「コギト エルゴ スム」と「意」

胡散臭いコンサルに「好きな言葉はなんですか?」と聞いた時に、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」が出てきました。「コギト エルゴ スム」というものです。

方法序説に出てくるものですが、本来「コギト エルゴ スム」は「私は考える、だから私はある」の方が適切な訳だとか聞きますね。

十代の頃に同じようなことを考えていたのですが、昔々にデカルトくんが言っていたようです。ちなみにコギト エルゴ スムは、単に「コギト」と言われる時もあります。

コギトエルゴスムの概要

コギトエルゴスム(cogito ergo sum)の概要としては、なんだか禅問答みたいですが、割り箸を半分に折っても割り箸で、さらに粉にした時はどうですか、というようなことで(これはプラトンさんとかソシュールくんの方ですが)、目をなくしても、鼻をなくしても、五感を全てなくしても、結局「考えている自分」というものから「自分」というものは切り離せない、というようなことです。

すべてを疑う「懐疑」を指針とし、自分の存在性を疑っている自分、つまり、考えている自分だけは実在するとする感じです。

「自分の実在を疑う『思考をしている自分』とは切り離せない」というイメージでしょう。

そういうわけで「我が思うこと、我が考えること、これをもって自分の実在、自分の本質を確認する」というようなものがコギトエルゴスムです。

なお、コギトエルゴスム(cogito ergo sum)は、フランスの哲学者ルネ・デカルト(René Descartes、1596年- 1650年)がその著「方法序説(Discours de la méthode)」の中で提唱した概念であり、元々はフランス語で「Je pense, donc je suis」と表現していました。「cogito ergo sum」が一般的ですが、これはラテン語訳の表現になります。

「われ思う、ゆえにわれあり」という日本語表現が有名ですが、原意を考えると「われ考える、われある」の方が適切です。

日本語的な発想ですが「思う」と「考える」には若干のニュアンスの違いがありますので要注意です。また考えていることと「在る」ことは同時性があると考えられていたため、デカルト本人もスピノザもカントも「三段論法的な『ゆえに』は必要なのか?」という感じで考えていたようです。が、根本的に「それが実在とイコールになるのか?」とか「実在という概念自体が一体どういうことなんだ?」という部分については曖昧です。

イデア論の自分版

プラトンのイデア論の自分版みたいなもので、対象の本質とは何かということを考えていった先にたどり着くイメージと言うような感じです。

ちなみにイデア論の場合は、物の本質としてイデアという無形の本質イメージがあるというような感じです。しかしながら、割り箸を半分に割って一本になった場合は、「割り箸の片割れ」として考えることもできますが、見方によればただの棒です。

そうした感じで、さらに割り箸を細かく切っていった場合は割り箸という概念は消えます。

一方、生のりんごも絵に書いてあるりんごも「りんご」です。

また、りんごを半分に切ってもりんごです。

そのような感じで、割り箸やりんごを「割り箸とは何だろう?」「りんごとは何だろう?」と考えていった先にあるものは単なる抽象的な概念でありイメージだ、というのがイデア論です。

なお、ソシュールはそれの言語版です。「りんご」と言ってもWindowsとMacintoshが並んでいる時に発する「りんご」という言葉はMacintoshを指したりしますからね。

対象が「我」 われ思う、ゆえにわれあり

そのような感じで対象を「自分」、つまり「我」にしたのがコギトエルゴスムです。

自分とは何かということを考えた場合に、「手がなくても、生きていける、足がなくなっても、目が見えなくなっても、一応自分という同一性は保たれる。しかしながら、考えている自分(思う自分)と自分は切り離せない、だから自分の本質は考えること、思うことである。この部分が自分の本質だ」

これが「われ思う、ゆえにわれあり」です。

普通に考えていって、思考による推論のたどり着く先は、確かにその程度でしょう。

胡散臭いコンサルが言いたかったことは、どういうポイントだったのでしょうか。

どちらかというと「思考は現実化する」で有名なナポレオンヒル系と結びつけたかったのだろうと思いますが、コギトには穴があります。

思っていても、考えていても、それは「ある」とは別のものです。

コギトエルゴスムの主張である「我思う故に我あり」、正確には「私は考える、だから私はある」という発想は、考えている自分自体を否定することはできないということを根拠に、意識の実体を認めさせようとしています。これは、虚像であるアイツこと自我がその実体を肯定させるために行っている働きです。

