清々しい仕事の探究

楽しいことを仕事に、面白く感じることを仕事に、ということがよく語られますが「仕事における清々しさ」は、語られているようであまり詳しくは語られていません。

一応要素としては語られていたりはするものの、「清々しさも重要である」という一言で終わっていて、具体的な臨場感が弱いものがほとんどです。

元々欲よりも怒りが強い僕にとって、この清々しさは大切な要素でした。清々しい仕事の探究を繰り返してきたような気もします。

「結果がすべて」「相手への貢献度は数字で示される」などという人がいますが、「本当にそうなのかなぁ?」と思っていましたし、今でも思っています。

基本的にはそうなのですが、嘘が多く含まれている場合もよくあるわけです。

大企業のツラをして詐欺的営業をする人、相手が情報弱者だからと平気で必要のないものまで売りつける人、そんな人もたくさんいるのではないでしょうか?

「相手がシラフなら通用しないが、変性意識を強めれば売りつけることができる」

そんな感じでセコいテクニックに走っている人もいるのではないでしょうか?

仕事にまつわる嫌な要素

元々怒りが強いためどうしても嫌な要素について考えがちです。

これを完全に無くすという方向に意識を向ければ、清々しさを大切にした仕事のあり方にいずれたどり着いていきます。

ただ、嫌な要素にどっぷりと意識を向けると、それから逃げることしか思いつきません。ということで、思いついては不採用、「そんなものはあるわけがない」という結論の方にばかり行ってしまいます。

掴みどころのない「それがないイメージ」を朧気ながら掴んでいくしかありません。

とりあえず嫌な要素を抽出します。

自分が売りたくもないもの、相手が損をするものを無理に売るという要素は嫌な要素です。

売りたいものであっても、嫌な相手には売りたくありません。というより接したくありません。

仕事のやり方的にどこかに「自分の都合」が入ると相手のためにはならないのではないか?というような思いがあります。

これはつまり相手のためを思って考えているつもりでも、売ることができないと生活が成り立たないため、どこかに嘘や誇張や「都合の悪い点を隠す」というようなものが含まれてしまうのではないかということです。

相談と自社商品

そこであえて「ファイナンシャルプランナー、ライフプランナー」というものを例に考えてみましょう。

外国でファイナンシャルプランナー、ライフプランナーと言うと「相談だけをする」という仕事内容が主になっています。

しかし日本国内のイメージ、ならびに実態として、たいていそれらの肩書があっても結局どこかの保険会社や証券会社等々に勤めていたりして、自社商品・サービスの売上で収益を賄っています。

相談内容への回答はある程度の正しさがあったとしても、最終的な販売商品が自社商品という形になります。

そうなると、自社サービスより競合他社のサービスの方が厳密には理に適っているという感じであっても、自社サービスの利用を提案することになります。

これでは清々しさが生まれません。

その選択が本当に最適である可能性もありますが、たいていは結局相談した人も多少の損はして、相談を受けた人も「本当はちょっと違うんだけどね」という違和感を残したりしてしまうわけです。

ただ、相談者側があちこち相談にまわる時間と手間を考えた場合、商品選択に多少の損があっても時間と手間を金銭換算すればトータルではプラスになっているのではないかと考えることができます。

というような言い訳を相談を受けた側は自己説得することによって、なんとか清々しさを保っているというのが本当のところではないでしょうか。

「相談は無料」という風潮がこうした構造を作っているのではないかと思います。

相手が医師や弁護士となると、相談は有料というのが普通であるという感じになっています。その一方、大きなお金が動くような事柄であっても、「相談だけに対価を払う」という感覚は、日本、特に個人、家計レベルではあまりありません。

理由はおそらく、資本主義の意識が中途半端で、考え方が消費者的であるからだと思います。

企業の場合は相談の結果、売上が上がったり、コストが削減できたということから最終的な利益が動きます。つまり相談が投資的な意味合いを持つようになります。

家計の場合は、コストの削減と主観的な効用にしか意識が向かないので、投資的な意味合いが薄れるという感じなのでしょう。

「本当にそれが素晴らしいものになるのであれば」というただし書きがつきますが、個人の住居を含め不動産を扱う場合、客観的な相談に100万円払っても惜しくはありません。

例えば、5000万円の予算であったとして、カス物件を掴んでしまっては損失は1000万円にも2000万円にもなってしまうからです。

大工さんでも不動産屋さんでもないのであれば、家の作りがそれ相応のものなのか、立地的条件もその価格相応のものなのかという点は素人目には判断が難しいと考えています。

不動産は、その字のごとく動かすことができません。自分自身が動くことで住む場所を変えることはできますが、それは「損失のほぼ確定」を意味します。悪徳業者にカス物件を高値で掴まさせられてしまった場合、人生を大きく縛るものとなります。

住宅ローンを利用する場合であれば、金融機関の選択や商品の選択も大きく影響を与えます。総支払額に数百万の差が出る可能性もあります。

そのリスクを回避できるのであれば、「相談で100万円」でも十分に価値があります。

「都合の悪い点を隠す」という要素

悪徳業者とはどのようなものかという点について「都合の悪い点を隠す」というものが大きのではないかと思っています。

これはある塗装屋さんに聞いた話ですが、通常の価格の7~8割程度の金額で仕事を請け負うような業者は、5つ必要な工程を2つくらい抜いて3つの工程で済ますということをやっていたりするようです。

