
経歴効果(履歴効果/career effect)とは、心理学における実験、測定において、「前回の測定が今回の測定に影響する」といった形で捉えられる影響のこと。実験の測定値に異なりがあった場合に条件統制の問題として考えられる場合の影響を意味する。
心理学における実験や測定は、物理的測定を代表としたような、自然科学の分野のように条件を同一にできず、学習や動機づけ等の要因により測定値が異なる場合がある。測定の経過に伴い対象が変化するため、各々の測定が独立することはない。よって同一対象に同じ測定を繰り返したとしても、学習や動機づけ等の要因により測定値が異なる場合、その影響を条件統制の問題として捉え、生まれた異なりを履歴効果(経歴効果)として扱う。
実験や測定でも、一度目と二度目では同じ条件・環境ではない、という「当たり前のこと」になるが、複数回の実験や測定の間でテスト内容の意味を推測したり、知ったりすれば、さらに結果は異なってくるはずである。そのような中「りんごの木の絵を描く」といった同じ心理分析テストを費用を取りながら何度も繰り返す精神科医がいたりもする。
経路依存性が織りなすシステムの記憶と不可逆性
履歴効果、あるいはヒステリシス(Hysteresis)という概念は、システムが現在の入力刺激だけで反応を決めるのではなく、過去にどのような経路を辿ってきたかという「記憶」を内部状態として保持していることを意味する。同じ条件下であっても、上昇局面にあるのか下降局面にあるのかによって、システムが全く異なる振る舞いを見せるこの現象は、物理学から生物学、経済学に至るまで、複雑な動的システムに普遍的に存在する「状態の粘り気」として理解することができる。
物理学的起源と「過去」の保存
この概念の起源は19世紀の物理学に遡る。1881年、物理学者ジェームズ・ユーイング氏が磁性体の研究において、磁場を取り除いても磁気が完全には消えず、元の状態に戻らない現象を発見し、ギリシャ語で「遅れること」を意味するヒステリシスと命名した。
弾性体が外力を取り除くと即座に元の形状に戻るのに対し、ヒステリシスを持つ系は、加えられた力の歴史を内部構造の変化として蓄積する。これは系が不可逆的な性質を持っており、時間の矢がシステムの振る舞いに本質的な役割を果たしていることを示唆している。単なる入力と出力の関数関係ではなく、時間軸上の積分値が現在の挙動を支配するというこの洞察は、後の制御工学や情報理論において、システムに「メモリ(記憶)」を持たせるための基礎原理として応用されることとなった。
知覚心理学における閾値の乖離
人間の知覚システムにおいても、履歴効果は顕著に見られる。精神物理学の古典的な測定法である「極限法」を用いた実験において、刺激の強度を徐々に上げていく上昇系列と、下げていく下降系列では、知覚が切り替わる閾値が一致しないことが知られている。
例えば、ドットの集合から何かの形が見えてくる実験において、ノイズだらけの状態から徐々に形を整えていく場合(上昇系列)は、かなり整うまで何の形か認識できない。しかし、一度はっきり見えた状態から徐々に崩していく場合(下降系列)は、かなり崩れてもその形を見続けることができる。これは知覚的な慣性(Inertia)とも呼べる現象であり、脳が一度構築した解釈モデルを維持しようとする傾向、すなわち「事前分布」が知覚を安定化させている証左である。この履歴効果のおかげで、我々は瞬きや視線の移動といったノイズによって世界が点滅して見えることなく、連続した安定的な現実を享受できている。
経済行動における経路依存性とロックイン
経済学の分野では、オリヴィエ・ブランシャール氏やローレンス・サマーズ氏らが、失業率の分析においてヒステリシスモデルを導入したことで知られる。不況という一時的なショックが過ぎ去った後も、失業率が元の水準に戻らず、高止まりし続ける現象である。
これは、一度失業するとスキルが劣化したり、就労意欲が減退したりすることで、労働市場の構造そのものが変化してしまうためである。個人の意思決定においても同様に、過去の選択が現在の選択肢を制約する「経路依存性(Path Dependence)」が働く。QWERTY配列のキーボードが技術的に最適でなくとも普及し続けているように、初期の偶然や過去の経緯が、将来の長期間にわたってシステムを特定の状態に固定(ロックイン)してしまう。マーケティングにおけるブランド・ロイヤリティもまた、スイッチング・コストによる履歴効果の一種であり、消費者の「現状維持」という慣性をいかに設計するかが戦略の要諦となる。
動的システムとしての脳と相転移
現代の計算論的神経科学の視点では、履歴効果は脳の非線形ダイナミクスにおける「アトラクタ」の性質として記述される。神経回路網の状態空間において、ある安定点(アトラクタ)に一度落ち込むと、多少の外部入力の変化があってもその状態から抜け出すには大きなエネルギーを要する。
この特性は、曖昧な入力に対して判断をふらつかせないための「ロバスト性(頑健性)」を保証する一方で、思考の柔軟性を奪う「固着」の原因ともなる。新しいアイデアを受け入れたり、パラダイムシフトを起こしたりするためには、この履歴効果による安定性の壁(ポテンシャル障壁)を乗り越えるだけの強力なエネルギー、あるいは系全体を揺らすノイズが必要となる。学習とは、このアトラクタの地形そのものを書き換え、履歴の呪縛から新たな安定状態へとシステムを遷移させるプロセスに他ならない。
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