「キャー!」「きゃあん!」といった超高周波の奇声を絶叫する子供が激増してきました。
家の前、飲食店、スーパーなどの小売店、そして温泉ですら、「無線のチューニング」並みの「キャー!」「きゃあん!」という子供の奇声が聞こえてきます。これは完全に公害です。
最初に言っておきますが、「うえーん」や「えーん」「ぎゃあああ」といったように、怪我をして泣いているとか、赤ん坊が泣いているという場合の声ではありません。
だいたい女の子の方に多いですが、幼稚園児、保育園児といった小学校就学前の子から小学校中学年くらいまでの間の子供が叫ぶ「キャー!」「きゃあん!」という謎の高周波についてです。超音波と言ってもいいでしょう。
「何が悪いのかわかっていない」
ということなので、
哲学者風に
「それが犯罪であると認識し、故意に犯罪を犯した者は反省する動機があるが、何が悪いのかわからずに犯罪を犯した者は反省する動機が存在しないためより重罪である」
ということで爆音の奇声について書いていきます。
法的には「知っていながらそれを飛び越えてくる」ということが悪意あることという感じになっており「わざとやった場合の方が悪い」ということになっていますが、哲学・倫理学の領域では「反省する動機がない場合こそ重罰に処するべきである」という考え方もあります。
まあいずれにしても、「反省する動機」という意味では、故意にやった場合でも、現状は抑止力が足りなかったということにもなるので、「より強い反省する動機」を与えるという方向で考えることができます。
あの手の子供の奇声は理性を超え本能に直接的に働きかけてくるので、どうしようもありません。「暑い、寒い」と同タイプの不快感です。そういうわけで、まさにこの子供の奇声は、怨憎会苦の最たるものであり、徹底して排除していかねばなりません。
子供の奇声
まず子供の奇声について、齟齬がないようにその特性について触れていきましょう。
「無邪気の危険」でも触れていましたが、このタイプの奇声は「うああああ」というようなタイプのものではありません。
ミュージックステーションにジャニーズが登場した時に入る歓声に近いような高周波音です。
「キャー!」「キャアン!」というような、嬉し楽し的な奇声であったり何かの驚愕を表すような声です。黄色い声と言われるようなものと同じタイプのやつです。金切り声と表現されるような奇声です。
自分を可愛いと思って発するような「今リア充です」的な感じのアピールで奇声を発することが多いでしょう。
僕はこの音が、発泡スチロールをスリスリしているような音レベルに嫌いであり、聞こえた瞬間、思考を飛び越えてアドレナリンが爆発します。
この手の声は、怪我をして痛いとか、恐くて泣いているとか、そういう時の声ではありません。
再度誤解を招かないように書いておきますが、赤ん坊の鳴き声には何の問題もありません。それで怒ったことは一度もありませんし、「親御さんも気にしなくていいのになぁ」とすら思っています。
しかし、子供の奇声はそれとは別物です。
Dr.スランプアラレちゃんの「キーン」を1オクターブ上げたような高周波で、走りながら「きゃーーーーー!」などと叫んでいたり、保護者に振り向いてもらおうと思っているのか「きー!」「きゃん!」「きゃーん!」などと絶叫しています。
そのほとんどが、惣流・アスカ・ラングレー並みの「私を見て!」とか「私ってかわいい♡」というレベルの目的しか持っていません。
「きゃー!」「きゃあん!」といった超高周波の奇声を絶叫する子供が激増してきたということですが、僕が小さい頃はどうだったのかを母に聞いてみると、「そんな声は出したことがない」ということでしたし、小学校の同級生においてもそんな奇声をあげている同級生がいたことは一人として記憶していません。
だから本当に「最近増えてきた」という感じです。
すべてが台無し
ここ5年から10年でこの手の奇声が激増しました。
家の前、飲食店などでこの声がするとすべてが台無しです。
以前、飲食店で子連れで子供を含め20人位の団体があとから入ってきて店内で「キャー!」と絶叫しだしました。
そうした子どもたちを保護者は無視。
店員も無視。
そういうわけで、まだ料理も出てきていなかったので、帰ることにしました。
食事のときには、料理に対して意識を集中するということにしているからです。もちろん、保護者、店員には説教をしておきました。
そういうわけで、そうした客層のいる店には一切行かなくなりました。店員すらも「何が悪いのかわかっていない」というケースが多いですし、毎度毎度面倒だからです。
個人的な印象ですが、他府県に行った時は結構奇声との遭遇率がマシであるような気がしています。京都市内、特に京都の洛外が一番ひどいという印象を持っています。おそらく新興住宅地のようなものができているような場所において増えてきている傾向にあるのでしょう。
「元気なことはいいこと」←君たちはね
まあ僕はこの手の奇声に遭遇すると、その次の瞬間に説教をしているわけですが、世の中ではそうした奇声を発する子供の保護者からの言い分として「元気なことはいいことだ」というような声があるそうです。
僕は直接言われたことはありませんが、そうしたことをいう保護者は頭がおかしいと思っています。
なぜなら「元気でいい」のは、その人達だけだからです。
「元気で結構なことだ」と喜ぶのはその人達だけで、周りの人にしてみるとたまったものではありません。
稀に「あまりそうしたことで子供を制限すると、臆病な大人になる」などという人がいますが、何も外で会話すらするなとか、遊ぶなと言っているわけではありません。
むしろどんどん話せ、どんどん遊べとすら思っています。
別に飲食店で大声で話していても、周りの人の迷惑にならないのならそれは構いません。
「キャー!」とか「きゃあん!」というような謎の奇声をあげるなということです。
それすらも良いというのであれば、「男女が絡み合っている動画の音声を自宅前で爆音で流してもいいのか?」ということになります。
どうせ「キャー!」を許容したところで、「たくや」や「まさひろ」と書かれたようなハート型のうちわを持って絶叫するような大人にしかならないというのは目に見えています。
責任能力がないものがやったことなら全てが許されるのか?
「勿体ぶった振る舞いをしない」などで触れていますが、子供がやったことだからとか障害者がやったことだからといって全てが許されるというわけではありません。法律上も、刑事上の責任などは出てこないかもしれませんが、民事上では発生したりしますし、伝家の宝刀のように振りかざせるものではないはずです。
例えば精神に障害を持つ人が錯乱し、楽しそうに通行人にラリアットをして突き進んでいったとしましょう。
それを「元気があっていいことじゃないか」と言っているのと同じです。
子供の奇声は気が狂いそうなほどの攻撃力を持っています。
しかし「元気なことはいいこと」などと言っている人たちは、もしかすると聴覚に障害があったりするのではないかと思います。人によっては聴こえる周波数帯の幅が違うので、高音域は聞こえていないのではないか、ということです。
…
いいえおそらく意識の中で遮蔽が働いているのです。
「自分に都合の悪いことだから見えないように、そして聞こえないように遮蔽効果が働いている」という感じです。
まあ外ででもあれだけ「キャー!」「キャーキャー!」と絶叫しているので、その手の絶叫には慣れているのでしょう。自らは家の中など四六時中奇声を聞いているので慣れているといったところです。
しかしその人達が慣れていて気にならないのならばそれでいいのでしょうか?
