賞讃

賞讃や讃辞という言葉も頻繁に出てくるようになりました。曙光はどうしてもタイトルの似通ったものが多いですね。以前も「改」シリーズを作ったくらいなので構わないのですが、すぐに出てくるところが難題です。まあそんなに頭をひねる必要のあることではありません。

世の中では自己都合のためにということなのか「賞讃」によって他人をより良く働かせようとか気に入られようということをやる人がいます。そうした賞讃や讃辞というのものが相手の承認欲求を満たすとでも言いたげです。

しかしながら、賞讃や「おめでとう」と声をかけられることはよくよく考えてみれば、あまり意味がわからないものだったりします。

よくわからないままに受賞

勤め人の頃、たまに表彰式のようなことをやって「従業員のモチベーション向上を図ろう」ということを会社がやっていました。特に新入社員時代はその手の催しがよくありました。

それはそれでいいのですが、ある時ただの研修というか、役員の講話的なモノを聞くということで、イベント会場に行くように言われたのですが、メインの「ありがたいお話」の手前に、よくわからない表彰式のようなものがありました。

そこで、何故か「成績が管内4位です」みたいなこと言われ、訳もわからず壇上に呼ばれ、記念品を受け取りました。

嬉しい嬉しくない以前に、意味がわかりませんでした。

事前にそういうことをやると言われていたのなら、それを受賞するために奮闘するような人もいたでしょうが、そんなことをやるともやらないとも聞かされていません。

サプライズ的にやったということでしょうか。

いや、困ります。そんなことをやられても何も嬉しくありません。

自分で「今回は入賞するぞ!」と意気込んでいた、というのならばまだわかりますが、「???」しか頭の中に出てきませんでした。

「おめでとう!」

と、かなり上の上司に握手を求められた時は、「おめでとう」という言葉は何のためにあるのかわからなくなりました。

不思議なことに、その時に今まで自分も散々使ってきた「おめでとう」の意味がわからなくなりました。

「おめでとう」の意味がわからない

別にひねくれて言っているわけではありません。

昔から「ひねくれている」とは言われ続けていましたが、天邪鬼的にというわけではなく、その時に、本当に「おめでとう」の意味がわからなくなりました。

それまでは、考えることなくこの言葉を使ってきましたが、いつもの癖です、「一体どういう意味なのか?」ということを考えるということが止まらなくなってしまいました。

深く考えずに、「ご結婚おめでとうございます」などと言っていますが、よくよく考えれば、そんなに無条件に良いことなのか、ということが頭をよぎります。「何がおめでとうなのか?」というようなことです。あくまで捻くれたり、僻んだりとかいうタイプの問いではありません。

例えば、今では少ないとは思いますが「好きな人がいるのに、親に見合いで結婚相手を決められて結婚した」という場合です。

その場合も「おめでとう」なのでしょうか。結婚を決めた親は「めでたい」ですが、本人はめでたくありません。本人の気持ちを知る友人などは、「おめでとう」とは言わないかもしれません。

「おめでとう」には、おそらく「達成記念」というような意味合いはあるのでしょう。おそらく、誰かが「達成したいと思った事柄を達成した」という意味なのでしょう。

誕生日は、本能的に生存欲求の塊である本能が達成したい事柄っぽいですが、それも達成したからといって良い事柄なのでしょうか。それが良い事柄ということになれば達成できない事が悪いことのように感じてしまいます。

「したかったができなかった」という意味合いになります。

しかしその手前には「達成したい」という衝動があるはずです。

今回の表彰式での「おめでとう!」は不意打ちです。

達成したいとも思っていなかったことです。

「せめて4位には、最低でも入賞は」

くらいに思っていたなら、「おめでとう」ですが、むしろそういった競い合いのようなことはやめて欲しいと思っていました。

そこで「おめでとう!」と言われても、リアクションに困ります。

この言葉は闇雲に使ってはいけないのかもしれません。

賞讃 曙光 273

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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