そうなるとどうなるかというと、きちんとやれば10年持つものが3年で駄目になるということのようです。

それを相手に伝えていればある意味清々しさがあります。

「きちんとやれば10年持ちます。このやり方だと3年しか持ちませんが、価格は安価で済みます」

ということを堂々と言うのであれば清々しさがあるということですね。

それはそれで選択肢としては良い場合もあります。

例えば「2年後に取り壊す」ということになっていた場合、10年間持つ代わりに金額が高くなってしまう正当なやり方よりも、「その間だけとりあえず持たせられれば良い」という意図がある場合もあるからです。

しかし、そうした本質的な構造を隠しながら「うちは企業努力で安くで提供しています」という宣伝をしていた場合、それは嘘です。

相手は素人だからと「他のところと同じような内容ですが安くで提供しています」と宣伝して都合の悪い点を隠しています。

「隠していること」を隠しているということは、悪徳業者です。

「それがわかるのは3年後。客の都合など知らん知らん」

という感じです。

これは家も同様です。

散歩途中に建築途中の家を見ていると、本当に使っている木の数が大きく異なります。しかし、最終的に外壁なんかがつくと、その内側は見えなくなります。こうした点は素人目には分かりません。

「へぇ。このハウスメーカーはぎっしり詰めるんだなぁ」「おいおい、ペラペラじゃないか。建ててから売るから買い主にはわからないからかな」等々、本当に様々です。

「きちんとやれば30年以上持つがかなり作業を抜いてやった。表面から見れば素人にはわからない。ガタが来るのは15年後、20年後。その頃にはオレらのことなんて忘れてるさ」

というのが悪徳業者です。

清々しさがありませんね。

仕事をしていて清々しく誇りを持てるのか疑問に思います。

まあ清々しさもなく誇りも持てないから、夜の店で「褒めて欲しい」「オレはすごいんだ」みたいなことをしたり、高級車に乗りたがったりしているのではないかと思ったりもしています。

必ず相手の利益になるという形

そこで長年いろいろと考えましたが、基本的には「必ず相手の利益になるという形」を目指すには、報酬以外の面で相手のことだけを考えられるような業務が最も良いのではないかと思ったりもしています。

つまり先の例で言えば、ファイナンシャルプランナーや不動産等々における「相談で100万円」のような形ですね。

「自社商品を売り込まなければならない」という要素を排除するということです。そうでないと、本当に相手のことを考えているのかどうかが怪しくなってしまいます。

もしくは、一切の営業を必要としない形です。これは結構ありふれています。自分の好みの商品やサービスを単に販売するということは、特に売り込み要素がないので良いのではないかと思います。ただ、それは自分の店でない限り難しいのかもしれません。

ある人は、正義と悪のコントラストをよく描いていましたが、倫理を考えるうえでは「そんなものは立場が違えば逆転するだろう」というような構造があります。

そこで絶対的な正義とは何かということで別のある人は「お腹のすいた人に食べ物をあげること」を描きました。それを見た「正義と悪を描いていた人」は絶対的な正義とは何かを改めて考え「怪我や病で苦しむ人を治療すること」を描きました。

仕事における絶対的な正義、善とは何かを長年考え続けてきました。そしてその具体的な表現方法については、今でも考えています。

勤め人時代の僕

勤め人の営業さん時代、僕の営業成績は、中の上から下の中を行き来するような感じでした。比較対象を「同期」にした場合は、上の部類に入るかもしれませんが、全体の中ではそんな感じでした。

最高で「中の上くらい」と言う感じでしたが、実際、不正を行わずに行けるのはそのくらいまでです。

それでも「都合の悪い点を隠す」という要素すらない感じで成績に結びついていたのは2~3割程度です。

全体の中の「上」に入る人たちは、「グレーからブラックまでの間」の不正を行っていました。

ここで、「できない営業の僻み」だと思う人もいるかも知れませんが、その人達は後に不正が発覚して業界を去ったりもしています。

「会社全体の利益を考えて事件化しない代わりに黙って去ってくれ」

という感じです。

その時の仕事を続けなかった理由のひとつとして、やはり堂々とした清々しさがなかったからという点があります。

すごく成績を上げようとしても、正当な営業方法で、不正営業をしている人たちの営業成績に届くには、時間が足りません。

競合のサービスと比較しても劣っています。もちろん優位な点もあって、それでなんとか自己説得をすることもある程度はできます。

しかしやはり100%の清々しさで仕事をしたいと思っています。

そうなると勤め人ではなく、事業家や商人になるしかありません。

事業家は、どの事業をやるかを選べます。

商人は売るものを選べます。

自分が最高だと思うものだけを扱うこともできるわけです。

勤め人の場合は社長等々が選んだものを「違うなぁ」と思って売りにいかなければならなかったりします。もちろん、社長等々が選んだものが自分の中の「最高」が合致していれば問題はありません。

もちろん「男性が女性向けの商品を売っている」という場合もあるので何とも言えない部分がありますが、自分が欲しいとも思わないものを人に売りつけることは地獄です。

堂々とした清々しさがあれば堂々と表に出る

「自社商品を売り込まなければならない」という要素を排除するというようなことを言ったりもしましたが、これは誤解を生む可能性があります。

本当に自分が最高だと思うのであれば、自社商品・自社サービスの良さをどんどん表に出さなければなりません。

なぜ出さなければならないかというと、「表に出さない」「表に出せない」というのはおかしいからです。

自分で最高だと思っていて「ある特定条件の人たちにとっては必ず相手の利益になる」と思っているのであれば、なぜそれを世に知らしめないのかということになるからです。

裏を返せば「相手の利益になることを隠している」ということにもなります。

それは構造上おかしなことです。

ということで、堂々とした清々しさがあれば、堂々とどんどん表に出さなければなりません。

それができない場合は、まだ清々しさが足りないか、仕事とは別の部分で外に出すことに対する何かしらの抵抗があるということになります。

Category:company management & business 会社経営と商い

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