家庭内暴力に慣れている人が、「殴られたくらいで・・・」と言っているのとあまり変わりません。
世の中では、子供がやったこと、障害者がやったこと、痴呆の高齢者がやったことなら仕方ないということを平気で言う人達もいますが、そうして言い逃れをしながら、しっかりと痴呆の親から遺産を相続したりしているのです。
だから責任能力がないものがやったことなら全てが許されるということはありえません。責任が取れるからです。
奇声に対して叱るとそれを無視する保護者すらいます。自発的に奇声を発した子供に注意をするどころか、問題視すらしておらず、何なら「意味不明なクレームを言われた」くらいにしか受けっ取っていないという感じを受けます。
そうした人たちは知能に障害がありますから、何を言っても仕方ないので、子供に恐怖を与えることにしてます。
バカに話は通じないので、バカには恐怖で調教するしか無いということになります。
「条件づけを行うしかない」
ということです。
謝って欲しいわけではなく、今後起こらないようにして欲しい
家が通学路沿いにあるため、「キャー!」「きゃあん!」といった超高周波の奇声を叫ぶ子供たちの絶叫マーチが家の前で繰り広げられることがあります。
近所に新築が建ち始めた時にセットバックされ、車は来ないもののある程度広い道になったため、格好の絶叫スポットとなってしまいました。
朝なら朝で「私には静かに起きる権利もないのか」と思ってきますし、夕方なら「落ち着いて会話する権利もないのか」と思ってきます。
飲食店なら「料理を味わう権利もないのか」と思ってきますし、温泉なら「温泉でやすらぐ権利もないのか」と思ってきます。
しかし、僕はそうした時に「堪え忍ぶ」ということはしません。
いつでもどこでも平気で叱りますからご安心ください。
この一年でおそらく50人位には「報復をする気が無くなるほどの恐怖」を与えてきました。
反省する動機を与えるためです。
ここで勘違いが生じるといけないのであえて書いておきますが、僕は謝って欲しいわけではなく、今後起こらないようにして欲しいということを思っているだけだったりします。
「僕を怒らせたことについて、自尊心回復のために謝って欲しい」
というものではありません。
「もう二度と『キャー!』といったような奇声を聞かせるな!」
ということです。
いくら指導しようが、「奇声をあげる子供を悪いと思っていない『知的な障害を持つ保護者』」には話が通じず、下手をすると無視をしてきたりもしますので、そうした状況においては恐怖を与えるしかありません。
一度限りの出来事であれば去ればいいだけですが、近所で起こることであり、再発性があるのならたまったものではないからです。
キャーと叫ぶ子供の奇声の原因
さて、長々とキャーと叫ぶ子供の奇声についての怒りの面についての話が続きましたが、次にこうした「きー!」「きゅあー!」「キュアン!」という奇声の原因について考えてみましょう。
それはだいたい、始まりは親の愛情の獲得を欲して叫びだしたというのが本当のところであり、その後、いたるところでの自己顕示欲の表れとして「人に意識を向けてもらう」ということの解決策としての機能を持つようになったという感じになるでしょう。
そしてさらに「絶叫することの快感」を覚えてしまったということになります。
愛への渇望
まずは、最近説教した「スーパーでの出来事」について触れてみましょう。
スーパーの店内で「キャー!」と絶叫している子どもたちがいました。もちろん保護者として両親ともが店内にいます。
しかし、彼らは奇声をあげる子供を完全に無視です。
それどころか、父母とも「ブラック企業勤め臭」がしており、気力がほとんど残っていないような状況でフラフラで買い物をしていました。
つまり、気に留める気力すら無いという感じなのでしょう。
絶叫した直後に両親の方に顔が向いていたので、完全に愛への渇望です。
しかし許しはしません。
なぜならこのままでは「反省する動機がない」からです。
今後同じスーパーで遭遇することも考えられますし、二度と奇声は聞きたくないからです。
そういう時に普通は親に対して怒ったりするかもしれませんが、僕は子供に直接言います。なぜなら、保護者に言ったところで、その人達も理解していないのだから、保護者から間接的に教育してもらうということは絶望的だからです。
自分の行動のどの部分がおかしいのかを本人はわかっていないので、その行動を起こした瞬間に調教します。
まあ核家族化して気力体力が足りないというのはわかりますが、だからといって子供の奇声を野放しにしてよいということにはなりません。
また、以前実家の前で「奇声ラッシュ」が起こったことがありました。
その時にももちろんキレたわけですが、その直前に一瞬観察すると、奇声を上げている子どもたちは、奇声をあげた直後「会話をする保護者たち」の方を見ているのですが、当の保護者側は子どもたちを一切見ていません。
そういうわけで奇声ラッシュが起こりました。
キレてからというもの、実家の近くに引っ越してきた人やその友人達は、僕を無視するようになりましたが、それで構いません。
自分たちが正しいというのならば、僕にキレ返してみればいいのです。
もしキレ返してきたならば、その奇声を録音して、鼓膜が破れるレベルで聞かせてあげます。
それくらいの調教が必要なのです。
反省する動機がないのですから。
自己顕示欲
さて、次に自己顕示欲について触れてみましょう。
稀に子供が「きゃあん!」と絶叫しているにもかかわらず、その声で周りの人がその集団に注目すると「ほら、オレたち理想のお父さんお母さんやってるぜ」的に誇らしげにするB層がいます。
絶叫によって周りから注目が集まることをむしろ誉れに思っているという絶望ですが、そうした保護者のもとで育った「奇声をあげる子供」は、むしろ「きゃー!」と叫ぶことはいいことなのだ、というふうに学習していきます。
はっきり言えば、これは暴走族の暴走行為と同じです。
そうして学習が完成した子供は、叫んで人に注目されることが良いことだと思うので、所構わず奇声をあげるようになります。
これが「私を見て!」「私かわいい♡」というような現象が起こるまでの因果関係です。
ただの自己顕示欲のために奇声を聞かされる人たちのことを考えてみましょう。
それで無視をすると、次は「愛への渇望」です。
だから、奇声を発する事自体に対しての調教が必要です。
慰めと快感
最後になりますが、「きゃー!」というような、子供の奇声には快感を欲してという感じで自らへの慰め要素があると思っています。
人は大きな声を出すと、思考が止まり、思考が止まると悩みによる不快感がとりあえずは停止します。
以前、ある本の中で自己啓発セミナーについて書いてあって、その中の課題として「ある文章を暗記して、大声で叫びながらその文章を話す」というものがありました。
結局オチとしては、大声で話すと思考が止まるので、文章を思い出せず、文章を思い出そうとすると声が小さくなるということで、その課題はクリアできないような仕組みになっていたと言うような感じです。
そこから考えられるのは、大声を出すと思考が止まるということをもって、不安感や不快感を解消したいというような意図があるのではないかということです。
某ブラック企業でもその社員研修で「絶叫する」というものがあります。
「大声を出してプライドを捨てろ!」
というようなものですが、そうすることで、精神状態が変わるということになるのでしょう。
そうして「スッキリする」というのはいいですが、奇声をあげる場所は、カラオケでも公園でも海辺でもありません。
他人の家の前、飲食店、スーパーなどなど、叫ぶためにあるような場所ではないところで奇声を絶叫しているのです。
再度書いておきますが「生きるために必要な叫び」について言っているのではありません。
自己顕示欲や快楽のための行為である「きゃー!」とか「きゃあん!」といった「金切り声」として分類されるような「奇声の絶叫」は公害だということを言っているにすぎません。
「キャー!」という奇声への対処
さて、それでは最近行った「キャー!」という奇声への対処について触れておきます。
それは非常に単純で、近所の小学校に通報したという感じです。
一応毎度毎度、叱ることにはしていますが、小学生は毎年毎年1学年が入れ替わります。そういうわけで、毎年登場する奇声をあげる子供への対処が面倒なので、小学校に連絡をしてみました。
もちろん小学校の教員の人たちにすべての責任があるわけではありませんが、小学校からの帰り道で起こっていることなので、一応相談してみたという感じです。
「住所を教えておきますから、保護者から文句が出たら別に100人でも1000人でも来てもらっていいですよ」
といってみました。
「一番権限のある人を出してください。教頭か校長ですね。どちらかの人を出してください」
「いま外出しておりまして」
「そういう嘘はいいですから。出しなさい」
「いいえ。本当におりませんので、教務主任たちで対応させていただきます」
すると、特に頼んでもいないのですが、教員が数人で我が家までやってきました。
で、「別に先生たちが謝る必要はありません。奇声をあげるのをやめさせてほしいというだけです。
本来は本人や保護者に言うべきですが、どこの家に言いにいったらいいかわからないのと、大人数を一気に指導して欲しいという旨であなた達に連絡をしたというだけですから」
「今日は下校途中に子どもたちの興味をそそるようなものが落ちていたようで…」
「ですから、今日起こったことについての弁明などは必要ありません。
なんなら、費用を出すかこちらで作りますから、保護者あての配布物を配ってください」
「いえ、教員側でなんとか対応させていただきます。これも教育として必要なことだと思っておりますので」
そんな感じで話をしていると、その日は、下校ルートに先生が立って、奇声をあげるたびに指導をしてくれたりしました。
その日の晩、教頭がわざわざ我が家にやってきました。
「いま一学年が修学旅行中ですので、帰りしだい全校集会を開いて指導させていただきます」
「そうですか。それはどうもありがとうございます。しかし、おそらく本人たちは『何が悪いのかわかっていない』のだと思います。奇声や大声といっても、どの声のことなのかもわかっていないかもしれません。
そしてそれは無意識から起きる行動なので、自覚がないということがほとんどでしょう。
だから、良いとか悪いとか言う点だけでなく『無意識に起こることを意識に上げる』ということを指導してください」
ほとんど期待はしていなかったにもかかわらず、的確な対応をしてくれました。
「意外と義務教育も捨てたもんじゃないなぁ」と思いつつ、「だったら最初から何とかしておけばいいのに」という気持ちも起こりました。
といっても入学したての子どもたちのことについては、先生たちとしても関わりが最近のことなのでどうしようもないのかもしれません。
まあ、一気に改善するということができなくても、少しずつでもこうした音声公害が収まっていけばいいと思っています。
根本は「反省する動機がない」というところにあるので、その動機が少しでも起こったのなら、少なからず改善はしていくでしょう。
直接体験を通じて諭す
子供の奇声への対応として、気を紛らわせる何かを差し出せばいいなどというような人もいるようですが、スーパーなどにおいては品物を見ながら、そして道端では友達と楽しく遊びながら「キャー!」と叫んでいます。ということで、何の説得力もありません。
問題は「何が悪いのかがわかっていない」ということであるはずですが、そうした人たちは、叱らない教育などといって結局相手に調子を乗らせるようなことしかしません。
奇声を発する子供としては、何が問題であるのかはわかっていないはずですし、むしろ叫んだ時に「元気だなぁ」などと声をかけられたことや自分が叫ぶことで周りの人が注目し、お父さんやお母さんの「今俺達理想の親をやってるのをみんなに見られてるよ」という自己顕示欲が満たされたことなどが嬉しくて、下手をすれば「奇声を発するのはいいことだ」と思って発している可能性だってあります。
しかし、人の家の前であれば、病気で寝ている人もいるかもしれませんし、仕事をしている人だっているかもしれません。静かであることが好ましい公共の場、そして食事の場などで奇声を発することは、誰かに迷惑をかける事になる、ということを教えてあげねばなりません。
「キャー!」「きゃあん!」がどういうことかを教えてみる
そういうわけなので、我が家の前で小学生などが奇声を発した場合、たいてい外に出て直接の体験を通じた説教をしています。
それはすごく簡単で、「いま叫んだの誰?」と聞いてみます。
すると「私じゃないです」などと嘘をつく子が結構いるのですが、それはさておいて、「さっきさ、『きゃあん!』って叫んだの誰かな?」ともう一度聞いてみます。
なるべく甲高い声で爆音でです。
すると、全員がビクッとします。
で、その瞬間に「ほら、いまビクッとしたでしょ?そんな感じでこの周りに住んでる人たちは急にビクッとしなきゃならなくなるんだ」
と言ってみます。
で、相手が小学生なら
「楽しくて気づいていないだけかもしれないけどさ、例えばテストで自分の名前書こうと思った時にびっくりしたら字がうまく書けなくなったりするでしょ?
