象徴であることを望まない

大物であれ、という不断の強制によって、彼らは結局事実上儀式張った零に等しい者になる。そしてこれが、象徴であることに自分の義務を見出すあらゆる人たちの常である。 曙光 526 後半

今は亡き大物芸人が「いつまでこのキャラ続けなあかんのやろ」と嘆いていたというのは知る人は知る話です。

世の中ではキャラ付いていたほうが、覚えられやすく得をすると思われていますが、そうした場合世間の短期的な暇つぶしの踏み台とされ、消費されてすぐに終わっていきます。

すぐに小学生やB層にマネをされるようなわかりやすいキャラ付けがなされると、その分だけ短期的なウケは良いかもしれませんが、そのキャラ付けが柵となり、一過性の消費物となって終わっていきます。

そして「わかりやすい」ということは一つの側面から見ると優れた要素ですが、逆にマイナス面も持っています。

わかりやすいものとわかりにくいもの

わかりやすいものは深さがない分理解しやすく、わかりにくいものには理解され難いものの深さがあります。

いくら難しいとされるものでも紐解いていくことは可能です。ただ、それらには根本的な国語の理解や単語の理解、そして、前提知識が必要になることもあります。

そうしたものの上でないと理解できない領域があったとしても、その分だけ深みがあり、素人向け、二流向けに大衆化されたものでは満足できなかった人たちが「ようやく見つかった」と歓喜することもあるのです。

それは学問の領域でも芸術の領域でも、ありとあらゆる対象で共通でしょう。

わかりやすさだけを追い求めて、そうした深みに触れることができないのはもったいないと思っています。

印象の殻を破りたくなる

一方作り手側も、その分野である程度の領域にまで達した時、ついてしまった印象の殻を破りたくなることもあると思います。

世間の評価が自分の可能性を縛りだした時、自分が自分ではなくなり、社会の印象に合わせた生き方を強制されるような感覚になるのではないでしょうか。

もしそういう状況にあるのならば、印象の殻を猛烈に破りたくなる瞬間が来るはずです。特に現状の最適化ではなく、進化の方向性を持っている人であればなおさらです。

芸人が「笑い抜きで映画を撮る」というのもその一つの例なのかもしれません。

「カリスマ」などと称され、世間に自分を決められてしまうのが嫌になった時、そうした行動に出るのでしょう。

象徴であることを望まない 曙光 526

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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