システムや機械の利用と依存ということで、利用と依存についてでも書いていきましょう。もちろんシステムや機械自体は悪くないという部分もありますが、機械への依存が増えると、本質的なクオリティは下がってしまう場合もあるというような点について触れていきます。
特に今に始まったことではありませんが、現代においてもひとまずいかにして「人の代わりに機械にやらせるか」という方向で技術開発は進んでいます。
それ自体は別にいいのですが、単にシステムや機械を利用することと依存することは全く別物です。
全体像を理解した上で、部分を機械に代替させるという感覚と、機械を用いて部分をこなしながらも、全体像が見えていない場合とでは、表面上行っていることは同じでも実際の性質は大きく異なります。
いわゆるマニュアル対応しかできないとか、イレギュラーケースに対応できないというのは、奥にそんな構造があるからです。
それで万事うまく回っている時はいいですが、特に時に取り返しがつかないことになる場合があります。
依存が裏目に出た顧客満足度向上の失敗
聞いた話ですが、先日社長仲間の一人が某会合への参加のために某旅館に泊まったときのことです。
その旅館では、顧客満足度向上のためにと、「お客さま」という言葉をできるだけ使わず、直接にそのお客の名前で呼びかけるということを方針として掲げていたそうです。
それ自体は別にいいのですが、そのお客の名前をスマートフォン端末で共有できるようなシステムを導入していたそうです。
読み方に揺れのある名前の読みの入力の間違い
社長仲間の名字は、読み方に揺れのある名前でした。
いわば、角で「かく・すみ・かど」とか、上で「うえ・かみ・じょう」とか河で「こう・かわ」とかそんな感じで、人によって読み方が変わるお名前です。
で、顧客管理のそのシステムと端末の利用自体はいいですが、読みの入力が間違っていたそうです。
その方も、読みに揺れがある名字なので慣れっこでしたが、一度目くらいは、「ああすいません、〇〇です」と返答するものの、その宿泊の際には10人位に連続して「違う方の読みの名前」で声をかけられたそうです。
その方は温厚な人ですが、さすがに
「いい加減にしろ!」
とキレてしまったそうです。アイデンティティに関わる部分ですし、確かに一度ならばまだしも、何度も何度も言われ続ければ字のごとく「いい加減にしろ」と言いたくなります。
プロ意識の欠如から機械に依存
おそらくプロ意識があれば、システムや機械に依存すること無く、本当に名前を覚えたりもするでしょうし、機器を使うにしろ最低限一度目のツッコミの時に「名前の読み」を修正するはずです。
なぜ、それができないのか?
それはプロ意識が欠如し、機械に依存しているからです。
機械はあくまでサブツールとして利用するものです。
大前提としてプラスアルファの顧客満足度向上が目的なのですから、名前で呼ぶ必要すらありません。
そこで名前で呼ぼうということは、それだけお客のことを考えていることを示すための一つの方法論にしかすぎません。
しかし、前提を忘れて「名前で呼ぶこと」が達成目標になっていて、かつ、その目標達成に向けて機械に依存しているからこそ、その人が「いい加減にしろ!」とキレるまで、間違いを続けてしまったわけです。
元々の目的は顧客満足度向上
本来大切なのはサービス業者としてのプロ意識であり、顧客管理システムやスマートフォン端末などはそれを効率化し円滑にするためのツールにしかすぎません。
「端末にそう表示されているから」
ということを根拠にスタッフ側が「自分は間違っていない」と居直るのは結構ですが、元々の目的は顧客満足度向上ということなので、そうした部分の正誤はあまり意味をなしません。
目的が顧客満足度向上であることを全員が意識していれば、最初に指摘を受けた人がすぐに修正対応をするはずです。
それがすぐに行われなかったのは、「名前で呼ぶこと」が目的になり、その場で指摘されたものの、呼びかけを含めて自分の担当しているその部分の業務はそれで完了したと思っていることです。
部分は全体のためにあります。全体を効率化するための分業ですが、部分しか見えていないままだと、大きな全体を達成することはできません。
体制の要因
もちろんそうした体制になるのは、様々な要因があります。