ご飯食べてるときならお箸を落としてしまうかもしれない。
それでこの近くではお仕事をしてる人とか体がしんどくて休んでる人がいるかもしれないよね?
君たちが今ビクッとしたみたいに、この近くの人もビクッとしちゃうんだ。
だから学校とか大きな公園とかでやってね。そうして大きな声を出すとと困る人達がいるということを考えてみてね。
帰り道に楽しく帰るのはいいよ。友だちと仲良く遊びながら楽しく帰ろう」
といった感じで諭してみます。
すると体験を通じてなのでどんな子どもでも理解してくれます。
その年齢になるまで、奇声を問題だと思ってこなかった親たち、問題だとわかりつつも対処できなかった人たちに期待することはありません。
相手が小さな子供であっても、立派な一つの人格を持っているということを忘れずにいれば必ず伝わります。
伝わらないのであれば、どうすれば伝わるかを考えればいいのです。
子供の奇声を筆頭に、被害を受けている側のことを棚に上げ、「子供のしたことだから仕方がない」という論調がありますが、それは法的には各人の主観や仲間内の意見で決まることではなく、判例を根拠とした「受忍限度」という部分が深く関わってきます。また、単発の出来事なのか、日常的に繰り返されていることなのかといった点や、いわゆるしつけ等の教育や近隣に対する配慮等「回避可能性」がどの程度であるかが争点となります。
類似ケースとして近隣住民による足音や振動といった騒音に関する問題があります。そこで話が通じない相手に対する対処、居直りにも似た対応に対する対抗策や判例上の「受忍限度」を元とした法的解釈を記してみました。
騒音という意味では、類似ケースになると思いますのでご参考ください。
家の前で遊ぶ子供がうるさすぎたので「限度を知れ!」と注意してみたところ子供の親が怒鳴り込みに来ました。その時のやり取りと、家の前の騒音問題に関する対処法、騒音問題に備えるために押さえておくべきポイントについて。
家の前で遊ぶ子供がうるさすぎたので注意すると子供の親が怒鳴り込みに来た
最終更新日:
うちの近所のキ○ガイも是非黙らせて欲しいですね。
いつも窓全開カーテンもしないで発狂させ放題、人の敷地に入り注意すると逆恨み、親は路上駐車を繰り返しゴミもそこら辺にポイ捨て。(隠し防犯カメラの映像)
窓全開、路上駐車…と、なんだか騒音問題が生じている我が家の隣の人のままのようです。
小学校への通報や子供相手のお話は、通学路で不特定の人々が相手だったからという感じですが、「話が通じない特定の相手」の場合は、事実的証拠を積み上げて民事上、刑事上、行政上の制裁を検討してみても良いと思いますよ。話が通じないのですから。
あくまで一般論ですが、日常的な奇声や足音などの騒音に関しては、環境基本法16条と環境省の告示を基準として騒音値を測り、民法709条によって不法行為による損害賠償を訴えることなどができます。不法投棄なら刑事事件ですし、路上駐車については、公道であれば道路交通法上の反則になるので警察に通報することができます(なお、私道なら損害賠償を請求することができます)。
具体的なところについては弁護士さんなどにご相談ください。
昔もいたという人も多いですが昔は勿論大声で騒ぐ子とかはいますがあのキャーッって奇声を上げる子って小さい子はともかく小学生だとまずいなかったと思います。
時代の移り変わりとされていますがそうではなく全面的に親の教育のせいだと感じます。
勿論中には支援学級の子とかもいるのでそういう子はしょうがない所もありますが。
叱らない教育は結構ですが人に迷惑を掛けても叱らない非常識な親は昔よりもはるかに増えているとつくづく感じます。
自分もまだ40手前ですが自分が子供の時でもそんな事すればげんこつやらきついお叱りでしたし周りもそれが普通でしたけどね・・・
これからどうなっていってしまうのかと思ってしまいます。
昔も少なからずいたと思いますが、感覚的には出くわす回数が多いと感じています。
要因としては、核家族化をはじめとする地域コミュニティの弱体化と、デジタルデバイスだと思っています。
お話いただいた「きついお叱り」が無いのは地域コミュニティの弱体化の象徴だと思います。
地域コミュニティが弱体化すると、地域の構成員同士の関係性が薄いので、「共通認識」がなく、トラブルの際は共通項としての法律などを持ち出さねばならないという状態になるので、注意するという行為にも緊張が走ります。
なので、注意という行動が抑制されます。
結果、野放しになるという流れが生じているような気がします。
あと、最近気づきましたが、ドラマなどで意図的に奇声のような声を出しているという場面があります。それは概ねヒロインがピンチでヒーローに助けを呼ぶというシーンです。
なので、その類の声を出せばヒーローがやってくるという関連付けのような学習をした上で、スマートフォンなどに夢中な保護者の関心を惹くという意図から、奇声の癖がついていっているような気がしました。
そして日和見菌のようなもので、一定数そうした人がいると、それになびき、学習し、爆発的に数が増えるという形になっているのでしょう、
「この場所にいるのは自分や自分の身の周りの人だけではない」という広い視野を持つことを始め、「全体を包括する視点からの思考」が養われないので、学習の面でも一定以上のレベルの学問領域になると苦労するようになると思います。
感情的で理由の説明のない指導は萎縮をもたらすというのはわかりますが、歪んだ「叱らない教育」は、概念としての「社会」というものを捉える能力や様々な「何故なのか?」を考える機会を奪うことになるとも考えることができます。
親の教育というより昔に比べて外で遊ぶ機会が少なくエネルギーがありあまっているのでしょう。
あと個体差もあります。耳が少し聞こえにくいとか、発達障害かもしれません。
うちの下の子♀もキンキン声なので声が大きいと注意しますが、生まれた直後に助産師さんからこの子は声が大きすぎる!と言われたので生まれつきそういう子なんだと思います。
声の大きさについては本人が音量1のつもりでも周囲には音量10くらいに聞こえているということを伝えています。
しかしどうにも気分次第でコントロールできるものでもないらしく奇声に近い声をだします。近くにいたら口をふさいで静かにしなさい!と言います。
小学生になり落ち着くかどうかはわかりませんが、大人になってからもこの特性は他者を不快にするものであるため苦労するだろうな、と悩んでいます。
物理的で身体を操作する遊びが減少してエネルギーがありあまっているという点はあるでしょう。
しかしながら、先天的な要因自体を持つ方々は昔からいて、それらの方々は、教育を含めた環境要因によって抑制されていたため、旧来と比較して増加したような印象があるのだと思います。
近くの保育園では、そうした障害を理由に弁解してきたことがありますが、伝家の宝刀のように免罪符としてそうした理由を持ち出すことは、かつて、その障害を持ちながら、感情の爆発や奇声を抑制して社会に適応した方々を侮蔑することにもなります。
教育の猶予に関しては正当性があっても、一律に「仕方がないことである」と、免罪符として使うことはできません。
そうした先天的特性は、現代に急に現れたものではないため、教育のみならず環境要因が大きいと思います。
この環境要因は、もちろん親のみに依存することではありません。関係性の強さに応じる形にはなりますが、社会の構成員全てに関わっています。
論理的な理解と情動のコントロールが、まだうまくいっていない状態だと思いますが、その方の気質に合わせて、あらゆるアプローチで伝えていけば、必ず理解できると思います。
生命保存レベルを超えた意識的領域においては、欲が生じればそれを満たす、怒りが生じればそれを解消するという方向ではなく、そうしたエネルギーが生じたときには、力を抜き、呼吸を整え、「頭付近で浮ついているもの」を腹に落とすと落ち着きます。
そこが難しい所ですよね。
勿論間を上手く取り叱るべき時に叱るのがベストではあるのですが、
それを完璧ではなくてもある程度できる親ならばああはならない為親自身も考える力があまりない親や諦めてしまう親が増えたと思います。
その親たちをただ批判したいと言う意味ではなく、恐らくその人達も親や周りの人間からそういう出来事が起きた時に注意を受けていないのが原因かと思います。
まさに仰っていた地域コミュニティの弱体化も間違いなく原因の一つだと思います。
後はドラマもですが最近の幼児向けアニメも奇声を上げるシーンが意外とあります。
ドラえもんとかではなくもっと幼児向けのアニメですね。
親以外から未就学児が受ける教育はそういうものも大きく影響する為そこにも原因があると思われます。
社会全体としてそういう場で叱られる体験がなく考えた事がない親が増えた結果なのかもしれませんね。
その結果そういうドラマやアニメも生まれているのかと。
ただだからこそ理解してもらう事が非常に難しい事でもあると思います。
社会全体として少子化の影響もあり子供に注意するのがいけなくなっている風潮も背景にありますが、
