ドグラ・マグラ

本は今までにたくさん読みましたが、特に興味もわかなかったというのが本音です。しかしながら、「ドグラ・マグラについてはどう思われますか」というご質問を受けたのでついでに読んでみた次第です。

ということで、先日読んだのはドグラ・マグラです。著作権保護期間が切れているため、青空文庫にあります。

「ドグラ・マグラ」夢野久作

文自体はそこそこ長いですが、すぐに読めます。どんな内容かは、読めばわかるので読めばいいと思います。ドグラ・マグラは、読むと気が狂うと言われるそうですが狂いません。別に普通のことが書いてあるだけです。

読んでいて思ったことは、今まで読んだり観た作品の中には、この作品に影響を受けたであろう作品だったんだろうなぁというような感想です。しかしながら、世間では難解とされているようです。

難解、気が狂う、などと言われますが、読んでいくうちに思ったことは、特に前半に書いてあることについて「20歳位の時に同じことを考えていた」ということです。もちろん100%同一の内容ではありません。

その内容を記載してもいいですが、考察、解説、書評のようなものを読んで「読んで理解した気分」になるのは避けた方がいいと思いますのでやめておきます。内容は本文を読めばいいことです。せっかく文がそこにあるのに「読むと気が狂う」とか、その内容を数行の解説文で「一時的に盛り上がるため」にしてしまうのはもったいないことです。

さて、日本三大奇書と言われながらも、すでに考えたことのあることなのだから特に新鮮味もありません。最後らへんは東野圭吾氏風だったので(正確には東野圭吾氏が夢野久作氏風なのですが)、面白みはあるものの、ダレてしまいました。しかし最後までオチは明かさないまま、というところがいいですね。何も確定しないまま終わります。オチがあるかのように思ってしまうのは、まだまだ「騙されて」いますから、よくよく全体の論理構成を見なおしてよく考え直してください。オチを明かさない、というよりも、オチを設定できない内容です。それは矛盾になります。しかしながら、それは小説の中の世界だけではありません。

ひとまず前半に関しては歴代トップ5に入るくらいの意味深な内容なので、その点はおすすめします。一度は読んでみてはいかがでしょうか。

このドグラ・マグラ(1935年)以外の日本三大奇書は、小栗虫太郎氏による「黒死館殺人事件」(1935年)、中井英夫(塔晶夫)氏による「虚無への供物」(1964年)のようです。

なぜ「気が狂う」というフレーズが飛び交っているんだろう?

しかしながら、なぜ「気が狂う」「読むと精神がおかしくなる」というフレーズがよく飛び交うのでしょうか。その原因はわかっています。錯覚が取れかけるからです。

よくわからないままに、みんなの意見を寄せ集めて「気が狂うらしいよ」と多数決のような決定の仕方はやめておいたほうがいいでしょう。

せっかくなので、本文の内容に少しだけ触れましょう。ただ、これは内容の一部について、しかも少しだけ触れているだけですから、「内容の全部をわかったような気分」にはならないでください。

今回、この本を読んで気が狂うことがなかったのは、元々気が狂っていないからかもしれません。

多数決で言えばキチガイはこちらということになりますが、別にそれでも構いません。「この女が!」と言われても、実際には男だったら、別になんとも思わないのと同じように、女と言われても、本当は男なのだから、女と言われようが事実はぐらつきません。多数決も、権威による裏付けも必要ありません。それに名称だけの問題ですから、本当に分類すると女性になる、という最新の学術論文が発表されても、呼称や分類がそうなるだけで、本質には変更がありません。つまり何の問題もありません。

残念ですが、気が狂うのではなく、読んで意味がわからなければ、気が狂っています。これを読んで頭がおかしくなるのではなく、元々頭がオカシイ状態で、それが取れかける、その時にクラクラして認識がぐらつきます。しかし、それまであたりまえだと慣れ親しんできた認識の方法、解釈の方法、自我という視点が外れかけます。

本の内容を真に受ける、受けないということをいう人がいるようですが、これは実際に気が狂っている証拠です。作品がフィクションだからといって、内容の理屈までフィクションとは限りません。何をもって気が狂っていると言えるのか、それは自我という錯覚です。それが主軸だと思っている点につきます。

しかしながらこの作品では、かなり良いヒントが隠れているものの、これだけで気の狂いが外れる、つまり自我の領域から脱することは難しいでしょう。

こんな事を言うと、社会不適合者のうわ言のように感じるかもしれませんが「社会」がすべて正しいわけではありません。社会においては、仮言命法的に正しさはありますが、それは命題が「○○したいなら△△せよ」という場合での正しさです。

