隣人の不幸で「心を高める」こと

彼は不幸である。そこで「同情する人々」がやって来て、彼にその不幸を鮮やかに描いて見せる。― とうとう彼らは満足し、心を高めて立ち去る。彼らは自分自身の驚きと同様に不幸な者の驚き楽しみ、すばらしい午後を過ごしたのである。 曙光 224

「隣人の不幸で心を高めること」とは、俗にいう「メシウマ」というものに該当するでしょうか。繰り返すようですが、他人を自分の飯のうまさの条件にしてはいけません。

それは倫理的にいけないというようなことではなく、他人の態度や経験が自分の気分の指針になってしまうからです。

「飯はいつでもうまいほうがいい」ということになります。

「他人の不幸で飯がうまい」ということは、一歩間違えれば「他人の不幸がなければ飯はうまくない」というような構造を作ってしまいます。

同情と自分の気分

それと同様に、同情していては、それも自分の気分が相手の状況によって変わってしまいます。一度同情してみて、どんな気分かということを疑似体験するのはいいですが、すぐにそれから脱却しなければなりません。

相手の気分と自分の気分、相手の状況と自分の状況は関係あるようで全然関係ありません。そうして二元論化していくと、手を差し伸べることは悪いことだ、ということにもなりかねますが、自分の行動と相手の状況とが関係ないのならば、やってもやらなくてもどちらでもかまいません。無属性です。

「やらなければならない」という命令のような属性はありませんが、「やってもいい」という自由選択の属性になっています。

主体と客体によっても変化

ある一つの行動も、解釈によって、良いか悪いかはすぐには決めることができません。確実に良いとされるような「マナー」の類も、良いのかどうかは実際は未確定です。

席を譲ると、譲られて当たり前だという信念が強化され、苦しみが増えるかもしれません(感情とその判断からの由来)。そのように良い悪いは相対的なものです。ある前提、ある解釈から導き出さるものであり、主体と客体によっても変化してしまうという、おぼろげなものです。

宿題が出来上がらないからといって、その焦燥感に同情し、代わりに宿題をやってしまえば、勉強ができないだけでなく、達成感も自立心も奪うことになります。相手はその人の都合で焦っているのだから、自分まで焦る必要はありません。

お母さんに「早く結婚しろ」と言われても、それはお母さんの都合です。お母さんやお母さんの周りの人の考え方の都合の問題ですから、自分は何も関係ありません。

錯覚の中の幻影

関係あるように思ってしまうのは、アイツの仕業によって関連思考が働いているからであり、どこかで同化し、お母さんの状況を自分の気持ちや生き方の条件にしているからかもしれません。それらは本来無関係です。

関係あると思ってしまうのは、錯覚の中にいるからです。それは錯覚の中の幻影に、おばけのようなものに恐がっているだけのこと。

他人の都合などタダの錯覚の中の幻影の中の妄想にしかすぎず、他人すらも幻影のようなものです。

ドラマの中で主人公に罵声を浴びせている登場人物がいても、ただそれをひとつのシーンとして楽しむだけでしょう。それと同じことです。

隣人の不幸で「心を高める」こと 曙光 224

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