それでもいけない事はいけないと叱られると言う形でもそうではない形だとしても子供も親も理解出来るようになることがベストなんですけどね。
長々と長文失礼致しました。
コメントどうもありがとうございます。少子化が事実であってもそれを理由に「優遇」したりする必要ははどこにもありませんし、周りが気を遣って譲歩する必要もありません。
実家の前に引っ越してきた家庭においても、幼児が奇声を上げることがあり、実家に帰った際、何度か注意したことがあります。敵対するかと思いきや、それによって感謝されたことがあります。
そこのお父さんとお話すると「子供になめられていて、言うことを聞かないので、第三者が言ってくれるとありがたい」と過労状態の中感謝されました。
まあそれもどうかと思う面もありますが、わかっていながらも混乱し八方塞がりになっているという感じでした。
全てのケースではないでしょうが、「子供は宝」的な風潮が行き過ぎて横暴になっており、大人がなめられているということも要因としてあるような気がします。
なので、親世代が注意を受けたことがないというケースも想定できますが、それとはまた別に「なめられすぎて対処に困っている」というケースもあるのだと思います。
その原因としては以前は、家族構成が大規模であったり、地域コミュニティの結束が強かったり、戦時中を生きた祖父母世代の威厳などがある中、指導の労力の分散などもあったと思います。
現代では仕事などで疲弊して気力のない大人が威厳を保てない中、負担が集中して耐えられず気力負けするというような構造もあるような気がします。
そういえば、以前に説教した小学生が、わざわざ礼を言いに来たということがありました。中学年くらいの子でしょうか。
インターホンが鳴ったので出てみると、一人で立ち尽くしていて、「言われるまで気づきませんでした。何だかありがとう」といって帰っていきました。
また、奇声が聞こえたので外に出ようと思うと、そのうちの一人が、同級生と思しき奇声を発している友人たちを指導していました。
そのように保護者たちには一度も教育されていないながらに、自分の頭で考えて理解していく子も少なからずいると思いますので、まだ大丈夫かなぁと思っています。
ただ、格差はさらに広がるような気がしています。
昔もそういう声を上げる子はいた!とか
あなただって奇声をあげていたのよ!忘れているのよ!とか
言うバカが、ネットにはいっぱいいますよね。
忘れているのは、お前らだよ、と言いたい。
昔の子供は、騒いでも、人語で話していた。
今の子供は、獣のように、意味のない金切り声をあげている。
成績も落ちてきているそうですし、まともに運動出来ない子が増えているそうですし、
まあ、ガキがガキ作って放置している時代になってしまったので、劣化人間しか生産されなくなったんでしょう。
「昔」ってのが、たかだか五年くらいだったりする、若い女が、大人に対して、デカい口を叩いてるのもありますね。
「昔の子供は、騒いでも、人語で話していた。
今の子供は、獣のように、意味のない金切り声をあげている」
というお言葉はご名答だと思います。
「すげぇ」のような感嘆はあっても、金切り声は極めて部分的であると思いますが、個人的にはそんな部分的な人すら記憶にありません。
まあ「あなたも昔は」ということは、苦し紛れの妄想ですからね。
「昔」に関する感覚が五年くらい前と言う感覚の人がいるということはある意味想定外でした。
いずれにしても「教育の能力がない無能さ」を非難されることへの苦し紛れの反証という感じでしょう。反証にもなっていないですけどね。
少なくとも、現在以降をより良くしていくための意図が必要になります。その中で「何が悪いのかがわかっていない」という「反省する動機」がないのなら、反省する動機を与えるというのが、まず第一歩です。
拝読しながら頷きすぎて首が痛い…
となりの敷地が公園なので、今まさに金属音みたいな喚き声に悩まされています。
設置されたベンチは土足で上るのでいつも泥だらけでお子様天国と化しています。
保育園や児童公園の設置に反対する高齢者が批判されますが、私は嫌がる気持ちがよくわかります。
一階に保育園があるマンションで10年以上暮らしましたが、年配の園長が金切り声を出させなかったのか苦痛に感じたことはありません。やはり大人の対応が大事ですね。
「保育園や児童公園の設置への反対」ということのお気持ちは僕にもよくわかります。
一過性のものならば、百歩譲ってその場限りとして許容できたとしても、慢性化することは、この先にも可能性が残ることになり、かつ、逃れることができないという構造をもたらすため、苦痛が続くからです。
なお、比較的最近の傾向ですが、地震によるブロック塀倒壊事故を受けてか、既存の幼稚園・保育園においても、ブロック塀の上部を薄い金属製の隙間があるようなパネルに変更しているため、さらに音の遮蔽率が下がり、奇声が貫通し、より一層騒音が響く傾向にあります。
その影響からか、最近近所の保育園の奇声が響く時があります。保育園の方に注意に行きましたが、話をした当の保育士も「どうしても感情が…」と、「仕方のないことです」というふうにしか考えおらず、論点がわかっていなかったようでした。
そういうわけなので、わかるように話をしてみました。
育児に関して素人スタートである保護者ならまだしも、保育士ですらわかっていないというのは笑止千万という感じでした。
近年、「仕方がないことです。だから私達は悪くありません」という居直りが多い傾向にありますが、「仕方がないのであれば、どうして、奇声を出す者と出さない者がいるのか?」というところを回答してもらわねばなりません。
初めまして。大変参考になりました。私も閑静な住宅街に住んでいるのですが、その閑静な住宅街でボール遊びやらをして奇声を上げ遊んでいる子供に悩まされていましたが、限界が来たので直接の苦情は言わず、手紙を投函致しました。
「家の外に出て目を瞑って3分前後耳を澄まして下さい。多分、閑静な状態が続いていると思われます。あなた方はその閑静な場所でお子様に奇声を上げさせ、遊ばせ続けているのです。ご近所にどのくらい響いているか御理解頂けると思います」という文面を送った所、幸い今の時点では(送って5日間くらいですが)遊ぶ声はしなくなりました。
今回の私のケースは「遊んでいる家庭が1件だけ」という点で指摘をするにしても恵まれていたと思います。これがいわゆる何件もの家庭が連なって遊んでいる『道路族』となると徒党を組むことにより、抵抗されてしまったと思います。「現在のコロナの影響で気軽に外で遊ばせられない=ならば自宅前で」という点においても手紙でキチンと触れて念を押したのですが…やはり注意をするというのは後味が悪いものです…余談ですが、私の家の近くに神社では毎朝ウグイスが鳴いております。
コメントどうもありがとうございます。
おっしゃる通り相手を特定できている場合に限りますが、手紙の投函という方法はすごく理性的な方法だと思います。
そしてやはり根本的に周りの住民のことは頭に入っていないとか、不快な行為であるという自覚すらないということのようですので、相手の人格にもよりますが、相手に気づきが起こり「反省する動機」が生まれれば改善する余地はあるという感じになりそうです。
「群れれば強気になる」というような形で「なぜそんなに強気になれるのかわからない」と思えるほどに横暴になる人達もいますが譲る必要はありません。
自己都合にも関わらず、同種の人間が集まるため、客観性があるとか民主主義的であるということを自己都合で思っているだけということになりますが、仮に民主主義や公共性・公益性を出すのであれば、近隣の療養中の人や業務中の企業、数量的には独居者等々地域社会というもっと広い集合で考える必要がありますからね。
まあほとんどのケースでは「何が迷惑なのかすらわかっていない」というものか、親を含め大人がなめられているか、歪んだ「叱らない教育」を真に受けているかのいずれかです。
お手紙の投函でひとまず奇声が収まったという事例は、類似ケースに悩む人達にとっては朗報になると思います。理性的な対処の事例をお伝えいただきありがたい限りです。
あまりにも私がいま困っていること、訴えたいことが列挙されていて、思わず奇声(!)をあげそうになりました。
マンション前の公園に、住み出した5年前は居なかった奇声児たちが昨年から突如大量発生しています。はじめは人が刺されたのかとびっくりして窓を開けていましたが、嬉し楽しの声でした。奇声に耐えかねて防音ガラスの二重窓を入れましたが、それを突き破って奇声が聞こえます。
公園事務所や警察を呼んでもどうしようもなく、ましてやいま世間は新型コロナウイルス感染症で3密を避けるよう訴えている中、奇声児とその親が大量に公園に沸いています。親は当然ながら輪になって世間話中。
テレビも聴こえなくなるし、奇声児とその親、周囲にどうやったら伝わるのかを日々考え困惑しています。
コメントどうもありがとうございます。
