商業社会の道徳的流行

現在の道徳的流行の原則― 「道徳的な行為とは、他人に対する同情心の行為である」― の背後に、恐怖心という社会的な衝動が支配するのを、私は見てとる。 曙光 174 序

某産業団体の「裏役員(決して怪しい存在ではありません)」をしているため、先日、自己啓発に洗脳された人から、当該師匠をセミナー講師として、起用して欲しいという説得をされました。

僕が直接されたわけではないのですが、団体構成員を経由して、団体の方に依頼が来ました。

洗脳系の自己啓発であり、普段はぼったくり自己啓発セミナーを開き、あげくセミナー受講生を弟子として集客に奔走させるというカルトまがいの自己啓発野郎です。

ビジネスコースという名の自己啓発洗脳

謳い文句は「ビジネスコース」といった類のタイトルでしたが、僕から言わせると自己啓発洗脳です。

一回で5万払えというのです。

しかし聞く所によると、通常は2回で35万ほどとっているという、まさに新興宗教さながらの暴利です。

集客目的なのか、権威性や信憑性を高めるための実績づくりの踏み台という目的があるのかはわかりませんが、今回は特別に5万円で自己啓発的なセミナーを開いてやるというありがたきかなお誘いでした。

受講者は「セミナーの営業要員」になるという結末

金額の多寡はどうでもいいのですが、聞いたところによると、自己啓発セミナーを受けた結果、受講者は「セミナーの営業要員」に仕立てあげられている、という結末のようです。

すなわち、セミナーを受けた人が自分でビジネスを行っていくわけではなく、受講後に「師匠」を崇め、また同様のセミナーの勧誘をするような人にしかなっていかない、というもののようでした。

いわゆる「自己啓発系コンサルタント」、「胡散臭いコンサルタント」の代表例のようなタイプでした。

そのようなものははっきり言えば商業カルトの部類に入りますし、自己啓発によって洗脳を試みているような人たちであるという認識しかありません(カルトの定義)。その上、自己啓発のまた聞き話をされて、先生面されるのもどうかという感じです。

音速却下

そういった勧誘をしてきた人に嫌われることは、何も厭いません。

つまり嫌われることへの恐怖心がないからこそ、音速却下しました。

特に議題にも挙げずに、「却下ですね?次からこういうのきたらどうしますか?」と、現役員に全て伝えて、頷きを得て終わりです。

却下の通知は別の人がしてくれたのですが、

「断りにくいなら僕が言いますよ」

と言ったものの、僕が出てしまうと、相手が立ち直れないくらいヘコんでしまうということで、なるべく穏便に代わりの人が断るという運びになりました。

自分がダメだと思えば、ダメだと言え

一般に「道徳」とされているものは、根底に恐怖心があります。

しかし恐怖心が無ければ、その道徳的な規定や振る舞いが、あまり根拠の無いものだと気付きます。

恐怖心と一口に言っても、根本的には生命維持、生存本能であるものの、その表れ方は、人から嫌われるのは避けたいとか、なるべく揉め事は避けたいなど、少しずつ異なります。

しかし、ダメなものはダメと言わねばなりません。

それへの抵抗感は確実に恐怖心です。

別に「相手のため」という、言い訳を考えなくても、自分がダメだと思えば、ダメだと言えば良いのです。

「様々な考え方の人を認めるのが道徳的だ」

というのは、一種の洗脳です。

認める必要はありません。

ただそれもこれも一過性の現象にしかすぎません。

そう考えると何も恐れることはありません。

ただ、意識が言葉になり、空気を振動させて、すぐに消えていくのですから。

商業社会の道徳的流行 曙光 174


当の自己啓発セミナーの人と直接対峙する機会がありました。まさに商業カルト、マインドコントロールといった感じでした。その時の様子は、「洗脳系自己啓発コンサルタントの実態」をご参照ください。

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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