記号としての役割しか持たない人たちと社会的監視機能

洗脳やマインドコントロールについて触れたり、消費社会について思索を巡らしてみたり、面白い映画とあまり面白くない映画の違いを考えてみたり、「手塚治虫のブッダ」の原作と劇場版の違いに遺憾の念を持ったりという感じで過ごしていると、記号としての役割しか持たない人たち、「入れ替え可能なキャラクターとしての立ち位置」について思いが巡ってきました。

そのような感じで「記号としての役割しか持たない人たち」と「社会的監視機能」についてふと考えました。

たまにコンビニに行くのですが、そこでのレジ担当の人は本質的には違ったとしても組織からは「入れ替え可能な備品」として扱われている感があります。ただ単に機械との代替が利かないからこそ人が担当しているという感じなだけで、役割としては自動販売機のシステムと変わりなく、単に自動販売機で扱うにはまだ採算の問題などで機械化が進んでいないからこそ人が担当しているような雰囲気があります。

もちろん人の人との関わり合いが売上の変動をもたらすという面があるので、商いの本質としてそれは違うのですが、おそらくそうした扱われ方をされている面も否めないと言う感じです。

人によっては店員さんへの会いたさ故に来店しているという場合もあるでしょう。それがスケベ心なのか、単なるコミュニケーションを求めてなのかという違いは千差万別ですが、少なくとも人が接客している限りそうした要素が店舗の経営に影響を与えているはずです。

しかし、「発想が予算制の公務員的な人たち」で触れていますが、そのタイプの人たちは「お客の数は一定である」という発想を持っており、まさにあとはどうコストを掛けずにそれを為すかということを考えているはずです。

そうなると当然に店員さんは単なるパーツ、歯車でしかなく、「その人でなければならない」とか、「その人であるからこそ」といった要素は排除され、入れ替え可能な存在として、入れ替え可能な記号としての役割しか持たない状態になります。

本当のことを言うと、店員さんが「陰気臭い人ばかりか」、「明るく愛想の人ばかりか」といった点が売上に大きな影響を与えるので、コンビニのレジ担当の人も記号としてのパーツとしての意味以上に重要な役割を担っているはずですが、社会においてはほとんど入れ替え可能な存在として扱われているのが実情と言ったところでしょう。

主役はイベントであって、
人は記号にしかすぎないという状態

コンビニの例を見ても、主役はコンビニエンスストアが展開する小売サービスなどであって、人は入れ替え可能な記号にしかすぎないという構造を持っています。

昔の小売商店などであれば、店主や女将さんの人格がその店の何たるかを示していたような感じがしますが、全てが「合理化」されていくと、そうした要素は無駄な要素として扱われていきました。そして、必須の要素である「業務」のみを「いかに安価に処理していくか」というような方針に変わってきました。

そうなると、人は単に業務を処理する「代替可能な記号」にしかすぎなくなっていきます。それが進むと機械が代替手段として実用化されていくに従い、仕事として成り立たなくなっていくでしょう。

例えば洋服屋さんで「お客が自分で服を選んでそれを決済する」と言う部分しか業務がないのであれば、人は単なる「自販機代わり」としての機能しかありません。しかし、「その人に似合う服」を選び提案するということも業務であるのならば、今のところ機械が代わりにこなすことはできません。

しかしもしAIが発達し、その人を360度カメラで捉えながら最適な服を提案していくということも可能になるかもしれません。時代のトレンドなどもデータ解析してピッタリのものを選んでいくということもできるかもしれません。これが「機械が代替手段として実用化されていく」ということの例になります。

そうなると「人は仕事を失うのか」と思う人もいるかもしれませんが、「合理化や最適化が機械にできる限界」でも触れていたように、あくまで機械ができることは現状の最適化であり、その人の未来を想像した上での提案はおそらくすることができません。そして、その人自身が気づいてもいないような隠れたニーズがあることを見抜いて提案するという高度な熟練技術は、今のところ機械で代替するということは難しいと思います。

ただ、「その店員さんが好きでたまらない」とか、「その店員さんのセンスにインスピレーションをもらいたい」といった感覚的な部分は、対人コミュニケーションという理屈上、機械が代わりにこなせるようになることはないでしょう。

社会的監視機能

さて、そうした業務の合理化についてですが、それはそれで一つの方向性として良い部分もあるものの、「合理化によって削ぎ落としたからこそ補わなければならないポイント」も出てきたような感じがします。

僕が小学生の頃は近くにもたくさんの小売商店がありました。店にいる人は同じ人、それも幼少期から知っている人、さらにいうと毎日のように顔を合わせる人たちです。

そうした店主、店員の人たちが毎日店先にいたということが、一種の治安維持のような役割を持っていたような感があります。

合理化が疑心暗鬼と不安をもたらす

それら商店の数は減り、大型スーパーやコンビニが「買い物先」にはなりましたが、どうしてもそうした店舗の店員さんは知らない人たちであり、人の入れ替わりもよくあります。

京都であれば大学が多いので、コンビニ店員さんは大学生の方が多く、そうした人たちは概ね最長4年で入れ替わっていきます。

そうなると、その店の店員さんはまた見ず知らずの人になっていきます。

「小さなお店」がたくさんあり、そこで働く人たちはほとんど一緒であった時代であれば行き届いていたであろう「社会的監視」のような機能が無くなっていきました。

毎日同じ人が同じ街を眺めるため、変化があればすぐに察知することもできますし、道行く子供もどこの誰かということすら知っているレベルのコミュニティが形成されていたわけです。

それが合理化によって消え、表現は悪いですが、むしろそうしたエリアの構成員が常に「得体の知れない人たち」に入れ替わっていくという構造を持っています。

社会的監視機能と社会的総コスト

子供が集まる駄菓子屋であれば、店はフルオープンだったりで、店員のおじいさんやおばあさんが周囲を見渡しながら「近くに変な大人がいないか」ということに注意を向けていたはずです。いわば意図しなくても社会的監視機能が働いていたということです。

常にそうした人たちが店先にいたので、変なことを企てる人たちにとっても抑止力が働いていたはずです。

そのように「常に店先に同じ人がいる」と言った感じで機能していた商店による社会的監視機能が無くなった分、その分だけ人は無意識レベルで不安になり、疑心暗鬼が加速していったのではないでしょうか。

ということで、その代替手段として防犯カメラ、監視カメラなどが必要になり、同時に「こども110番の家」などの工夫が必要にならざるを得なかったと言う感じです。

人によっては不安感が加速して警備会社と契約したり、子供用の携帯電話を持たせたりという工夫をしている人もいるでしょう。

小売業の各店舗、ミクロ経済のレベルでは現在のような店舗の経営形態が合理的なのかもしれませんが、少しマクロな視点に立てば「結局のところ社会全体が払っている総コストはそれほど変わっていないのではないか?」ということも考えることができます。

「ミクロレベルの合理化によるコスト削減」も「マクロレベルで見たとき、望む状態にかかる総コストに変動はあまりない」というようなこの構造は、合理化により人が記号としての役割しか持たないようになったことに起因しています。そしてこの構造は、巷の婚活などの構造もよく似ています。

数値や客観的データばかり追うと、結局何かで埋め合わせをしなければならないというような面白い構造を持っています。

Category:company management & business 会社経営と商い

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