思い返すと何人かの女性に「あなたは駆け引きもできない」と言われたことがあります。
駆け引きができるとかできないとかそうした問題ではなくて、そうしたものをしたくないんです。コロコロコミック育ちですからね。
そうした観念がある事自体が息苦しいんです。
とりわけ、異性間の付き合いであったり、友達関係であったりにそんなものを持ち込もうという考え自体が貧しすぎます。
裁判や商談ではありません。いや、それらでも相手がよほどの悪人でもない限り、駆け引きなんてなものは要りません。
そして、僕に「あなたは駆け引きもできない」といってきた人たちは、「来年には結婚する」と10年以上言い続けながらやはり現役でそれが叶っていません。
生きていくには駆け引きというものが必要であると思っていて、さらに「あなたは駆け引きもできない」などど人に言うから、誰にも本気で相手にされないという事実が見えていません。
単純に考えると、駆け引きが云々なんてことを言っている人とは家族になんてなりたくないんです。
常に駆け引きが必要ということになれば、安心できる場所がないということになりますから。
自分も一緒にいたくないですし、増して自分の子を育ててほしいなんてなことは微塵も思いません。
自分たちはうまく生きているつもりです。
確かに時折目の前の一万円は得しているかもしれませんが、金銭換算できない大きなものを逃しています。
お得意の「駆け引き」で、目の前の「ちょっとした得」や「損の回避」は叶えていますが、金銭換算できないような無形の財産を逃しています。
そうした人たちは、「カマをかけてみた」とかそうしたことを平気で言います。
本人はうまくやっているつもりです。賢く生きているつもりです。
でも、それを聞いた人は、「自分もカマをかけられたりするのだろうか?」とか「自分も駆け引きされるのだろうか?」ということを思います。
楽しくもなければ安らぎもありません。
それが一過性のゲームであれば楽しみもあるでしょう。
将棋やトランプなどであれば楽しむ要素になるかもしれません。
しかしながら日常にそんなものを持ち込みたくないのです。
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普段、全く駆け引きのようなことがないか、交渉というものはないのか、ということになりますが、一応そんなことはありません。特に会社を経営していますからね。
では、駆け引きが嫌だからと言って相手の要求をそのまま受け入れているのか、ということになります。
しかし、幾多の投稿で触れている通り、そんなことはありません。基本的に去るというか無視するような時もありますし、時にボコボコにします。
基本姿勢は「たられば」で釣ろうとしてくるような人や厚かましい人は無視するというような感じですね。無視するというのは面白いものです。
ジメジメした駆け引き、細かい損得を考えることが面倒なだけです。
潔い感じや真心が好きなんですね。
さて、ほとんど関係ありませんが、そういえば先日、次のような問い合わせが来ました。
単純化すると…
「あなたに依頼する気はありませんが、自分が頼んでいるところが提示してきた金額が相場に合っているかを知っておきたいので、こうした場合はいくらかを教えてください」
面白いのは、明確に「あなたに依頼する気はないのですが」と書いてきたことです。
無視ですね。
ここまでくると無視するということが面白くなってきます。
しかしながら、「依頼するかもしれませんが」という感じでも、それに応じたあっさりした回答しかしません。
「こうしておくと、ちょっとは得するかもしれない」というウジウジした感じが鬱陶しいと思っています。
そういうのはそういうのが好きな人同士でやってください、と思っています。
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端的には、「駆け引きで、ちょっと得してそれがなんですか?」という感じで思っているということになります。
コミュニケーションとしての値引き交渉という茶番のようなものを楽しむというのは構いません。
しかしながら、駆け引きという観念を保持することは、マイナスしかありません。
無駄な条件がつくだけですから。
例えば小学生の頃を思い返すと、誰かを遊びに誘うのに条件など考えたことはありません。説得するにしてもあっさりしたもので何かを守ろうとか、損をしたくないとかそんな思いは微塵もなかったはずです。
それから大きくなって「損をしたくない」とか「不安感を拭いたい」という属性から転じて「駆け引き」という観念が形成されていったということになるのでしょう。
まさに分離、生存本能からの恐怖心、つまり自我の働きそのものです。
その中にいる限り、安心はありません。
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