奇声について何が悪いのかがわかっていないという「反省する動機の無さ」が根本にありますので、近隣住民の中には多様な状況があること、そして自分たちが気にもしていないその行為は、平穏生活権の侵害や業務妨害といった要素がある旨を何かしらの方法で伝えていく必要があると思います。
直接その旨を伝えにいくのが一番ですが、直接的なトラブルを避けるという場合は、権限のある第三者に委ねるという方法が良いでしょう。
一度で聞かない場合は、それが基本的な理解となるまで何度でも繰り返すと良いと思います。
深夜に若者がうるさいという場合でも警察は来ます。それと同じような「軽い指導くらいはしてくれる」という対応がある場合は、相手が根負けするまで何度でも実行するのが良いのではないでしょうか。
相手が「あなたがうるさいと感じるだけでしょ?」と居直る場合があると思いますが、そうした時は方便としてでも「すぐ近くに事業所があり、奇声は業務に支障をきたす」とか「寝込んでいる人がいるので配慮を願う」と伝えると、意味を理解するかもしれません。
以前にコメント欄に記載した内容になりますが、相手が子供でも意味を理解したあとに「言われるまで気づきませんでした。何だかありがとう」とわざわざ礼にやってきてくれる子までいます。
指導することでその場にいた親御さんに感謝されたことも一度や二度ではありません(親御さんがなめられていて、親の言うことは聞かないというケースもよくあるようです。そこで第三者の僕が出てくると社会的な客観性を持つようになるので子供に注意しやすくなるということのようです)。
多種多様な人がいるので、各々にすぐに伝わるかはわかりませんが、奇声の及ぼす影響を考えたこともなく、周りの人のことを全く頭にない状態にある人に対してでも、様々な方向から伝え続けていれば、その大半の人は理解をしてくれるようになると思います。
それでも一喝しないと聞かない人もいて、またそうしても伝わらない人もいます。
ただ、奇声を上げることを当たり前だと思う人の数より、それは公害的であるということを認識する人の数が増え、指導などの抑制の頻度が増えれば社会の中の基準が変化し、自然と奇声は抑制されると考えています。
早々の御返信、誠にありがとうございます。(私の方が1週間も放置し、申し訳ありません)
今の所、一応はボール遊びや奇声などは無くなりました。ですが最近のコロナによる外出自粛というタイミングで手紙を投函した事で、向うのご家族にも二重に抑止させてしまったのかなと思うと非常に心苦しい&後味が悪いものですね…(外に出てはいけない=家の前で遊ばせるならOKというのもおかしな話ですが…家の前なら自由にしてもいいという考えの方々もおりますので厄介です)
騒音が収まって気付きましたが、私は相手に恵まれていたのだと思いました。「注意してそれを理解して応じる人」と「注意しても『私達の勝手だろう』と応じてくれない人」がいるのはお分かりだろうと思います。今回の場合は前者であった事で運良く収まりましたが(現在の所ですが)、騒音のハードルというのは2重にあるのだなと感じました(騒音発生しない環境+注意して収めて下さるご家庭という意味で)。
今は伸び伸びと遊ばせられる唯一の場所である公園ですら、閉鎖されている所も多く、「やむなく自宅前で遊ばせる」という親御さんも多いと思います。ですが、遊ばせる前は閑静な住宅街であったという事をご近所の方から嫌われる前に
気付いてくれたら、そのご家庭も長くその土地で過ごせるのになと思いました。
特に実のある内容でない&長文で失礼致しました。もし、また騒音関連で私の近隣で何かありましたら、ご迷惑でなければ報告させて頂きたいと思います。
再度のコメントありがとうございます(ご確認タイミング等々お気遣いなさらないでください)。
さて、奇声が止まったようで何よりですね。「二重に抑止させてしまったのかなと思うと非常に心苦しい&後味が悪いもの」という印象については、抑止という部分を見ればそうなってしまうと思いますが、完全なる抑止ではなく、どの部分が近隣に迷惑をかけているのかということのお知らせになりますので、それは広い意味での教育になると思います。なので、正々堂々とした気持ちを持たれると良いのではないでしょうか。
誰も教えなかった部分を社会を代表して伝えたということですからね。
確かにおっしゃるとおり「注意してそれを理解して応じる人」もいれば「注意しても『私達の勝手だろう』と応じてくれない人」もいると思います。
こうした奇声問題は、核家族化を中心とした個人主義的な傾向も間接要因となっています。とはいっても、地域社会という構造はどこまでも切り離すことができません。なので「気付いてくれたら、そのご家庭も長くその土地で過ごせるのにな」という部分は非常に大切な部分だと思います。
コメントは大歓迎ですので、また何かありましたらご連絡いただければと思います。
今、まさにウチの近所で奇声を発しております。
田んぼを埋め立てた袋小路の住宅、我が家は少し離れていますが窓を閉め切ってもリビングまで聞こえて来ます。
我が家が古いのもありますが、その袋小路住宅が出来るまでは本当に閑静な地域でした。
袋小路でもちろん車の通りは少なく遊ばせるには安全かも知れません。
新築住宅建設時の工事、機械音、近所の犬や猫の泣き声、赤ちゃんの泣き声、子供も楽しそうに遊ぶ声は全く気になりません。
しかしあの自転車の壊れたブレーキ音のような奇声は殺意が湧きます。
その子にも、その親にも。
キーキー声で自己アピールしてるのはボウズの男の子。ずっと女の子だと思っていました。
周りの女の子も大概奇声に近いですが。
可愛い可愛いと育てられているんでしょうね、身内やご近所さんには。
警察にも何度も相談しました。
周辺に聞き取りをした、注意した、全く何も変わりません。
母親の声もたまに聞こえますが、言ってる事は馬鹿っぽい感じで躾からは縁遠いでしょう。
そろそろ限界ですね。馬鹿親は消えればいいと思っています。それほどに病むほどの奇声なんですよ。
心中お察しします。
(部分的に語を変換させてしまいましたがご容赦ください)
我が家の近くもおっしゃるような「袋小路住宅」が登場し、共有の私有地なので路地内であれば自由だということで、遊ぶ人たちが登場しました。
閑静な住宅街が一変し、奇声ラッシュポイントとなるというケースはよくあると思います。
ましてそうした新興住宅の場合はそれぞれが別のエリアで育った他人として集まっているので、袋小路外を含めた地域社会的な公共性の頭がないという確率が高いでしょう。
(袋小路内で奇声を問題とする側としない側のパワーバランスで、全体的な奇声の発声と抑制が決定しそうな感じです)
もちろん、その場所で遊ぶのがいけないというわけではありませんし、おっしゃるように赤ちゃんの泣き声、子供の普通の遊ぶ声は特に問題にならないと思います。
脳髄に貫通するような「キャー」という奇声、まさにおっしゃるような「自転車の壊れたブレーキ音のような奇声」は、神経を逆撫でしてきます。
「脳髄に貫通し、神経に響く」という感覚が相手にはないのかもしれません。しかし、だからといって許す必要はありません。
さんざん「注意されたことを無視して育ったきた」という人は、生体レベルでの危険を感じるくらいないと聞きもしません。都合の悪いことを無視することに慣れていますからね。
通常の論理で伝わらない場合は、感覚で伝えるというのも良いかもしれません。
よほど無視することに慣れている人でも、生体レベルで自分より圧倒的に強そうな人には弱かったりします。
風格のあるおじさんがスーツ姿に色眼鏡で歩み寄るだけで、一言も発しなくても伝わるかもしれません。
まったくもって同意です。
私は公園の目の前に子供の頃から住んでいます。現在は自分の子供が高校生。なのでかなり感覚を鈍化させて生活してきたつもりです。そうでないととても生きていけないので。
コロナ下で自粛になって皮肉なことに悪化しました。東京郊外の住宅地なので「子供をじっとさせてはいられない」という大義名分をかざして一日中密レベルで遊んでいます。何のための緊急事態か、笑ってしまうほどです。最終的に、放置している行政の責任ではあります。
この3か月を振り返ると遊び方には変動もありました。幼稚園親子がお互いを助けるためでしょうがたくさん集まりシートを敷き一日中。子供たちは勝手に遊ばせておく。一応視野に入れておきたい親は、砂場ではないのにシートのそばの公園の地面を掘らせておく。
だいぶ自粛に飽きた頃になると、もはや完全に子供だけを公園に集まらせて遊ばせている。
賢い?親は家庭教師をつけたのか一画を占領してサッカー個人レッスン。ほとんど毎日。
コロナ前に比べて加わった特徴は「お父さん」です。お友達のお子さんもかわいがるいいお父さんなんでしょうが、追いかけて、大声で、子供たちに奇声をあげさせて遊びます。複数います。異常に興奮させて楽しいつもりだろうけど、逆に子供たちが気の毒にも見えてきます。
絶望的です。結局子供に、ではなく、その親たちのレベルの問題であり、「みんなやっているからいいだろう」
楽な方に流れる日本人の悪い癖です。
これは自分自身も気をつけようと思います。
コメントできる場所を作ってくださりありがとうございました。