「存在する」「ある」とは

どうしても「存在する」という概念の定義が曖昧なので、そうなってしまうのだとは思いますが、少し考えてみましょう。

思っているのも、考えているのも、状態にしかすぎません。

例えば、ハードディスクに入っている画像データは、存在しているのでしょうか。

あくまで、ハードディスクの中の状態にしかすぎません。

パソコンというハードにつないで、電源を供給して、OSなどによる処理によってモニタという外部装置に映し出されるだけです。

画像データは「記憶」にあたるのかもしれませんが、考えというのも、内部データの自動の演算にしか過ぎないと思います。

そこに何かは「存在」しているのでしょうか。

「私は考えている」という状態が「起こっている」の方が本来は適切なのです。

しかしながら、「誰が操作しているんだろう」ということで神仏の存在を想定するのは、早急すぎます。

非常にわかりにくいですが、五感の情報は外からの情報を感知する機能によって意図とは別に、感じてしまいます。

じゃあ自分が考えているというのは外の現象に左右されていないのかというと、それもすべて外部の情報に依存してしまいます。

記憶も癖も考え方のパターンも「何もないところからいきなり現れたもの」というのは考え難いと思います。

教育や他とのコミュニケーションによらず、本能としてあらかじめ組み込まれていたとしても、自分が作り上げたものではありません。

外部情報によって自動発生している

じゃあ「私の考え」とは、一体なんなのでしょうか。

「私は考えている」というのも、もっと適切に言えば「考えさせられている」とも言えますし、「外からの情報によって自動発生している」とも言えます。

「心」という言葉は、コギトエルゴスムのように意識とイコールで考えられることがありますが、心自体は「認識する働き」であると捉えておきましょう。

我思う、我考える、というところまではいいですが、「だから私はある」ということにはなりません。

なぜなら、外部情報によって自動発生している情報を受け取っているだけだからです。

外部情報によって自動発生している思考の回転や思考の反応による感情を受け取っているということと、「我思う、我考える」と「私は『存在』する」ということはイコールでは繋がりません。

情報演算の発端

外部情報によって自動発生しているといっても、外の現象(―による情報)の出発点が「人間より上位の存在」というのは、妄想の域を出ません。

「作らなければ生まれない、だから作った存在がいる」と言われても、その証明はできません。

「わからない」というしかありません。

それを勝手に定義して、「僕はそれと交信する術を知っている」とか「拝めば病気が治る」というのは、全てオカルトの妄想にしか過ぎないと言ってもいいでしょう。

ただ、そういう人たちの言うことが全て妄言かといえば、そうでもないところがあるので、色々な人が混乱しているように感じます。

雲は自分の力、自分の意志で姿かたちを変えているのではなく、太陽や山、風、もっと言えば地球の回転具合など、周りの環境の影響で自動でその時最適化された状態になっています。

人格神的なものを想定するより、ただ単に「自然にそうなだけ」であり、自然の流れだと認識しておくに越したことはないでしょう。

認識

ありのままを語れば、「人生はフルオートマ」というのが事実でしょう。

人生どころか、すべてがフルオートマですが、認識できる範囲で考えれば「人生」としか言えないのかもしれません。

認識できる範囲が「この世の全て」です。

この世のすべてが自分以外のものから成り立っているわけではなくて、自分というものも含めて、成り立っています。

かなりわかりにくいですが、その自分というものも構成パーツの一つであって、でも、認識できる間口はそこしかなく、認識できる範囲でしか世界は展開せず現象としても起こりえない。

構成パーツの一つとも言えますが、世の全てだとも言えてしまいます。

「外部(自分以外の第三者目線)」から「世界の存在と現象」を捉えようが、「自分目線」で捉えようが、それは変わりありません。

この瞬間の状態

「地獄」や「死後の世界」などといったところで、存在自体していません。客観的に存在しているというものは証明しようがありませんし、無いとも証明できません。

ただ、「今この瞬間」に存在しているわけではなく、存在しているというよりもそうした情報の状態が起こっていて、今この瞬間にそれを認識し心が受け取っているという感じです。

そういうわけで、あくまでそんなことを言う人の頭の中での話で「実体」はありません。

現象として、頭の中で現象化することはできますが、「見てきた。聞いてきた」といっても、それは情報です。

現象であり、状態です。実体はありません。

心とは意識と混同されがちですが、厳密には何かを受け取る働きだと考えられます。

心がそうした情報状態をただ受け取っているということです。

思い悩んでも仕方ないというのはこういうことかもしれません。

思い悩んでも、それはただの映画の中の現象と変わりない、五感と思考をフル動員した、「ただの演出」かもしれません。

すべてが諸行無常であり、一過性の現象だとすれば、「私」も「五感と思考」も実体はありません。所詮因縁の中で「今形成されているもの」といった程度だという感じです。

「私」が「思った」ところで「ある」ということにはなりません。

「ああ、今、俺、思ってるなぁ。なんか今楽しいなぁ」

というだけです。

心とは何か

Category:philosophy 哲学

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