洗脳」をされてしまいます。
北九州監禁殺人事件においても、そのマインドコントロールに恥の意識が利用されていたというのは結構有名だったりします。
積極的な「見栄を張りたい」という気持ち、消極的な「恥ををかきたくない」という心理は根本的に同じ性質のものであり、共に恥の意識の利用によるマインドコントロールを叶えてしまう要素となりえます。
恥の意識によるマインドコントロール
先日「お通しやサービス料、保証金といったよくわからない商慣習」で少し触れていましたが、あのようなある種不当なやり方が通用するのは恥の意識によるマインドコントロールがなされているからです。
「そんな細かい部分に文句を言うなんて」「値段を気にするなんてカッコ悪い」といった感じで、「気前がいい」とか「粋だ」とかそうしたことを美化して、不当な制度を肯定しているにしかすぎません。
「細かい金額を気にするなんてケチくさいと思われたくないだろう?」という恥の意識の利用による一方的な制度の押しつけであると考えることができます。
正当なサービスだというのならば正々堂々とアナウンスすればいいのに、それをしたら客足が遠のくからやらない、でも小銭を掠めて利益率は上げたいという邪念ですからね。
こうした感じで「恥ずかしくてわざわざツッコんでこない」という構造を利用して、一方的にこっそりと自己都合を叶えている業者はちらほらいたりするわけです。
しかし通常の感覚では、やはり「それくらいは気にしない」というのが普通だと思ってしまったりしています。
僕の感覚では、「そんな細かいこと気にしませんよ」と大人ぶってカッコつけてるほうが、「今後甘い客としてぼったくられたり、詐欺に遭うのではないか」と心配になってしまいます。
まあ別に本当に気にせずにいてもいいのですが、恥の意識によってマインドコントロールされている部分があるのなら、それは本人のためにもなりません。
恥の意識を利用し自己都合を正当化する人たちの邪念に巻き込まれてしまうからです。
見栄や世間体を気にする意識
見栄や世間体を気にする恥の意識があると、強烈なマインドコントロールとまではいかなくても、少なからず選択が限定的になったりします。それにより行動がコントロールされてしまうわけです。
これはそれほど見栄や世間体といった意識がなくても起こります。直接的な毀誉褒貶といったものだけでなく、「何となくの常識」に影響されたりします。
最もわかりやすい例は、お店において「何も買わずに店を出ることをためらってしまう」というようなものです。
その他、土産物を買う時に、本当に最適なものを選ぶのではなく、「これでは安すぎて失礼かなぁ」などと値段の方を気にするというようなものもそれにあたるでしょう。
「低額すぎるのはちょっと…」ということ自体は「相手への礼儀」というものが含まれていますが、だからこそ自分の持つ恥の意識の方がうまくオブラートに包まれてしまい、直視することができないという感じになっています。
見栄というと、身の回りの平均的な雰囲気に対して過剰、という感じですが、世間体というとその平均的な雰囲気を最低レベルとするという感じになります。結局、そこには恥の意識があるわけです。
そして「恥の意識から、選択や行動が限定されてしまう」ということは、その構造を策士が自己都合に誘導するために利用するということもあり得るというのは想像に容易いはずです。
甘い客が持つ恥の意識
さて、営業の世界には「恥に釣られる甘い客」という概念があったりします。ちなみにこれは僕の営業の師匠(仮)が教えてくれた概念です。
「屋根が一文字瓦の家は甘いぞ」
一緒に街を歩いていて彼はそんなことを言い出しました。
「あのタイプの車が駐車場にある家は、世間の平均にそぐわんと不快になるタイプやからな、適当に恥の意識を表面化させろ」
というような感じで、営業の師匠(仮)は、家の外観を観ただけで心理分析までしていました。
「玄関入ったら多分ゴルフクラブあるから、メーカー確認して、わからんでもいいから褒めとけ」
彼は家の外観を観ただけで、そんなところまでアドバイスしてくれました。さすがは百戦錬磨です。
「ガレージの中にある車が高級車やったらな、あんまり車のことわからんでもいいから、『確かこれって…』とかそんな感じで話を振れ。そしたら『何とかエディションや』とか言ってくるから」
「そんな感じで話しておいて、『まさかこれくらいの金額のものに躊躇はしませんよね?』という空気を作れ」
という感じで教えてくれました。
「どんな人に習っていたんだ」という感じもしてしまいますが、恥の意識とマインドコントロールについて明確に話しをしてくれたのは彼が初めてでした。
見栄は恥の意識の裏返しであり、うまく使うとあっという間に高額なものも売れてしまうという感じでした。
「一見厳しそうやけど、突くとこ突いたら甘いぞ」
