「本当に好きなことを探して、それだけをしなさい」
そんなことを言われても、なかなか本当に好きなことというのは見つかりません。
「将来何になりたいか決めなさい!」
そんな脅しをされたところで、数ある既製品の中から選べと言われているようなもので、それが思春期なら世の中をそんなに知らないので、トンチンカンなものしか選ばないでしょう。
好きな理由
「本当に好きなのか?」
そんなことをたまに考えてみてもいいですが、「理由」をいくら並べたところで事後的、あまり意味はありません。
たいていの場合は、その時たまたま「ストレスを紛らわせてくれるもの」として、都合が良かったりしただけかもしれません。
すなわち、穴埋めとして機能していただけで、本当に好きなのかは怪しいでしょう。
イライラのない状態
イライラのない状態になれば、何をしていなくても別に平穏で乱れがありません。それはすごく心地いいものです。
ということは、何もしなくても心地いいのですから、本来、「幸せな状態」がまず基本形として、ただあるはずです。
「幸福」という言葉
「幸福」という言葉は、あまり好きではありません。
変な占い師や新興宗教が好きそうな言葉です。でも別にそんなことが理由ではありません。
幸や福という言葉は、どこか「いいことがあった」「いいことが訪れた」というようなニュアンスが拭えないからです。
それには、「何をどうこうした」とか「何がどういう状態になった」という条件が前提になっています。
たまに「最高」を「最幸」と書いて、「ウェーイ」となっている人がいますが、僕は寒気がします。
人は本来幸福の絶頂にいる
ただ、語弊があるかもしれませんが、人は本来、幸福の絶頂にいます。
でも、普通はそうは思えません。
それは、アイツの駆り立てによって変なふうに世界を捉えていて、「恐怖心による渇望感」によって感情をかき乱されているからです。
何もしない状態が心地いいのであれば、一方で、「じゃあ何もするなということか。つまり死んだほうがいいのか」という人がいます。
「何もしないこと」へ執着
ところが、心が乱れないというより、仮に乱れてもそれにとらわれないでいると、別に執着もなくなり、「何もしないこと」へ執着もなくなります。
ドライブをしていても楽しいし、本を読んでいても楽しい。パーティーに行っても楽しいし、一人旅も楽しい。これはジャンルが異なるだけで、どれも楽しいということになります。
そのことを知っているはずなのに、何か最高の状態という唯一のものがあって、それ信じてを求めている人たちがいます。
「何もしないこと」を条件にしている限り、アイツの引力下にある、といったところでしょうか。
嫌なことをわざわざすることもないですが、本当に好きじゃなくてもいいんじゃないですか?
「これが好きだから」とか、とにかく無理に動機付けをしようとするのはなぜでしょうか。
そんな「アイツ」を優しく撫でてあげてください。
改バージョン⇒本当に好き? 改
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