道徳におけるキリスト教的なものの終わり

「憫みによるものでなければ、人は善ではない。したがって、すべてのわれわれの感情の中には、何らかの憫みがなければならない」― 現在道徳はこう思われる!そしてこれはどこに由来するのか?― 同情的な、公平で、公益的で、社会的な行為をする人間が、現在道徳的な人間として感じられていること― これはひょっとするとキリスト教がヨーロッパにもたらした最も一般的な影響であり、心境の変化であろう。 曙光 132 序盤

憫み=「あわれみ」だとは思いますが、またまた難しいのを使いましたね。

さて、「道徳におけるキリスト教的なものの終わり」です。ニーチェ的なキリスト教的な道徳の構造、精神的な作用についてはルサンチマンあたりがわかりやすいかもしれません。

それはさておき、まあ昔からこうした公益性などなどを理由に、そして「公益の範囲」に関する解釈によって、数々の差別が生まれてきたことには注目しておくべきでしょう。キリスト教といえば博愛主義的な印象がありますが、奴隷制度や人種差別はたいていキリスト教圏でよく起こっています。

少し前にちょっとだけ書きましたが、キリスト教的な道徳として、公益の対象となるのは「人間」であり、そうした「人間とはどういった対象を指すのか?」という解釈によって、人種差別などが生まれました。

それならば言いたい放題であり、ご都合解釈のし放題です。

普通に解釈すれば旧約聖書の十戒によって偶像崇拝は禁止されているいるにもかかわらず、イエス像や十字架、場合によってはマリア像を作って拝んでいるというのは完全なる矛盾だと思うのですが、そんなご都合主義なのだから道徳的な分野を含めて「全てにおいてご都合解釈」なのだろうということです。まあそれについてはその人達の世界のことなので、勝手にやっておいてくれという感じで思っています。

そんな感じで反対する解釈が出てくれば「悪魔の意見」だとすればそれでよし、ただ既得権益を守りたいがために、為政者側、資本家側に悪用され続けたと言っても良いでしょう(キリスト教の臨終の床で)。

「私は神の代理人である」なんていい出すと、普通はキチガイ扱いされるのがせいぜいですが、それもまかり通っているところに宗教の狂気があります。「神の代理人であるという証明はどうやって行うのか?」なんてなとこで論理に穴があるはずなのに、なぜか伝統的な雰囲気だけでそれが保たれています。

まあ今回はそれはさておき、カルトの手法などについて書いていきましょう。

カルトの手法

カルトなどにおいては、判断能力自体をコントロールする仕組みが導入され、関連付けによるマインドコントロールが行われるのが常です。

現在のカルトなどでは、洗脳・マインドコントロールにおいて薬物や電気を用いた精神の崩壊の方法が取られている場合もあるということは、90年代に社会的に露見したのでご存じの方も多いと思います。

一方、宗教のトップも薬物漬けであることがよくあります。

ネパールに行ったときに聞いた話ですが、最上ランクにいる「ババ」と呼ばれる人たちは、薬物を国から支給してもらっているというのだから狂気じみています(これで神と交信し、お告げをくださいというようなことのようです)。

儀式による変性意識の生成

ただ、薬物や電気的なマインドコントロールはいかにも危険そうで抵抗感も生まれそうですが、古くから儀式による変性意識の生成でよく催眠によるマインドコントロールが行われていました。

日本の仏教系の一派でも「念仏ジャンキー」の類の宗派があります(「自然音」の礼拝)。

僕から言わせると、「それがどうした」という感じですが、そうした催眠の技法が、長い年月をかけて手探りで生み出されてきたのでしょう。

しかしながら、そんな「アイツ騙し」をしても何の得もありません。

たいていのカルトは、最初、アイツによる煩いを一時的に押さえるような方法で、感情的な歓喜を体験させ、喜ばしい感情と宗教との関連付けを行い、その宗教の内側にいることや儀式の参加などを「幸福の条件」として設定していきます。

ただ、どう考えても「条件」は少ないほうがいいはずです。

しかしながら、餌付けされるのと同じように、どんどんと飼われていくような形になっていきます。

思考とは裏腹の行動

たまーに、頭ではわかっていても、考えていることと違う行動を取る人がいます。

頭のなかでは、「なんかおかしいぞ」と思っていても、何となく行動を取ってしまうというケースです。

DV被害にあっていて辛いはずなのに別れない、というようなケースですね。

客観的に見ると「えー?」と思うような感じの状況にどっぷり浸かっている人がたまにいます。

これはある種完全にマインドコントロールされている状況だと言っても過言ではないでしょう。

相手が相当の策士であることもあるかもしれませんが、経験則上自然にやっていたり、意図ぜず構造的にそういう風になってしまっているという場合もあります。

カルトの場合は、これと同じような形で行っています。

僕は、たまに「危なそうな人」を見かけると、あえて遠隔歯軋りを体験してもらったりしています。

その理由は非常に単純で、「これくらいで驚いてはいけませんよ」という予防接種を行っている、という感じです。

ともすれば、ヨガ教室や座談会みたいな、一見大丈夫そうなところででも、その後に暴走しカルト化することがあります。

そうした時に、何かの拍子で教祖のような人が、「シャクティパット」(笑)のようなことをしても、驚かないようにという感じで予防接種的に遠隔歯軋りを行っています。

道徳におけるキリスト教的なものの終わり 曙光 132

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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