営業の師匠(仮)はそんなことを言っていました。
まあこれはまさに「恥の意識を利用し自己都合を正当化すること」の応用です。
でも、甘い客が甘いのは、「見栄」や「恥の意識」があるからです。
それがなければ、相手の都合にハマったりはしません。
気前の良さと甘さ
ここから見えることは、気前の良さと甘さは似て非なるものであるということです。
「別にそんなもんくらい気にしてないよ」と「細かいことを気にしない」という局面においても、その奥にあるものが見えや恥の意識なのか、それとも単なる気前の良さなのかは千差万別です。
まあ確かに気にならないような金額だったりしても、その不当なやり方に怒りが生じます。それが寡占的な業界のものなら利用せざるを得ない時もありますが、自由競争がよく働いている市場では、おそらく自然に淘汰されていくでしょう。
しかしそれでもある程度成り立っているのは、恥の意識による軽いマインドコントロールがなされているからです。
その金額を失うということよりも、そうしたやり口を行う人たちの世話になりたいなどと思わないという感じですし、そんなお金があるなら寄付でもしていたほうがいいと思っています。
たくさんお金があったとしても、そのお金は誰かが僕に預けてくれたようなものですし、一応基本的には汗水の結晶ですからね。
自分の汗水の結晶でもありながら、誰かが汗水の結晶を預けてくれたものでもあります。
それを変なところに流したくないというだけであって、他人にお金を使う事自体には抵抗はありません。
で、考えようによってはもっと良いお金の使い方があるのに、恥の意識ゆえに無駄に変なところにお金を流すというのは、変な業者の行為を肯定することになり、票を投じることにもなります。だから社会全体のためにもなりません。
「自分のためにだけしか使わない」というのは吝嗇の部類に入りますが、恥の意識ゆえに変に受け入れるというのも、解釈によっては自己都合であり、心理面から見ると吝嗇の部類にすら入ります。
見苦しいと思うのはまさに恥の意識によるマインドコントロール
恥の意識は様々なマインドコントロールに利用されます。詐欺とまでいかなくても、商品の購買行動をはじめ、一方的な内部制度の押しつけ、悪質な労働環境を受け入れさせることなどにも用いられたりしています。
意図的に恥の意識を利用している場合もありますが「そうした感覚が普通」といったように気質が雑なだけで悪気なくやっているということもあります。しかし悪気はないにしろ、その実際の構造は恥の意識を利用したものであるということがよくあります。
「おいおい…」とツッコミを入れていいような局面において、スマートを気取っている方がカッコいいでしょうか?
サービス残業という名の奴隷労働を受け入れている人のほうが素晴らしいのでしょうか?
有給を消化しないことは美徳なのでしょうか?
まあ取り立てて騒がなくてもいいですが、「そうですか、勉強になりました」と去ってもいいですし、徹底的に対抗してもいいはずです。
それを見苦しいなんて思うとすれば、それは確実に恥の意識によるマインドコントロールの結果と言ったところでしょう。
悪徳営業も詐欺師もブラック企業も、そうしたところをうまく利用しているということをお忘れなく。
最終更新日:
いつも貴重なお話しを頂きありがとうごじます。
サービス残業、有給休暇の未取得、定時退社はしない…。
私は昭和の人間で、まさに「24時間戦えますか?」の世代です。
そのためか、どうも上記3つのことは「美徳」として暗黙の空気が流れていました。
老齢になって思いますことは、幸せは自分でしか作れない(または得られない)と言うことです。
偏った言い方ですが、他人の目を気にしていたり、他人と何かを比較していることで幸せにはなれないと思っています。
これもbossuさんのブログを読み始めてから気がついた事ですが…。
自我を満たすために、人の顔色を伺い、見栄を張ることのつまらなさを教えて頂きました。
同時に、「このセミナーに参加すればステージが上がりますよ」的なお金の使い方にも疑問を持ち始めました。
そんなもの、ブックオフの100円コーナーにある様な話ですしね。
では、引き続きのご指導をお願いいたします。
「他人の目を気にしていたり、他人と何かを比較していることで幸せにはなれない」という面、そして「人の顔色を伺い、見栄を張ることのつまらなさ」に気づかれたのなら、それを打ち破るのにあたって他人に依存することはできないという点をよく観察してみてください。
「他人の目を気にしないために装うこと」や「他人との比較における優位性」は、身近な人等々他人がもたらしてくれる場合もあるかもしれませんが、「気にしない」という意識の状態そのものを他人がもたらしてくれることはありません。
なので、自らを拠りどころとしてください。