プロ意識の欠如とか、システムや機械への依存という要素もありますが、企業側としても、人件費を安く抑えるためにとアルバイトさんなどを中心としていて業務を回していたりすることも要因となるでしょう。
「アルバイトや非正規雇用でプロ意識を持てと言われても困る」という側面もあるはずです。だから未熟なスタッフだけの責任ではありません。
多少の賃金などを「ケチろう」という意図をもって、「自分はプロとして仕事をする」という誇りも持てないような、「自己評価を下げられたままで業務を担当させているスタッフ」を生み出しているのも企業側です。
わざわざシステムを使うことの是非
その旅館の一件を聞いた時、またまたになりますが、すぐさま料理漫画に出てきた「顧客をコンピュータ管理する」という話を思い出しました。
で、名前で呼ばれることは全員が全員嬉しいわけじゃないだろうなぁという事も思ったりします。
夜逃げしている人等々、ワケありの人ならおそらく嫌でしょうからね。
さらに、スタッフの持つ端末にデータが入っていて、それが流出するのも嫌だと思う部分もあると思いますし、先の知人であれば「緊急:読み方は△△さまではなく、〇〇さまです」などというアラートがあって、それを見ているスタッフの端末、特に内容まで見えてしまったら変な気分になります。
それほど難しいことではありませんし、それくらい機械に頼らずともできるのではないかということを思ったりもします。
相手への関心度
むしろ、「システムを利用していて、共有されているから名前で呼ばれる」というものと「機械に頼らず自然に名前を覚えてくれている」と、どっちが嬉しいかといえば後者の方ではないでしょうか?
ある程度常連化した店において、顔を見られてコンピュータを参照されて、「あ、〇〇さん」と言われるか、何も参照せずに名前を呼ばれるかどちらのほうがいいかと言うような点です。
名前を覚えているかどうかという点は、いかに相手に関心があるかということを示す部分の一つです。
参照しないと出てこないのであれば、「素の意識の上ではそれほど関心がないんじゃないか」ということになります。
機械依存がもたらした顧客満足度の低下
で、その旅館の一件は、まだ完全にシステムや機械を使いこなせていなかったというところや、すぐに修正対応をしなかったという管理体制のミス、そして、そうしたリスクを予見できなかったという部分や機械依存がもたらした顧客満足度の低下です。
でもそれを使いこなしたとしても、「名前を知るタイミングなんて無かったはずなのに知られているのは気味が悪い」ということにもなりかねませんし、覚える気があって覚えたのではなく、機械があるから名前で呼ぶということが可能になっているだけというのであれば、表面的には同じでも空気感的にはあまり意味がないような気もしてきます。
まあもちろんそうした表面的なものに反応して喜んでくれる人もいるでしょう。だから別にそれが方針であるのならばそのままでも良いと思います。
ただ、やはり大前提としての目的が共有されておらず、全体が見えないままシステムや機械への依存があると、時にせっかくの施策やかけた費用が台無しです。結果としてはゼロどころかマイナスになってしまいます。
名前間違いで見える関心度
何事も作業中に横槍が入ったりすることもありますし、疲労やその他原因から操作ミスということはいつでもどこでも起こりうる可能性を持っています。もちろん読みの間違いや誤字脱字は生まれます。
なので仕方の無い面はありますが、さすがに人名とか法人名くらいは再チェックするなり何なりして慎重に扱ったほうがいいのではないでしょうか。
僕もどちらかと言うと名前を間違えられる方ですが、年賀状等々で漢字間違いがあった場合は、「そういう人なんでしょう」ということを思ったりもします。
それは関心の無さという部分もありますが、相手の気持ちの細かいところには関心がないという部分をも示しています。
つまり、「仕事を任せると細かいところは雑になっている可能性がある」ということを推測してしまうということです。
きちんと配慮していてプラスになるという感じよりも、間違っているとマイナスになるという感じです。
また、一度目は間違っていたとしても、指摘した後に続くようであれば「よほど関心がないんだろう」ということを思ったりします。
もちろん悪意もないと思いますが、関心もないんだろうなぁと思う、ということになります。
合理主義の盲目
