文化、文化的というと、様々な定義がありそうです。
ウィキに載っていたモノで言えば
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ハイカルチャーのように洗練されたもの
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象徴的な思考や学習による信念やふるまいのパターン
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ある社会組織に共有されている価値観
上記のものは一切本質的ではないと思っています。説明になっているようないないような定義もあれば、半分くらいしかかすっていないような定義ですね。
「ハイカルチャーのように洗練されたもの」というのは、「高次の文化のように洗練されたもの」ということで、定義の中に単語が入っているため、説明になっていません。
エドワード・タイラーによる定義によると
広く民族学で使われる文化、あるいは文明の定義とは、知識、信仰、芸術、道徳、法律、慣行、その他、人が社会の成員として獲得した能力や習慣を含むところの複合された総体のことである
と、どうしても学者なので難しそうに書いてありますが、僕の中では完全にもっと単純化した定義があります。
生きるために必要ないけど、やってしまうもの
以上です。
もう少し詳しく定義すれば、
本能的ではないが、感情が高ぶる行動や対象
といったところでしょうか。
ジムの人
事務員さんをさしているわけではなく、スポーツジムの人についてのお話なのですが、過去におもしろい出来事がありました。
結構な重さの荷物を持っていくと、筋肉ムキムキのインストラクターのような人が
「重たそうなので奥の方まで運んでもらえますか」
と言ってきました。
では、いままでなぜ無駄なエネルギーの消費をしてまでその筋肉をつけたのでしょうか。
わざわざ機械を導入してまでエッサホイサと無駄な動きをしてせっかくつけた筋肉は何のためについているのでしょうか。
「人に見せるため」
非常に文化的ですね。
文化というものは、原則的に生産性とは逆行する特性を持っています。
ただし、そこに広告効果や人集め、という商業的な要素が加わると、文化もお金になります。動物界ではありえないことですが、人間は非生産的なものに対して反応し、動物で言うところの生きるための糧を得ることができます。
これが人間と動物の決定的な差ではないでしょうか。
文化的要素
この文化というものを即時的に「素晴らしい」といってしまうには早急、と言いたいところですが、「良い感情」というものがセットでくっついているので、ひとまずは「素晴らしい」の位置に置くことにしましょう。
逆方向から眺めた場合、動物は文化的な要素を「必須」とはしていませんが、一般的な人間社会では、文化的でないと「暇過ぎてやばい」ということになるのでしょう。日本国憲法でも「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という定めが置かれています。
つまり動物のように「ただ生きるだけ」というのは少し違うんじゃないですか、ということですが、あくまで権利を有するだけで、国家は頑張りなさいよ、という国民から国家への縛りですからね、憲法というのは。
文化的ワクワク
お腹がすいたときにひとまず食べられるレベルの食事でお腹を満たすことは本能的で非文化的(あくまで空腹を満たすという点では)ですが、非文化的故に万人どころか全生命体が「嬉しい」ということになります。生きることを拒絶しているなら、もう死んでいるはずですから。
ここでひとつ気をつけたいのは、本能的であるなら、共通意識としての「快」要素があるとしても、文化的要素であるならば、万人には共通しないということです。
簡単言えば、僕のワクワクは、ほかの誰かはワクワクしないかもしれない、という感じですね。
そこで、困るのが芸術的な分野です。
よくわからない「作品」を見せられた場合、コメントにも困るのに、それでお金稼ごうという意地っ張りがよくいますね。
もしくは、お金を一切貰わないのに「画家」という肩書きを持ったり「写真家」と言い張ったりします。
名称独占ではないので、言ったもん勝ちです。
昔、歴史人物の白黒コピーを地面に並べて「作品」としていた人がいました。僕には理解できません。感情が動いたとすればその作品の片隅で腕組みしていた自称アーティストのカッコイイ立ち姿に「爆笑」させていただいたくらいでしょうか。
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