「法治国家において、婚姻の効果を得たいならば、定められた様式に従って手続きせよ」というようなことです。株式会社と名乗ることは、極論的には可能ですが、株式会社という法人格を得て、法人格としての機能を持ちたければ、定款の認証、登録免許税の納付などなどをやれ、ということであって、Aという効果を得たいがためのBという条件です。しかしながら、それは正しいものの、そのやり方が及ばない範囲があります。

社会的な「意見」は意見であって、揺るぎない法則、当然の事実ではありません。下手に「そんな社会不適合者のような意見は認められない」と、何故か社会で通用しているかどうか、という基準を採用している時点でキチガイです。それは社会に容認された方式、哲学しか認めないという断固とした自我の働きの一つなのですから。

意識の変性

意識の変性というと、普段理性的な振る舞いをしているのに急に変な行動をとり出す、というように解釈してしまいそうになりますが、それだけではもちろんありません。自分の子供と、その子供に集るハエが同一の価値ではないと思う時点で、意識がおかしい状態になっています。子供を守ってもいいですが、その時に「今少し意識がおかしいぞ」と思えなければ気が狂っています。

現象をただ現象として見れない、その状態はすべからく意識が変性しています。現象をただの現象としてとらえられない、だからこそ憂いがあるにもかかわらずです。

ドグラ・マグラの作中での「因果応報」では、遺伝子レベルでの変性意識が題材になっていますが、これをフィクションというふうに捉えるのはもったいない話です。動物でも「教育されなくとも」本能的な行動をとったりします。その行動は、どのようなメカニズムになっているのでしょうか。

そして、どうして人間だけは、それが「ない」と思えるのか、その考えをもう一度考えてみてください。変な話です。実際の因果応報はこのことを言っているのではないでしょう。ただ、当たり前の話なのですが、「人間だけは理性ですべてを決定している」という錯覚に対してはよい指摘ではないでしょうか。

さて、少し戻りますが、何かの現象により、それを五感が受け取って意識がその現象の影響を受け、心理状態が変わって、その心理状態から特別な行動を起こす、というのは日常よく見る光景です。それが意識の変性です。

ある衝動によって行動を「やらされている」というのが実際の姿だということを知らないままに「当然で普通、気は狂っていない」と思うことがキチガイということになります。たいていの言い訳は「いやこれは普通のことだ、みんなやっている」というものです。

「みんながやっていることは普通」というのは、社会基準では正当性を持ちますが、普通=気が狂っていない、というような点は、よくよく論理的に考えればナンセンスです。論理が成り立ちません。

「じゃあみんなキチガイじゃないか」と思われても、事実そうなのだから仕方ありません。それが他人に危害を加えるか加えないか、とりわけ自分に危害を加えそうかどうかという点で「キチガイ」の基準を勝手に作っていますが、気が狂っているというのはそういう点ではありません。

本能的衝動と暗示による誘発

おしっこがしたい、そしておしっこをした、その時に「またやらされてるよ」と考えてみてください。できれば我慢やトイレを探すという行動を取らずにすめばよいのですが、湧き上がる衝動に勝てません。「あー身体に縛られてるな」と思わなければなりません。

それはまだ身体に縛られてのことです。アイツを撫でるように対応して「まあ仕方ねぇか」くらいに思わなければなりません。

ところがそんな本能的衝動と同じような具合で衝動が起こることがあります。急にムラムラするときなどです。急にドキドキする場合などもあるでしょう。それは、たまたまコンビニに行った時にきれいなボディラインの女性を見て、しばらく経ってから衝動が起こることがあります。そんな衝動と溜まり具合によって、どんどん意識がおかしくなっていきます。

衝動が奥のほうでそこそこ溜まった時に、それを誘発するような形や音声を認識した場合にそれがトリガーとなる時があります。ただ、それだけのことなのに「直感」とか「運命的衝動」とか勝手に美化したりします。

それは全然興味のない女性に対して、衝動と股間の溜まり具合によって「興味があるかのような錯覚的衝動」が、視覚的、聴覚的、嗅覚的などの暗示によって誘発されるされるからです。

衝動が溜まっていなくても、ある条件付けが普段意識しないような領域で形成されています。それは最近の「生き方、生活、考え方」だけで作られている場合に限りません。

自分の意識がすぐに届くところにしかないものだけに影響されているというのはありえません。それは理性の過大評価です。

最近の生活で繰り返される行動や考え方のパターンによって、ある意識が優勢になっていて、出てきにくい場合がほとんどなだけで、ふとした時にある看板を観ただけで、普段なら絶対にしないような行動を起こしたりします。

それは常に錯覚により外部条件に依存した「アイツ」の内で生きているからです。認識に入ってくる情報に誘導されながら、それによって起こる感情エネルギー、衝動に手枷足枷をつけられながら、生きています。「そんなことはない」と言い切れる人がいたら、まだひどく錯覚の中のキチガイか、阿羅漢かどちらかです。

さあ「ドグラ・マグラ」を読んでみますか?

