豊かさとケチ臭さ

豊かさとケチ臭さについて触れていきましょう。

アフォリズム 108.「大掛かりな施し」にて触れていた、以下のものについてもう少し触れる形で進めていきます。

新約聖書において、「財産を処分して貧しい者に施せ」と言われ、躊躇った者は、「一度失うと、再びは手に入らない」という暗示を自分に与えている。

結構前のことですが、当時某スポーツ選手として活躍していた同級生Aさんのブログに、別の同級生Bさんと記念撮影した写真が掲載されていました(両名とも僕の同級生です)。どうやら道でばったり会ったようでした。

(僕は特にスポーツに興味が無いものの、「その同級生の所属スポーツチームのスポンサー企業の人」と話していると名前が出てきたので少し調べるとブログに当たりました)

その写真に写っていたBさんは、小学生当時成績が一番良い人でしたが、先の記念撮影当時、実年齢+30歳くらいに見えるほど老け込んでいてニート生活を過ごしているようでした。

後に同窓会にてAさんにBさんのことを聞くと、どうやら良い学校に行ってどこぞの地方公務員のお偉いさんコースに行ったものの、職場に馴染めず退職してそれっきり、という感じのようでした。

Bさんは成績が良いのですが、同級生に勉強を教えてくれと言われても一切相手にしない人でした。

それ以外のトップクラスの人たちはみんな同級生に勉強を教えたりしていました。

しかし、トップであるBさんは、親御さんが教員で、「成績=親子の絆」ということになっていたようで、さらに塾通いということもあってか、「自分のために勉強している」とか「お金を払って学んでいる」ということを全面に押し出し、他の人を拒絶するケチ臭さを持っていました。

これは、他の人に教えると相対的な力や評価が縮まり、自分が損をするといったケチ臭さそのものだったような気がします。

こうしたケチ臭さは表面的には「保存」ができますが、豊かさを感じません。

「人に与えると、自分のものが奪われ、自分は損をする」

という貧しさの暗示になります。

といっても、「出してもどこかから返ってくる」というご利益主義のケチ臭い人もいます。

どこかから返ってくるということを意図して人に施すような感じです。

これらは「もともと豊かさを意識しないほど豊かさで満たされている」というものとは別物です。

ちなみに、成績というものは一応良ければ良いほど良いという感じにはなりますが、車の四輪のうちの一つ程度の機能しか持ちえません。

それを四輪ともの価値があるかのように思ってしまうと悲劇が生まれます。とりわけ社会においては、成績そのものではなく「効用」がモノを言います。間接的な信頼性や満足に寄与することはありますが、それそのものは何の役にも立ちません。

こうした豊かさとケチ臭さの関係においては、「実際に同級生に教える」という行動の方が重要というわけでもありません。

そうした行動を取れば取るほど豊かになるという面もありますが、それ以上に意識の向きが大切です。

何かの補償行為としてやる分には、取る行動は同じでも意識の向きが貧しさの方を向いています。

「必要な分は勝手に入ってくる」

そんなことを普段から思っていると、必要な分は勝手に入ってきます。

保存に走ることもなくケチ臭い意識は生まれません。

かといって、「では私に施しを」という相手の要望に合わせていると、時に相手の堕落を生みます。

能動的に「乞う」ということは「必要な分は『勝手』に入ってくる」という意識がないという場合があります。

そうしたものに合わせていると

「必要な分は勝手に入ってくる」

という豊かさの意識の向きを奪うことにもなりかねません。

なので、それすら「自動でなるようになる」と思って手放すくらいがちょうど良いという感じになります。

Category:miscellaneous notes 雑記

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