中学校に上がる時、他の小学校からやってきたメンバーなどおらず、自分がいた小学校のメンバーだけのまま中学生になっていたらきっと「自作すごろく」のメンバーたちと一緒にシミュレーションゲームなどを開発していたんだろうなぁと思うことがあります(眠る感覚との再会)。
そこには人と人との仲を保ち、膨らませる共同創造の要素があるからです。
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僕の友人の一人に、婚姻直前で婚約破棄ということが数回、その後見合いなどをするも数ヶ月で破綻ということを繰り返していた人がいます。
また、「実質上破綻している夫婦の方が円満な夫婦を遥かに凌ぐ数になる」ということは想像に容易いという感じになっています。
その一方、藤子不二雄ご両名のように何十年もコンビでい続けられる方々もいます。
人と人との仲を考える上で、何が違うのかというところを観察した時に、見えてくるのは共同創造という要素です。
2名以上の関係上、共同で新しい経験を生み出すという要素がなければ、いずれジリ貧になり破綻し、時に憎悪の対象にすらなるということになっています。
人は、基本的には「野放しにしていると暇という焦燥感や倦怠感が生まれる状態」にあります。
そんな中、各々は
「新しい世界、知らない世界を見たい」
というような気持ちを秘めています。
経験の情報の交換
なぜ最初のうちは仲が成り立つのかと言うと、お互いに「あまりよく知らない人」なので、それまでの経験を会話によって交換することができるというところから来ています。
つまり、一応自分の知らないような世界を「過去から引っ張ってくる形」で聞かせてくれる存在になるわけです。経験の情報の交換という形で会話が成り立ち、仲が成り立ちます。
しかしながら、そうした経験の情報の交換は必ず枯渇します。興味関心をそそるような話は初期に消費され、その後、二番手三番手の話も消費され、供給が間に合わないからです。
同じ空間にいる時間の長さ
長い時間同じ空間にいるのであればさらに枯渇具合は激しくなります。
「一緒にいるけど会話がない」
という場合は、「情報の交換」というものだけをベースにしているから起こるという感じになっています。
「今日あったことを話す」
というのはいいですが、面白みがあったり、新奇性のあるようなものはそれほど毎日は起こりません。
ということで、最初のうちは新しい世界に誘ってくれる存在として面白みも感じますが、どんどんおもしろくなくなってきます。
共有している情報のギャップが縮まっていくといような感じになればなるほどつまらなくなります。
映画でも小説でもマンガでも知っているような話の流れのニオイがすると面白みは無くなってきます。音楽についても同様でしょう。しかし、「斬新だなぁ」と思うようなものには興味が続くわけです。
そういうわけなので、ただ単に過去をベースとした経験を語るのみでは「飽きが来る」という感じの構造になっています。
そして、それを回避するのが共同創造です。
共同創造が親友を作る
浅い付き合いの集まりに参加し、「はじめまして」「さようなら」ということを繰り返している人もいますが、これはつまり、細かいピッチで「自分の知らない世界」の上澄みを情報収集し、楽しみを保っているという感じになるのでしょう。
それはそれでいいですが、当然ながら深い仲は生じません。
深い仲を生み出すものは「二人以上でお互いが知らない世界を共同創造すること」にあります。
ある程度の期間共に過ごしたというだけでは生まれません。もちろん新生活における雑務的なことでも新しい経験には違いないので、多少の共同創造の要素はあります。なのでその分は深い仲に寄与します。
入学、入社、新婚の新生活、転勤初日などなど、新しい環境になったときには、誰かと何かの作業をするということは起こります。しかしそれらには多少なりとも義務的な要素があるため、純粋に共同で想像したものではありません。
もちろん「やっておかねばならない」という義務的なものであっても、多少の創造性、新規経験という感じの部分があるので、それをきっかけとして仲良くなるということはよくあります。学校生活等々ではありがちです。
ただ、「すごく深い仲」には、義務の要素のない共同創造が必要になってきます。
「どうしてあんなに仲良かったのに今はそうでもないのだろう?」
とか
「あれ程燃え上がっていたのに、今はなんだ…何だこの有様は…」
ということが起こっているのであれば、それは、既に情報の交換という要素が枯渇し、義務感のない共同創造によって「新しい世界を見る」という要素も能動的には行っていないということになるのでしょう。
もちろん相手も相手で環境の変化により、「重要なもの」とか「興味があるもの」が変化して、「自分と相手が生み出せる性質のもの」以外に関心が向いているという場合もあります。それは自分についてでも同様です。
制度によって結び付けられている仲
世の中には友情とはまた異なった「別の目的」で結び付けられている間柄がたくさんあります。そういうわけで制度や社会の合理性によって「一応一緒にいる人達」がたくさんいます。
同じ会社、同じ学校という場合における、同僚や同級生もそうですが、家族関係上の合理性から制度のうちにあるものとしては夫婦等々もそれに該当します。
「個別に約束したりしないと会うこともない」という友達の場合は、制度等々によって結び付けられているものではないので純粋な友達です。
そんな純粋な友達と、なぜいつまでも友達なのかということを考えれば、幼心とも取れる共同創造性が見えてきます。
幼き日の遊びの共同創造性
共同創造と言ってもそれほど難しいことではありません。
「その人がいたからこそ見えた」というような要素があればそれはすべて共同創造の要素となりえます。何も共同で作品を描いたり、製品を開発するということにはとどまりません。
それは誰かが「おい、あっちの方に行ってみよう」と言ったから行った、というようなものも含まれるわけです。友達がいたから勇気が出たということでもいいでしょう。
そんな中、遊びを共に作り出すというようなことがあれば、共に創造し、共に遊び、共に新しい経験をしたのだから、もっと仲が深まるわけです。
「一人では経験し得なかったこと」という要素、「共に作り出した」という要素があれば、情報の交換という「消費によるジリ貧」は生まれず、情報を生み出すということにすらなります。
考えれば仲の良い友人たちは皆自転車やバイク等々で冒険した仲間だったり、バンド仲間だったりするわけです。
別に自転車で旅することに何か生産性があるわけではなく、義務のようなものもありません。
だからこそ面白いという部分があるわけです。
一緒に峠を登っている最中「アントニオ猪木氏調に励まし合う」ということは、まさに「君がいたから」というような要素で溢れています。
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というようなことでなくとも、例えば旅先にて、相手が急にしゃがんで花を見つめていたとしましょう。
「何をそんなに見惚れているのかね?」
と、一緒に覗き込んだとすれば、その絵は自分ひとりでは見逃してしまったであろう景色となります。
それ自体に「意味の外にある意味」があり、それに意味を求めることは野暮というものでしょう。
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「おい、あっちの方に行ってみよう」
をさなき心を肯け給はんや。
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