誘惑者

正直はあらゆる狂信者たちの偉大な誘惑者である。悪魔の姿もしくは美しい女性の姿をしてルターに接近するように思われ、ルターがあのような無作法な仕方で自分を守るために防いだものはおそらく正直であったのであり、しかもひょっとすると、一層珍しい場合ではあるが、真理でさえあったであろう。 曙光 511

誘惑者ということで、キレイになろうとするような人について触れていきましょう。美貌こそが誘惑の武器であると思っている人たちです。

エステ経営者に聞いたことがあるのですが、美しくなろうという動機は同じであるものの、すごい恐怖心のもと「キレイを維持しなければならない」と思っている女性が多いそうです。

「自分にはそれしかない」

という感じで、キレイを維持しなければ、人生が狂うとすら思っている人たちが多いそうです。

まあ顧客の年齢層を聞くとやはりバブル世代なんかには多いようですが、そうした誘惑者的で蠱惑的な「お得感」を味わいすぎたために、逆に「キレイでなければ相手にされない」という恐怖心を持ってしまったのだと思います。

しかしそんな人達が誘惑者となり、モッガラーナに接近すると、「皮膚でつなぎ合わせた糞袋よ。胸に潰瘍をもつ魔女よ。 そなたの身体には、九つの孔から流出する流れがあり、 常に液汁が流れ出ている。 糞尿にさえられている者よ。そなたの身体には、九つの孔から流出する流れがあり、異臭を放っている。清らかなることを求める修行僧は、それを避ける。─排泄物を避けるように」と言われてしまうでしょう。

そのような美貌を持って誘惑しようとしても、シッダルタには「われは、昔さとりを開こうとした時に、愛執と嫌悪と貪欲という三人の魔女を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。糞尿に満ちたこの女がそもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ」と言われてしまいます。

実際僕の友人のお母さんたちは、こぞって「お母さん」という感じであり、いわゆる美魔女みたいなのを目指している人たちは皆無でした。

家に遊びに行ってもすっぴんでしたし、授業参観なんかで化粧をしてくると「今日のおばちゃん、なんか変」みたいな感じで、各人が冷やかされるほどでした。

ただもう少し下の世代のお母さんたちとなると、バブル世代などになってきますから少し変わってきます。

案外昔からそこそこ都市部であった地域では、美魔女を目指そうみたいな人は少なく、少し郊外の切り開かれた新興住宅地で、かつ、バブル世代が住み着いたような土地は、美魔女を目指したりする人が多いような印象があります。

誘惑者たる人たち

手弱女の対極にある、そうした誘惑者たる人たちは、若いときに「可愛くさえしていればいい」ということを成功の条件としてしまっていたため、言い寄ってくる人たちに車で送り迎えをさせたり、メシ代を出させるということが当然となっており、事実そうしてきたのだから、本人には何も実力がない、というのが一般的でしょう。

嬌態を極めることで釣った「誘惑して寄ってくる人」たちに、お金も労力も費やさせてきたのだから、本人には蠱惑的な「美しさ」以外に武器となるようなスキルはついていないはずです。

そういう人たちは、どうしても「キレイを維持しなければならない」と思っています。それしか、自分の成功パターンにおける武器がないからです。

ついでにいうと「キレイ」以外にも、客観的にわかりやすいスペックのようなものにしがみつきます。旦那の職業だったり、子供が行く学校などです。

誘惑して愛させる

ヒエラルキーなどない

そういうわかりやすいものでしか、世の中を見てきてこなかったのだから、当然にそうなります。

以前、たまたま来賓で参加した会合で、僕よりもずっと若いベンチャー社長が語っていたのですが、「学校の中にもヒエラルキーがあって…」というような感じで、小学校の中、同級生の中でも上下関係があるというような話をしていました。

でも、僕の印象としては、学校の中、とりわけ小学生の時なんかは、そんなヒエラルキーを一切感じたことはありませんでした。

数は多かったですが、「全員が友達」という感じです。

もちろん勉強ができるやつは、みんなに勉強を教え、サッカーが上手いやつはサッカーの師匠のようになり、根暗そうなやつも、意外とマンガ絵がうまくて人気ものになったり、ゲームが上手いやつは、完全に神格化です。

それぞれの良いところを自然に評価していたと思います。そもそも人を何かの尺度で評価して「優劣をつける」というような感じはありませんでした。

しかし、世間的にわかりやすいスペックのようなもの、つまりテストの点であったり、その後に進学する学校であったりというようなものだけを物差しにしてしまった場合、各人が持つ魅力は「常識」のフィルターのために見えなくなってしまいます。

キレイというものだけが自分の魅力だなんて思っていると、そういうわかりやすいものしか見えなくなってしまいます。

そんな人に育てられるという家庭環境で育ってしまうと、ヒエラルキーの呪縛、さらなる錯覚の色眼鏡で世の中を見てしまうようになるでしょう。

そのベンチャー社長の講演中

「そんな環境で育ったのかぁ、ちょっとかわいそうだなぁ」

なんてな感想を持ちました。

あとで聞いてみると、本当に予測通りの環境だったようです。

別にエステにいくのもキレイになろうとするのも、それ自体はいいですが、変な恐怖心をもってしまうと、周りの人に偏見を植え付けるだけになってしまうことにもなり、自分自身も延々と恐怖心に苛まれることになりかねません。

女ぎらい

誘惑者 曙光 511

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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