「困難を乗り越えること」についてでも触れていきましょう。いきなりですが、困難は、困難を欲した時にしか生じません。「何かしらの困難を乗り越えることで、何かを叶えたい」というものであっても、「こんな困難はコリゴリだ」という場合でも、いずれにしても、それらは「作り上げれたもの」にしか過ぎません。
困難というものは、それを支える「因」と「縁」が無いと生じません。ということで、困難というものも、「今、形成されているもの」です。
この因縁は、世間一般に捉えられている因縁、つまり「原因と諸条件」よりは一段階抽象的なものとなります。
こうした困難を乗り越えるには、「困難を支えているものを無効化して自然分解させる」というのが一番です。むしろ乗り越えるという表現が本来はおかしいということになります。
おそらくアイツこと自我としては意味不明であり、すんなりは受け入れようとしません。
困難を作っているもの、そして、困難があるかのように見せて、存在意義を保ちたいのがアイツだからです。
困難を欲する観念
困難は、それを欲していると生じます。その奥には、巧妙に隠されている不安と安心欲求があります。
世の中の「ドラマ」や「物語」には、「困難があって、それをどのように解決したか」という着眼点で制作されているものが数多くあります。
そうしたものは自我としても興味があり、自我が一時的に安心する要素がふんだんに含まれています。そして自我の騒ぎを強化するという要素もたくさん含まれています。
「貧しい家庭で育ったが、ビジネスで大成功した」というのは、自我が大好きな構図です。
「裕福な家庭で育ち、その後も同じような生活が続いた」というのでは盛り上がりどころがありません。
しかしながら、「困難を乗り越える」という構造は本来不必要です。
もし、何かが良くなっていくにしても本来は、
「何の障害もなくスイスイいった」
というのが一番いいはずです。
しかし、生存本能による安心欲求であり「判断の場所」である自我は、「それでは困る」と思っています。そして困難を欲し、困難が生じるように仕向けていきます。そして、「それは困難である」という観念を形成していきます。
困難を乗り越えたという構造で安心したい
自我は思考であり、判断機構です。なので思考の上で「困難を乗り越えた」という構造をもたらし、思考上で「安心したい」という構造を持っています。
「困難を乗り越えた自分」を誉れに思いたいというものを潜ませている場合があります。脳筋体育会系にありがちです。
これは「困難を乗り越えた自分」であればこの先の困難も乗り越えるだろうという証拠が欲しいというものであったり、「困難を乗り越えた自分は、困難を乗り越えていない人よりはモテるだろう」というような予測がその根底にあります。
「自分は能力が高い人間であり、あらゆる問題を解決する能力がある。周りの人間では乗り越えられないであろうこの組織の困難を、自分だけが乗り越えることができる」
と思うのもいいですが、そうした思いが問題を生成し、困難を生じさせているだけだとしたら、何をしているのかわかりません。
また、「困難を乗り越えた形でないと、値打ちがない」という観念がある場合あります。
これは
「困難を乗り越えた者だけが保有して良いものを自分を含めた少数の者が持っておかないと、追従する競合に追い抜かれて食い扶持がなくなる」
という形で保持している場合もあります。
これはそうでないと幸せに暮らしてはいけないとか、お金を得てはいけないというような観念を形成します。
さらに「この困難を乗り越えた二人であるのならば、今後も大丈夫だろう。関係性は盤石となり、同様の困難が生じても、また乗り越えることができるだろう」
という構造をもって安心したい、というものが潜んでいる場合もあります。
「武勇伝を語りたい」というものあるでしょうが、どちらかというと「同レベルの問題が起こった時に、また解決できそうな雰囲気が欲しい」というものが多いのかもしれません。
困難を嫌がっているようで、欲していますね。
あくまで困難があって、それを乗り越えたという構造にしたいというものを潜ませています。
困難を強化するもの
ということで、「困難な属性」は様々な観念から形成されています。
それ自体を達成するプロセスというのは別にありますが、それが困難であるかどうかを決めるのは観念です。
プロセスと言っても、それはそれで単なる動作だったりするだけで、難しいということはほとんどありません。あるとすればゲームのように「難しいということが楽しい」という場合くらいです。
プロセスは単純で、「カラオケに行って歌いたい曲を歌う」という時に、カラオケ屋に行くとか、歌いたい曲を入力するとか、マイクを握るとか、実際に歌うとかその程度です。
「何が難しいのですか?」
ということになります。
