頬を赤らめる表現で見える空間のパワーバランス

頬を赤らめる表現で見える空間のパワーバランスということで、キャラクター設計や表情の描写のあり方で見える、物理空間と情報空間というコントラストによる社会的なパワーバランスの変化について触れていきます。

アニメキャラクターやゲームキャラクターが猫も杓子も頬を赤らめているという現象は、社会的なパワーバランスの変化を示しているフシがあります。

本当に惚れている、照れているというシーンならばまだしも、常に頬を赤らめていたり、ちょっと感情が動いただけで頬を紅潮させるという表現の乱用は、メリハリのなさによる文化的・芸術的水準の低下を表すと共に、社会的なパワーバランスが変化していることを表すものでもあります。

「頬を赤らめる系」が超一流作品にまで浸透

先日「水木しげる記念館」で「ねこ娘が頬を赤らめている点」についての違和感について触れていましたが、まあドラえもんにしても頬を赤らめ、まさかスネ夫ですら頬を赤らめるような表現になっているとは何とも変な感じです。

スネ夫がナルシストであるという部分の描写においてはそれでもいいですが、頬を赤らめる表現、頬を染める表現が多用され過ぎだろうという違和感があります。

そういえばついこの間、たまたま外食した時のことです。久しぶりに少年ジャンプをチラ見しましたが、裏表紙にあった何かのゲームの広告における美少女系キャラクターを見て、他のものと区別がつかないというような印象を受けました。そうしたものは常に頬が紅潮しているフシがあります。

これはかつて母がユーロビートを「全部一緒に聞こえる」と言ったのと同じ現象です。

あまりよく知りませんが、競走馬の牡馬が何故か学園系美少女キャラになっているということが許容されているということも聞きました。少し狂気を感じます。

まあそれだけ「頬を赤らめる系」の方が主流ということになるのでしょうが、それがかつてからある超一流作品にまで浸透してきているということは、それだけ社会的なパワーバランスが変化しているということを示唆しています。

「内向型対外向型」と「情報空間対物理空間」

何と何のパワーバランスか、ということになりますが、端的には「情報空間における強者であり物理空間における弱者」である、内向性の強い人たちと「物理空間における強者であり情報空間における弱者」である、外向性の強い人たちです。

異性の取り合いということも含めて、人と人とで構成される社会においては、一種の闘争状態というものがどこかしらにあります。

かつてはそうした闘争において「物理空間における強者であり情報空間における弱者」である、外向型の人たちの肉体的な力やエネルギー、外見や対面コミュニケーションなど多岐にわたる物理的な力がモノを言う社会でした。

しかし物理依存した力は、臨場感が強いので一発は強烈ですが、対象の数に限りがあります。

例えば「物理的な攻撃」にしても、殴れる範囲は数人程度までです。一発の攻撃力は強いですが、対象者が少数になるという属性を持っています。

しかしながら「情報空間における強者であり物理空間における弱者」である、内向型の人たちは、インターネット等々で数という武器を手に入れました。

「情報」という臨場感レベルではやや弱い力になりますし、一発の力は弱いですが、対象が何万、何十万という数になるということが可能なフィールドです。

そうして今までは外向型の方が多く力があり、時代の中心となっていたというパワーバランスが、「微力ながら数の多さで領域を広げる」という新しい戦術によってひっくり返ったという感じになるのでしょう。

頬を赤らめる系の表現は、かなり昔からありますが、そうした描写がされるフィールドと言えば、外向性がなく内向的で、モテない代わりに外で遊ばないのでお金があり…という人たちを対象としたような分野でした。

空間バランスの変遷

マンガ・アニメバブル、スーファミ、プレステ、セガサターンの到来と同時にJリーグブームもあったりしたので、小学生当時を思い返すと勝手ながら同世代はバランス型のような気がしますが、個人的にはその後18歳までは、朝まで遊ぶような外向型、それ以降の23歳までは読書ばかりしている内向型といった感じで、大きな揺れを経験しました。

小学生当時、冬生まれの僕にとって運動の分野にはディスアドバンテージがありました。しかし、高学年当時、ゲームが上手いことが一種のモテに繋がるのではないかという淡い期待も生じたようなことを覚えています。

その頃はまだインターネットはマニアの世界であり、まだまだ過渡期という感じでした。

「私も」が爆発する閾値

先日読んだ藤子・F・不二雄氏の作品で、普及率が50%を超えると「私も」が爆発するというようなことがテーマになっている作品がありました。

ということで、そうしたインフラの普及率が全体の半数を超えだすと社会が大きく変化するということになります。

その表れの一つが「頬を赤らめる系の表現」であり、数の力で「普通の基準」を変化させたということになります。その背景には、物理空間の臨場感や重要性が下がり、内向型が外向型を完全に制圧したというものがあるのでしょう。

社会における基準の決定

社会における基準の決定には、「人の意識の向いているところに経済としての場があり、貨幣の交換といった投票行動によって、方向性が決定している」というような構造があります。

モテや肉弾戦などの物理空間では一発で100の力がある人も10人相手にしても1000の力です。

しかし、一発で1の力しか無い人でも対象が1万になれば、1万の力になります。

ただ、社会の流れはどうあれ、経験は個人的なものになるので、1万人の「1」を集めて多少なりの自惚れに浸るよりも、一発で100を叩き出して最愛の人と仲睦まじくなるという物理空間的で臨場感の強い経験の方が良いと思います。

外向型の分野においてもコンパ王的に「コンパでモテていた」ということを誇りにしようが、数値的に見れば「10」の満足を集めているという程度であり、そんなところに行かなくて良いような、行く案すら浮かばないような相手と結ばれているという方が幸せです。100人の浅い友人もどきよりも1人の親友の方が良いのと同じです。

世界中の名作は一生かかっても全てに触れることはできない

表現や描写一つとってもそうした社会の基準が反映されるという感じになりますが、世界中の名作は一生かかっても全てに触れることはできないほどあります。

なので、頬を赤らめさせたければ、そうしてもらっていいのですが、個人的にはそうしたものを多用する作品には、文化的水準の高さを感じないので手に取ることはないでしょう。

かつてからと同様に「勝手にやっておいてください」という感じです。超一流の作品にまで浸透してきたとしても、既に原作者亡き後なので、原作者が存命だった頃の作品の方を手に取るだけで十分ですからね。

Category:miscellaneous notes 雑記

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