コメントどうもありがとうございます。
「追いかけて、大声で、子供たちに奇声をあげさせて遊ぶ」というのは絶望的だと思います。つまり、おっしゃるように興奮させて感情の吐き出しを行っているという感じ程度に考えているのでしょうが、社会性が欠如していますからね。
何事も社会においては、個人的な感情問題について社会契約的に公益のために一部制限される、つまり日常においては配慮を求められるということになります。保護者にとってもそれが理解できていないのでしょう。
これは「配慮しないならばあなたも配慮されない」ということで起こる社会の混乱を防ぐもので社会秩序のためにある考えです。
一方奇声を野放しにしている人々にとっては、自分たちの「騒ぎたい」は正当で仕方のないものであり、社会が不寛容なのだという論調です。
自分たちは配慮せず、相手には寛容を求めるということで自己都合です。回避可能性があり、代替手段があり、抑制が可能な対象ながら、何かしら配慮するのはめんどくさい、お金はかけたくないという程度ですからね。
そうした場合は、問題解決の手段が国家権力となり、私人間であれば民事的な紛争という形で民事訴訟になります。
お互いが配慮するという意識、一種の地域共同体的な意識がない場合は、私的自治が機能しないため、基準を国家レベルの法に持っていかねばならなくなる、ということになります。
しかしながら、そうしたことはよほど知能が発達している場合でない限り、子供にはわかりません。
そういうわけなので、おっしゃる通り、問題は親を含めた保護者の方にあると思います。
ある側面から見ればそうした程度の社会性しか持たない保護者に教育されている子供は被害者であるという部分があります。子供にも一人格があるため、その人格を尊重し、親に話が通じなくても直接本人を諭すことにしています。
私がここ最近毎日悩んでること、まさにこういうことです!あまりにも共感することが多すぎて私こんなブログ書いたかな?って思ってしまうくらい(笑) 私が住んでいるのも洛外京都です
コメントどうもありがとうございます。
自宅付近に限定されるかもしれませんが、小学校への連絡等々により年々落ち着きが出てきているような気がします。
何故かコメントが途中で切れてました。子供の奇声がきっかけにパニック障害に陥り通院しています。なるべく外出を控え、スーパーはなるべく夜に行くようにし土日は避け、ショッピングモールには行かず、外食は街中の居酒屋などに行きますが、それでもうるさい子供に遭遇することがあります。あなたのように注意できたら良いのですが。けどこのサイトに来て子供の奇声に悩まされてるのは私だけじゃないって思って安心しました。私達のような考えの人達が集まってコミュニティを作ってどうやったらそういう親子を対処できるか団結して考えていけたらもっと住みやすい社会になるのではと思います。またそういう奇声を発する子供が大人になったら会社でもキーとか大声あげるんでしょうか、、今後日本に住むことに危機感すら感じます。
心中お察しします。(部分的に語を略させていただきましたがご容赦ください)
表にはあまり出ない事が多いのかもしれませんが、繊細な人々は結構同じように嫌悪感を持たれていると思いますし、同様に「被害を受けている側」が奇声に遭遇しないようにと行動を制限されているということもよくあると思います。
この手の問題は、問題を問題化し団体交渉をするとそれを支えてしまうことが起こりやすいため、程度に応じてその都度解決するのが一番だと思っています。
なお、そのまま育つと、少なくともストレス耐性や自制心などに関しては弱くなると思います。これは情動を抑制する神経回路が発達しづらいためです。
しかしながら、子供本人と話してみると99%の子供はすぐに何が問題で自分はどうするべきなのかを理解してくれます(歴代でひとりだけ「はぁ?」と言ってきた小学校低学年男子がいました。その後学校より親を含めた指導があったそうです)。
そう考えると、やはり教育の問題ということになるので、保護者や教育者がしっかりしなければならないという印象を受けます。
といっても、現状のその人達では教育として伝わりきっていなかったりしますので(それどころか問題とも思っていない場合もよくあります)、直接声をかけられない場合は、そうした大人たちを説得し理解させてくれる「権限を持った人たち」に相談をするのが最も理想的な方法だと思います。
なお、奇声を上げることについて「何がいけないんだ」居直る人もいると思いますが、民事的な判例上騒音には受忍限度という概念があり、数値的に限度を超えると損害賠償の対象となります。
感情的な争いになると話は平行線になりやすい傾向にあります。なので、そうした概念をカードとして持っておくことも理性的解決への備えの一つになると思います。
私も子供の奇声で悩んでいます。江東区のマンションに住んでいてインド人が沢山住んでいて。日本の子供は静かにしてと言うと聞くのですが、インド人の子供はその時はハイと言い、また、次の日奇声をあげて遊んでいます。真っ暗になっても帰らず夜7時すぎてもうるさく遊んでいます。そういう時は警察に電話して来てもらいます。警察が注意すると帰ります。でもまた、同じ繰り返しです。また、警察に苦情の電話をしてきてもらいます、それとマンションの管理会社に電話して苦情を言ってます。何回も言ってるので、いろいろ考えてくれるようになりました。奇声は親のしつけです。子供だから仕方ないと言うのは自分が愚かな人です。他人に迷惑をかけてはいけないことを躾ける事です。
コメントどうもありがとうございます。
海外に行った時に感じましたが、やはり国々によって人の話をまともに聞くか否かという点も大きく異なるような気がします(特に人が多い地域においては、人と人との出会いが一過性であり、その場しのぎ感が強い傾向にあると思います)。
これは聞いた話ですが、インドでは警察が問答無用で警棒で殴るというところから逮捕・取り調べなどが始まるエリアもあるそうです。つまりそれくらいの気迫でないとナメてかかるというような気質があるということになるのでしょう(文化的な差異なので評価としては何とも言えません)。
そうした差異があるということを見越して伝え方などに工夫をする必要が出てくるのかもしれません。
「言っているだけでそれ以上は何もできない」と居直るような場合、感情的・暴力的に訴えかける必要はありませんが、度が過ぎると損害賠償の対象となるという「ここ日本でのルール」を伝えるとさらに意味を理解してくれるかもしれません。
私の団地の所もそうです。
近くの小学校に電話で迷惑行為を指導して下さいと言っていますが、一向に改善されて居ません。
今の子供達の理解力の無さからだと思って居ます。
母親からは、逆ギレされました。
コメントどうもありがとうございます。
結構前の話になりますが、一度、奇声に関して注意に行くと、「なんですか?」と軽くキレ返してきた人がいました。
「意味がわからないのならば説明しましょう」ということで、説明していると、「何事か?」と、そこの夫が出てきたので、その夫側に説明しました。すると理解してその場で子どもたちに指導をはじめました。
特にあまり社会に出ておらずあまり社会性の発達していない人には通じにくいのかもしれません。
そのような感じで「通じる大人を探す」というのもひとつかもしれません。
小学校にしても当の学校側が「社会性の問題」としての問題点について「意味がわかっていない」という場合も考えられます。
理解力の面も含めて子どもたちそのものについては、理解できるように教育されていないという意味での一種の被害者的要素があると思っています。
少し時間はかかるかもしれませんが、子どもたち本人か、「話が伝わるであろう大人」へ「適切な論理」を展開すれば、いずれ改善されていくと思います。
なお、以前読んだ本に書いてありましたが、教育する側の大人が「ボス」であると認定されていないと、指導しても奇声が止まらず、逆にボスであることを示し承認されると一発で止まるという場合が多いようです。
ということから考えると、相手が大人の場合、「話が伝わる大人」であり、かつ、「子供からボスと認定されている大人」に伝える必要があるというような感じになるでしょう。
家のそばの小さな広場が子供の遊び場と化しました。
始まった頃はなんだか最近常にうるさいな、という程度でしたが日が経つにつれ「どうしてこんなに毎日騒音を聞きながら暮らさないといけないの?」と思い始め、夜がきて遊ぶ子供が帰宅するまで『騒音』『奇声』などの言葉をネット検索し続ける毎日を送っていました。何年も我慢したあげくこの記事に行きつき、論理的に解決法が書かれていてとても参考になりました….いえ、心が救われました。『被害者』として苦しんだいたはずの自分が、「ここでは大声で遊ばず公園で遊んで欲しい」とお願いする事で逆に『加害者』になったようで心苦しかったのです。
でも体験を通して話すという方法は素晴らしいですね。
Twitterを見ると道路族に悩んでいる人たちが大勢います。みなさんにこの記事を紹介してもよろしいでしょうか?