しかし、それを困難にすることもできます。
ただ、困難を乗り越えて「カラオケに行って歌いたい曲を歌う」ということを達成して、「それで何なんですか?」ということになってしまいます。
「それで何なんですか?」といえば、「歌えて楽しくてよかったですね」ということになります。
しかしそこに困難を加えたことについては、
「それで何なんですか?」
ということになります。
「困難など必要ありましたか?」
ということになります。
これが「カラオケに行って歌いたい曲を歌う」ということならば抵抗なくできる人も多いと思いますが、その他の「自分が困難だと思っていること」については「やはり困難である」ということを思ってしまう人も出てきます。
しかし基本構造は同じです。
困難への姿勢
極端に言うと、すべての現象について「困難を乗り越えるという構造」に騙されているわけです。
勝手に「乗り越えなければならないもの」を設定してしまっている場合もよくあります。それは実は「やらなくていい」という場合もあります。
やるとしても、困難を設定する必要はどこにもありません。
自分の気持ちを奥底まで観察すると、「困難を乗り越えたという構造を根拠に、何か別のものを欲している」という場合があります。
「困難を乗り越えた」という構造でなくても、モテてもいいですし、お金も入ってきてもいいはずです。家族や友人、職場の人、取引先と仲良く過ごしていても何の問題もありません。
「でも。でもでもでも…これを解決するには、あの条件とあの条件を満たさなければならない!」
というふうに勝手に思っていることがあります。
そしてその条件が本当のように思えても、実際は「何かを数回クリックするだけで終わった」とか「住所と名前を記入して質問事項に応じてチェックボックスにチェックするだけで終わった」とか、「友だちに話したら勝手に全部やってくれた」といった感じであっけなく終わることもあります。
まず、「解決しなくてもいい」という場合もありますし、「自分が解決する必要はない」という場合もあります。
「あ、『困難を乗り越える』とかいう構造は、もういいっすわ」
と、自分に向かって宣言してみてください。
「困難を乗り越えるとかいう構造はもういいから、今すぐに幸せになるわ。いやいや、あれもこれもどっちでもいいから。気が向いたことだけやるわ」
と、断定してみてください。
「なぜ、目の前の困難を乗り越えなければ幸せになってはいけないのですか?」
と自分に問いかけてみましょう。
となると、困難や絶望のようなものは、「それ、単なる幻ですよ」ということに気づくためのプロセスなだけかもしれません。
「困難かもしれないが、これを乗り越えないとやばいぞ」
という脅迫に対しては、
「いやいや、いいっすわ」
です。
「この困難を乗り越えたら素晴らしいぞ」
というものに対しても、
「はいはい、かっこいいですね。でも、いいっすわ」
です。
判断の放棄
「困難」を困難たらしめているものは、思考上の判断です。
判断を放棄すれば困難は自然分解されます。
「それでいいんですか?」
と、またアイツは思考の回転を促し、判断を迫ってきます。
そして、「幸せ」を剥奪しようとしてきます。
しかし、思考と判断を放棄すれば「困難」は、観念としても現象としても自然分解されます。
アイツからすると「は?」と思うような形になります。
しかしながら、アイツは自分の存在意義のために、どんどんと騒ぎます。
思考を回転させ判断を促し、苦の感情をもたらそうとします。
所詮、相手は「思考と判断」です。なので、思考で相手をしようとするとフラフラになります。
ということで、困難や問題の解消とは関係がありませんが、「判断の放棄」の空間に入ります。
心を今現在に向けるということになります。
そしてヴィパッサナー状態になれば、それらの入り込む余地はありません。思考が起こっても、それを観察するだけで、判断はしませんからね。言語として判断のようなものが起こっても、それを観察するだけでその場に置いていくことになります。
ただ、ほわっとした安心に包まれます。
そして「あ、『困難を乗り越える』とかいう構造は、もういいっすわ」という感じで、ただただずっと幸せでいてください。
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ただ、判断してはいけない、思考してはいけない、行動を起こしてはいけないということでもありません。それらは、プロセスとして自動発生することもあります。一切の観念を放棄して、安心、幸せの中で体験してください。
安穏の中で、自動プロセスとしての動作を淡々と見守ってください。
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