読んで気が狂うことはありませんが、「なるほど、自分は気が狂っていた」と思うことはあるかもしれません。「キチガイは自分が普通で、他の人をキチガイだと思っている」という世間での一般論のように、「クレタ人は皆嘘つきだとクレタ人が言った」的な堂々巡りのような感想文でしたでしょうか。

要約やあらすじを書くことは不可能という人がいますが、字数が決まっている作品なのにできないわけがありません。解説、考察はやろうと思えばできますが、「本文を読んだ気」になることを避けるために、そういうことをする気はありません。

どんな本でも、まずは原典、分かりにくければ注釈書、というのが、取るべきプロセスです。しかも日本人が日本語で書いているのですから。

ともすれば、自我が「これは自分を脅かさないぞ」と反応してくれるものだけを認める傾向にあります。自我が働いているのだから当然です。こういう話を宗教屋や自己啓発洗脳の人は、断定したりしますが、そんなことをするつもりはありません。

いくらどんな考え方が世に提示されても、最後は自分で観察しなければなりません。その時に権威や社会的正当性は邪魔どころか持ち込んではいけません。

自ら思考を追い、心を観察せねば、どんな意見も「洗脳」に近い構図で、結局騙されたままです。

こんなことですら「ふーん」くらいで終わらせなければなりません。イラッとしても、戯言だと思っても、文章や著者を責めることなく、自らの心だけを観察せねばなりません。

思考の罠にかかってしまいそうになった場合は、絶対どこかで、がんじがらめになって同じ思考が反復してしまいます。その時は、何か「揺るぎない基準」というものを持っているはずです。その基準の源流をもう一度考え直せば、その呪縛からは逃れることができます。

さあ「ドグラ・マグラ」を読んでみますか?

読まなくてもいいです。読んで変になりそうな方はどうぞご連絡ください。もっと変になる可能性はありますが、変なのはそれまでの考え方ですから。「キチガイは自分が普通で、他の人をキチガイだと思っている」が加速するかもしれません。いや、キチガイは世間ですからお気遣いなく。さあ「え、どっち?」の堂々巡りが始まります。すいませんがその分類が「揺るぎないもの」かどうかは一度疑ってみたほうがいいでしょう。というよりも、世間自体、実体があるのか、それは一時的にでも意識の変性がなくなった時、嫌でもわかります。

「気が狂わなかった」という人も、フィクションだからと聞き流してよく考えていなかっただけではないのか、もう一度読みなおしてみてもいいかもしれませんね。

この作品は推理小説的には面白いものの、まだまだ核心に迫るものではありません。ただ、それまでの認識に疑いをかける第一歩としては非常に良い作品なのかもしれません。

繰り返しにはなりますが、「自分は確実にキチガイではない」と言い切れる人がいたら、まだひどく錯覚の中のキチガイか、阿羅漢かどちらかです。

Category:miscellaneous notes 雑記

「ドグラ・マグラ」への2件のフィードバック

  1. コメント失礼致します。ドグラ・マグラ、チラッと読んで見ましたが、「怖くて難しくて長くて、とても読めそうにない」と思って早々に中断しました。
    皆さん、「怖い」と正直に言うのが恥ずかしくて「気が狂う」と表現したのではないでしょうか。
    キチガイで低脳で世俗的ないち主婦の感想でした。

    1. コメントどうもありがとうございます。
      ドグラ・マグラについては読んでからある程度時間が経っていますが、僕個人としては、印象として「怖い」という印象は全くありませんでした。
      「気が狂う」という点については、「一般的な認知のあり方から考えれば、逆転しているような視点であるからこそ」という感じになりますが、それだけでなく、「それこそが本来の視点である」と自我が薄々気付きかけてしまうから焦ってしまうという点に尽きると思います。
      あまり読む気がしない場合は読む必要はないと思いますが、背景に図太く走る背骨のようなものは、核心に迫るものではないものの原始仏教的であり、すぐには受け入れ難く、その受け入れ難さゆえに難読という感じになっているのかもしれません。

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