コメントどうもありがとうございます。
重要なところとしては、様々な人が様々な都合を持っている中での振る舞いであり、「遊ぶ」という行為そのものよりも、他の人々が近くにいる中、どのように遊ぶかという社会性の部分であると思っています。
一方、社会で加害側にある人達、すなわち奇声を発する子供、そしてその保護者等々は、「外で遊ぶことを抑制する不寛容」などと「極端」を抽出して二元論化した議論に持ち込むような風潮があります。
が、本来、自由は公益との比較考量され、社会の中では時に自由は制限されます。
端的には遊ぶ自由もあれば、静寂を求める自由もあるわけです。
「指摘すること」が加害行為のように扱われ、抑制されるということは、一方の自由のみを保障し、一方の自由を蔑ろにすることになります。
被害者がいることを考えられず、自らの楽しさしか見えず、「自らの思うまま全て叶う」ということになれば、「自分以外の誰かの都合」を考えることのできない人格が形成されます。つまり、社会性が発達しません。
そしてそれは子供本人のためにも社会のためにもなりません。
もし、騒がしい状況に対して煩悶することがありましたら、堂々と「なぜ配慮し抑制したり工夫したりすべきなのか」という点を伝えていただければと思います。
なお、外部サイト等でのご紹介等々は、法に抵触しないような一般的な範囲であれば何の問題もありませんのでご自由になさってください。
少し古い記事にコメント失礼します。
片田舎ですが落ち着いた土地柄が気に入って、家を購入しました。
後から隣接するアパートに迷惑な一家が引っ越してきて、ド派手に泣き続けたり、絶叫や奇声をあげたりします。
管理会社には通告してもらいましたし、児相にも通報したのですが
多少?よくなった気がするくらいで、また児相か最悪警察に相談しようかと思っています。
ネットで子どもの奇声を調べると、成長するのに必要とか、言葉がうまく話せなくて奇声を発するからおかしいことではないなどとあるんです。
そんな記事ばかりであれば当然子どもの奇声を問題視しなくなるのではないかと思いました。
逆に主さんの言うように、少なくとも昭和生まれ世代で奇声をあげたりすることは目にせず(泣いたり、騒いだりはありましたが。)最近になって増えたのかという見解を示す専門家があまりいないのはおかしい気がしています。
コメントどうもありがとうございます。
隣接する家庭の出す日常的な騒音については、限度が過ぎると賠償請求が可能ですので、そうした点も視野に入れていただければと思います(そうした警告をしないと伝わらない場合もありますからね)。
さて、「成長するのに必要とか、言葉がうまく話せなくて奇声を発する」というような論調についてですが、成長に「必要」なものではありませんし、「うまく話せない」のであればあのような絶叫にはならないはずです。明らかに単に「楽しみ」のように発しています。
専門家の意見のようなものは、「奇声」に関する音の種類や周波数の高さ、音量やシーンなどについて、実際に問題化されているものがどういったものなのか、というところが曖昧なのではないでしょうか。
「騒ぐ」、「大声」、「遊ぶ」ということに対して、地域社会の関係性の希薄化、共同体意識の欠けた社会が不寛容に陥っているというような論点になったりしがちです。
そのように「仲間意識がないからうるさいと感じやすい」とか、「気にするということは、それだけ自己中心的である」というような、被害者側の意識の抽象レベルの問題として論点がすり替えられたりします。
しかしながら、遊ぶことや声について一切を排除するというようなことではありませんし、とりわけ「楽しみ」や「何となく」程度の意図で、大音量かつ高周波の奇声・金切り声を発することが問題であり、かつ、「周りにいる様々な人の様々な状況を全く考えない」という社会性の問題が「問題」であると思っています。
そして、そうしたものの構造について大人側が教育していかねばなりません。
「成長のために必要」というようなことを言うとすれば、一応子を思っているということになりそうなものですが、どちらかというと、「子供を守りたい」というよりも保護者や教育者が自分を守りたいという意図のような気がします。
自己中心的であるか、もしくは、「教育の仕方がわからず…」という中、人から責められるのは自尊心に引っかかる、慌てたくないという程度ものであると思います。
ちなみに、間接的なものになりますが、何もかも個性として取り扱われ、社会性を考えずに野放しにされた場合の問題として、小1プロブレムというものがあります。
「奇声などを咎められない」ということを含め、叱ることが悪であるかのように取り扱い、「元気だから良い」とか「自由に楽しく」ということばかりが尊重され、「情動の抑制」に関する神経回路が発達しないことや社会性に関する発達が遅れていることが原因と考えられていたりします(しかしそれは主に教育の問題であるため、保護者の問題です)。
こうした「他人の状況を考えられず、自分の感情の赴くまま」という者が集まるのだから当然に喧嘩になります。
ということで小学校の暴力事件数も著しく増加しているようです。
なお、こうした「傾向」は、スマートフォンやソーシャルネットワークの普及率の増加と結構一致していますので、その要因のひとつであるような気がしています。
同じ考えの方に出会えて嬉しいです!!何も子どもの遊ぶ声や泣く声を批判しているのではなく、“奇声”をやめて欲しいのですが、なかなか周りに通じません。。。その奇声を出す目的も自己顕示欲というお考えもまた子どもの表情や保護者の対応から見るにあきらかなのに気づかない方が多いですよね。。
私が感じていることですが、
・保護者も叱る時にやはり異常な声で叫ぶ
・アニメ声やアイドル声の影響
という声に関しての環境も関係しているのではと思っています。
毎日隣近所でデスボイスのような奇声と酷い足音が聞こえてきて、実は私も出産を控えているのですが、自分の子どもがこんな声を出して治らなかったらどうしようと変な不安まで感じてしまいます。。
コメントどうもありがとうございます。
お言葉にありました「何も子どもの遊ぶ声や泣く声を批判しているのではなく、“奇声”をやめて欲しい」というのはまさにその通りであると僕も思っています(もちろん「遊ぶ声」に関しては、場所や音量的な限度もあると思いますが、中心となる論点は奇声に関する取り扱いだと思います)。
また、
・保護者も叱る時にやはり異常な声で叫ぶ
・アニメ声やアイドル声の影響
という点も大きく影響していると思います。
本能ベースの言動ではなく、明らかに何かから学習しているはずですから、そうした点も影響があるはずです(驚きの際の「きゃっ!」というような白々しいものを含め、そうした仕草をかわいいと勘違いしていたり、奇声で人が振り向いてくれる等々、何かしら人の関心を惹こうという意図もあるのでしょう)。
何よりも、「異常な奇声を異常なことであると思っていない」という点が一番の問題点であると思っています。
自分の子供への影響などを考えてしまう点も非常によく理解できます。
そして影響を受ける可能性だけでなく、仮に奇声を発する側、それを何とも思わない側がマジョリティとなり、その奇声を異常なものであるという見解を持つ側がマイノリティとなるようなことがあっては、子育ての苦悩が増えるということはもちろん、社会で生活すること自体が嫌になってしまうと思います。
隣近所の騒音についても心中お察しします。出産を控えられているとのことですので、お体をご自愛ください。
こんばんは。初めてコメントさせていただきます。奇声に悩まされ方法論はないかと検索していたところで貴殿のブログにたどり着き、貴殿の論理的な解釈、説明、皆さまの具体例やそれに対する貴殿のコメントを読み勇気と元気をいただきました。ありがとうございます。子供のヒステリックな奇声が続き日常生活がままならず、ただでさえ病気のため不眠が続いている中での日中の養生に影響が出ておりどうしたものかと悩んでおりました。ヒステリックな奇声はこちらの精神をむしばみ冷静さを欠く行動に発展させかねないなと自身にも危惧しておりました中、毅然とした態度、論理的な説明、論理的な指導の仕方などを読み、心が落ち着きました。まずはそこまでお伝えしたく、再度余裕のある時に復習で読ませていただこうと考えております。ありがとうございました。
コメントどうもありがとうございます。
何かしらお役立ちできたようで何よりです。
奇声の瞬間的な感情の逆撫では身にしみるところですが、どんなときでもひとまず一息ついて、一段階でも「冷静さ」に向かっていただければと思います。
bossu様
はじめまして。保育園の騒音等により心身に異常を来しており、苦しさ逃れに色々検索していたところ偶然bossuさんのブログに辿り着きました。
読んでいて涙が出そうになり、胸にこみ上げるものも多く、読み返したいのに中々読み返すことができません。皆様のご意見も拝見し、苦しんでおられる方が多くいること、お気持ちお察しすると同時に何故このような思いをしなければならないのか、憤りと悔しさでいっぱいになります。
住宅街に勝手に保育園を建てられ、それまでの閑静な環境が一変しました。永遠に成長しない100人の幼児、何年も何年も毎日毎日長時間、様々な騒音を出され苦しみはどんどん積もるばかりです。
金切り声に対してもあげ放題、何の注意もしない親や保育士。保育園無料化の弊害も大きく、程度の低い親は増えるばかりで、その親にしてその子あり。保育士も「先生」なんて言うのは恥ずかしい低学歴が多いですから、全体的なレベルが低いのですよね。自分達がどれだけ迷惑をかけているか反省するどころか寧ろ被害者面しているから滑稽です。
また地主に対しても腹立たしく。地主は保育園から離れた場所に住み、あらゆる被害や迷惑を受けることなく毎月不労所得を得て固定資産税ゼロ。他所様が多く生活している住宅街に保育園を建てようなどとよく思えるなと呆れます。地主だけが得をして、周りの住人はただ迷惑を与えられるばかりです。住民の税金も保育園に使われています。嫌になります、収めた税金使われて迷惑かけられるなんて。
bossuさんの場合と当方の場合は少々異なるものではありますが、bossuさん対応やお考えを拝見し、bossuさんのような方が周りに居てくれたらどんなに心強いかと思った次第です。もちろん自身で戦わないとではあるのですが、当方の立場上舐められるのですよね、bossuさんのように知識や社会的地位を持っていれば良かったのですが(涙)。
裁判もありますが過去に訴えた方(どこか別の地域の)は敗訴となってしまい、対保育園についてはどうも分が悪いと感じます。そしてそれが余計に保育園を増長させているとも。「保育園だから仕方ない」と言うのは全くおかしなことだと思います。隣人が毎日窓を開け放して大声で叫んでいたら、歌を歌っていたら、ドラムを叩いていたら、通報されます(と思います)。それが保育園であっても迷惑行為であることには変わりありません。裁判でも、もう騒音がどうこうでは無くとにかく撤退して欲しいレベルです。
恨みつらみを書けば際限無く出てきてしまい、文面もゴチャゴチャとお目汚し申し訳ありません。吐き出す場を設けて頂きありがとうございます。
保育園の休みはとても短いです。幼稚園や学校のように週休2日・春休み・夏休み・冬休み・短縮、なんてものはありません。12時間営業でそこらの商売よりも質が悪いです。
またすぐに地獄の日々が始まります。辛さを紛らわせる為にこちらのブログをお守り替わりとしてまた読ませて下さい。
ありがとうございました。