夏目漱石氏か誰かが言っていたと思いますが、「手紙は、それそのものも嬉しいし、その時間を費やしてくれたことが嬉しい」という感じになっています。
送られてきたものが定型文で印刷されたものであれば、「費やした時間は5分位だろう」ということになりますが、直筆で長文であれば「これは自分のために1時間位は費やしてくれたのかもしれない」と思えたりします。
手紙など、元の目的が「気持ちを伝えること」であるため、伝える内容は同じだったとしてもどちらのほうがより伝わるか、より誠意を示せるかは語るまでもありません。
目的が最短最小の手間で「内容を伝えること」であれば、各種技術を使えばいいですが、そうした縮小された時間や手間の分だけ、その重みは軽くなります。
以前ご紹介した「マルチ達人さん」は、名前の部分だけ変えてスパムメールのように「お誕生日おめでとうございます」メッセージを乱射していました。
でもそれはバレています。大量の人に送られているので、照らし合わせすら起こるからです。
彼が各人に費やした時間は1分にも満たないでしょう。だから無視されるのです。
手書きの宛名
概ねプロの営業さんかつ成績の良い人は、顧客にお礼状を書く場合、全て手書きで書いたりしています。
印刷物を送付という案内的なものであっても、最低限宛名は手書きで、しかも筆ペンで書いたりしています。
合理主義の人達からすれば、「そんな非効率なことをするな」ということになりそうですが、最終的な目標が「たくさんの売上」であり、たくさんの信用を得ることであるのならば、印刷物の送付であれなんであれ、そうした意志の伝達は手段やツールにしかすぎません。
「めんどくさい」
というのは当然ですが、その面倒くささがあるからこそ、その面倒くささを超えるからこそ、関心を示すことになるのです。
そしてさらに理由としては、印刷における宛名の印字において、うまく表示されない漢字などもあるからという部分もあります。
例えば、人名でよくある「辻」という字(ちなみに漢字ではなく国字)は、変換では基本的に「二点しんにょう」でしか出てきません。
しかし、人名なので「一点しんにょう」の場合もあります。
かなり前になりますが、僕は昔、旅行会社の人に名前の印字を間違えられ、指摘すると
「へんっ、別にわかるからいいでしょ」
と言われてキレそうになったことがありました。
まあ別にもう諦めていましたから、特にキレはしませんでしたが、自分が嫌な思いをしたので、我が事としては人の名前を絶対に間違えてはいけないと思っていました。
そういうわけで、「辻」という字などなど、メールなどの変換で致し方ない時はまだしも、宛名を手書きで書くことができる場合であれば、必ずチェックするようにしています。
そんな時、創業してから実際に変換では出てこない字(異体字)が含まれるお客さんに当たりました。
印刷物ですが、通常印刷で済ますような部分を空白にして、手書きで書くということをしてみました。
僕としてはかつて自分が嫌だったのでそうしたまでですが、やはりその方としてもその部分に着目されていて、最優良顧客として取引させていただくことになりました。
もちろんたまに疲労等々から至らぬ時もありますが、なるべく配慮するようには心がけています。
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コンピュータを筆頭にシステムや機械はフルで利用していますが、それはあくまで部分を代替するツールでしか無いと思っています。
技術の進歩やシステム・機械の利用自体はいいのですが、それによって楽になった分、合理化・最適化によって結局何かが失われていくというような事がよく起こります。合理化や最適化が進んだ分だけ何かが失われ、その失われた分は何かで補わなければバランスがおかしくなるということがあります。そんな時、結局かけているコストの総量としてはあまり変化がないのではないか、と思ってしてしまうことがあります。
統計データの影響により商品棚から消えた商品等々、データを利用した最適化への疑いということで、「統計データの影響による行き過ぎ」について。AI(人工知能)への期待なのか何なのか、やたらとデータ偏重型な社会になりつつあります。まあそれだけ人間の感性を信用できないという証なのでしょう。それは自信のなさの表れでもあります。
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