コメントどうもありがとうございます。
心中お察しいたします。
ケースバイケースですが、感情をそのまま表に出すと、相手は聞く耳を持たない時があります(「この人は狂人か、神経質なだけなのだろう」という居直りです)。
反省する気持ちが生じず、憤りもさらに増してしまうというような感じです。
なので、なるべく理性的に、どの部分が問題であり、どのような改善を求めるのかを伝え続けるというのが一番であると思います。
なお、大阪北部地震の時のブロック塀倒壊の影響であると思いますが、うちの近くでも、ブロック塀が低くなり薄い金属製の板のようなものに変更になってから騒音が激しくなった保育園があります。
一応騒音について保育園に数回連絡したところ、そうした場所での活動は控えたり、奇声問題自体が収束していったりしました。
すぐに改善されたわけではありませんが、一年くらいかけて奇声自体も減り、その他の外への騒音も改善されたというような感じでした。
最初は、保育園側も何が問題なのかがわかっていなかった、というフシがありましたが、説明を繰り返すうちに理解していただけたようでしたし、実際に改善の方に進展していきました。
そんな感じで、なるべく理性的に様々な解決法を模索していただければと思います。
bossu様
お世話になっております。お忙しい中、ご丁寧な返信を頂きましてありがとうございます。記事同様、なかなか読み返すことができない性質で、御礼のお伝えするのに遅くなってしまいました。
理性的に、そうですね、それで話がわかるような相手なら良かったのですが、、、。下手に、丁寧に出ても全くでしたので、どうしても違う方向で行かざるを得ないところもあります。
ブロック塀から金属板だと遮音等下がりますね。上下四方全てコンクリート塀で囲うのが最低限必須レベルと思うくらいです。車のエンジン、ドアバンも酷いものです。
御礼のつもりがまた愚痴となってしまい申し訳ありません。ブログの画面ダークモードに変えられたのですね。自分はライト派ですが、でも目の疲労を考えるとダークモードの方が良さそうでしょうか。
再度コメントどうもありがとうございます。
様々な切り口があると思いますので、一番効きそうなものを探ってみてください(自他ともに負荷のかかりにくい最もスッキリする方法で交渉するのが一番だと思います)。
さて、奇声に関しては教育の問題という面が強いですが、それ以外もたくさんの音が発生するため、音の漏れに関して運営側はできる限りの対策を講じる必要があると思います。
京都特有かもしれませんが、古くからある施設では神社や寺院が母体のところも多く、その場合は周りが森だったり、墓場だったりするので、そういうところは音の漏れがほとんど気にならなかったりします(公立の学校でも元々は墓場ということもあり、周りが墓だらけということも多くあります)。
大通りに面していて車の音などでかき消し合ったり、隣接する建物が商業、工業施設という場合も比較的マシだと思います。
ただ、そうでない場合は、ブロック塀などによる音の遮蔽を検討すべきであるとは思います(跳ね返りや音の抜ける方向、マスキングなどを考えれば多少は設計できると思います)。
が、元々はそうでも(設立当時の運営者・施設設計者は配慮していたとしても)、ブロック塀倒壊事故から、倒壊の危険性のみばかり着目され、元の意図はあまり意識にすら上がっていないような気もしてしまいます(部分しか見えないゆえの部分的対処というものが原因です)。
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個人的にブルーライトによってドライアイになりやすくなってしまうためダークモードにしました。
哲学的に彼らのあの奇声を説明してるあたりを何度も読んでしまいます。当方の隣家は家の前で遊ぶことはあまりないのですが庭で狂ったように叫びます。別サイトでは「庭だからいい」「敷地内だからいい」という意見も頂きました。
しかし、毎日奇声を聞かされることは拷問のようで徐々に自身の性格も変わり、全く関係ない子供を見ても反射的に目を反らしたり、、、
かつては子供は好きな方だったのに今は目の前で轢かれても見ていないふりをするだろう、という心理状態まで落ちてます。
何度か学校の方にも問い合わせをするのですが、特に変わることはなく地域の声を聞かない小学校なんだな、と諦め状態です。
女の子の声は兵器レベルです。人の心を蝕みます。
一日も早く大きくなることを願いながらの毎日です。
読んで頂きありがとうございました。
コメントどうもありがとうございます。
心中お察しいたします。
「毎日奇声を聞かされることは拷問」という点については、大きく理解させていただくところです。
ただでさえ辟易するのに、改善されていく見込みがないと思ったりするたびにさらに心は蝕まれてしまうと思います。
さて、奇声を発する側の自己保身による感覚的な意見もあるでしょうが、敷地内であってもそこから生じる音が「受忍限度」を超えれば訴訟すら可能となります。
本来は「社会においても容認されているようなことでもない」という点もあるという感じです。
一応騒音については別投稿で触れていますが、居住エリアに応じた音量の上限を超える騒音であるかどうか、という点、そして「一過性のものではなく継続したものかどうか」という点や、軽減させる手段や代替手段があるのかどうか、という「回避可能性」などにより、民事的な賠償責任が生じることもあります。
子供の奇声は、工事などのように回避の面である程度致し方ないものというわけでもありませんし、遊ぶ場所や手段としても代替手段はたくさんあります(だからといって奇声を発することを良しとしているわけではありません)。
ただ、考え方によってはそうした子どもも一種の被害者です。
奇声問題は居直りをする「教育をする側の大人」の問題です(問題であると気づいていないだけかもしれませんが)。
なので、世間一般の子どもたちはもちろん、その子にも可能な限り慈悲の気持ちを持ってあげていただければと思います。
こんにちは。またお邪魔させて頂きました。bossu様の本文、コメント返信を見返す度に何度も頷き、なぜ被害を受けている者がこんなに苦しまなければいけないのかと思う日々です。
こちらのことに限って言えば、保育園経営者と言うのは知能の足りない金儲け主義者なのだと感じます。そこに通う保護者然り、何が悪いのかもわからない反省もしない、自身を顧みることはしない種族なのだと感じます。
前回bossu様より返信頂きました”一番効きそうな切り口”、探っていきたいと思います。これらと関わらざるを得なくなり、時間を搾り取られるのも非常に嫌ではありますが。黙っていても改善されることは絶対無いですし、自分の命を削られていくばかりですので。事なかれ主義と言うのも結局相手にとって良いだけだと思いますし。話がわからない相手と言うのは本当に疲れます。それが『保育』を生業にしているのですから…。
またとりとめも無い愚痴を申し訳ありません。
自分の気持ちを強く持つ為にも書かせて頂きました。
再度コメントどうもありがとうございます。
話が通じないという場合、居直りという場合もありますが、本当に本質的に何が問題点かということがわかっていないという場合もあります。
どういう点が問題なのかということがわかっていない場合、前提となるイメージ、概念が欠落しているケースがあるので、似たようなことを提示して伝えていきます。
個人的には近くの保育園の方に、「どうしても感情が…」というような言い訳をされたので、「感情が昂ぶったら、何をしてもいいんでしょうか?」というようなことを相手の耳元に向かって大声で伝えたことがあります。
「奇声を発してしまう」という瞬間的な出来事に関しては致し方ない面はあるでしょう。
しかしながら、大人側にそれを何とかしていこうという「動機」がないということは問題であると考えています。
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「話がわからない相手」を相手にすることを遊び的な楽しみにするくらいの感覚で、より良い方法を探ってみてください。
先日はコメントへのお返事ありがとうございました!
奇声とは違うのですが、先日買い物中に夫婦と3歳くらいの女児がいて、その女の子が何かわがままを言ったのかはわかりませんが、母親がいきなり店の売り物(ファイルのような物)で顔を思い切り3発くらい引っ叩いて泣かせていました。頭ではなく顔を正面からです。父親はそれを見て笑っているだけでした。
いくらなんでもそれは酷過ぎるだろうと自分はスーパーサイヤ人状態になり、「オイ!寄せ!!」とキレそうになりましたが、結局は堪えてしまいました。その母親にはしばらくガンを飛ばしました。(控え目に見てもかなり頭の悪そうな人相でした)
これって一歩間違えれば虐待ではないのでしょうか?家ではもっと酷い扱いをされてるのではと帰ってからも気分が悪くなりました。bossuさんならやはりこの場面で親に注意をしますでしょうか? ご意見いただけたら幸いです。
コメントどうもありがとうございます。
基本的には口頭で、致し方ない場合はおしりを叩く程度で注意するのが一般的な対応だと思います。ただ、突発的に対象部位が頭や顔になってしまうことは、緊急性や深刻性、親の側の状態等、状況に応じてあり得ることだとは思いますし、ある程度は仕方ない面もあると思います。
しかしながら、今回のお話の内容としては、親の人格に問題があると思います。少なくとも笑うようなことではないですね。
子どもの尊厳を尊重しないということは虐待です。
代替手段がある中で尊厳を踏みにじるようなことをするのはダメですね。
ただ、親にとっかかりその場で何かしらの収まりを見せたとしても、帰ってからも親子関係は続きます。
なので、その場で相手の表面的な反省があっても、根本問題は解決しないという厄介さがあります。
自分自身の感情を落ち着けるためという目的ではなく、子の安全や尊厳を保つということが最優先になるべきです。ということで、なるべく理性的に対応するのが望ましいと考えます。
いわばその家庭にとっての外野である者がその場だけ救っても、その時の腹いせを帰ってから家庭で行う可能性もあります。
その場の状況にもよりますが、ひとまず尊厳を大切にすることと、笑うことではない旨を伝えるような気もします。
これも相手のレベルによると思います。
親を圧倒する必要がありますので、自己正当化を行えないほどの気迫で迫る必要があります。
恐かったら警察に電話すればよいと思いますよ。
ひどい場合はそのまま児童相談所にも連絡が行くと思いますので、多少の牽制にはなると思います。
その後の家庭での日常等、こうした場合の対応についての最適な方法は、専門分野の人たちの方が考え尽くされていると思いますので、児童相談所虐待対応ダイヤル「189」関連にお問い合わせいただくと良いのではないかと思います。
大変ご丁寧なお返事ありがとうございます。
今回のケースの場合、お店の中とゆう他者が見ているかもしれない中で躾けとは程遠く感じる親のそのような行為を目の当たりにし、家庭でも子供の尊厳を踏みにじるような事が平気で行われているのではないかと危機感を感じご相談させていただきました。
>自分自身の感情を落ち着けるためという目的ではなく、子の安全や尊厳を保つということが最優先になるべきです。
確かに仰るとうりです。大変勉強になりました。
今後もこのような場面に遭遇する可能性はありますので、警察なり、児童相談所への相談も検討します。
今回はありがとうございました!