観想

ある思想家にあっては、彼固有の観想的な状態はいつも恐怖の状態に続き、他の思想家にあっては、いつも熱望の状態に続く。 曙光 395 前半

観想、これは今の状態を捉えようとするようなことですが、感情を直視することでその感情の力(?)が弱まってくるということをお知らせしておきます。

恐怖を感じても、恐怖に対抗すること無く恐怖を感じてください。恐怖心の源泉である、思考上の理屈に対して自己説得するような論争自体を止めて、恐怖を感じてしまう方が恐怖が無くなるというパラドクスがあります。

感情が起こり、それを閉じ込めようとすると、一度その感情が沈みかけたとしてもいずれ再燃することがあります。

「○○だから大丈夫だ」

と自己説得するのではなく、

単に

「大丈夫」

と繰り返している方が理に適っています。

幽霊を見た時

例えば幽霊を見たとしましょう。

その時に「幽霊だから大丈夫だ。幽霊で実体がないから大丈夫だ」

と自己説得したとしても、記憶のどこかから

「いや、ちょっと待て、幽霊に憑依されて交通事故にあったというような話を聞いたことがあるぞ…」

というような感じで、すぐに生存本能であり、「危険を避けようとする恐怖心ベースの化物」であるアイツが、やり返してきます。

「自分はちゃんと墓参りをしているから先祖が守ってくれる。だから大丈夫だ」

と思ったとしましょう。

「いや、こないだちゃんと掃除したかな?ちょっと手抜きなら先祖も力を発揮できないとか、そういうのはどうなんだろう?」

とか

「今は盆で取り扱いが違うとかそんなオチはないか?」

みたいなことをアイツがしかけてきます。

ということで、

「○○だから大丈夫」

というのは、次の恐怖のタネをもたらしてしまうだけです。

これは恐怖に対して「○○だから」という自己説得を行っている構造です。

ということは前提として、恐怖の対象が「存在している」という錯覚を強化することになります。

だから消えません。

ということで、「○○だから大丈夫だ」なんて考えるよりも

「それがどうした?」

と考えることです。

「あーびっくりした、あー怖かった、で、それがどうした?」

です。

で、これは幽霊に限った話ではありません。

「採用は25歳位まですね」

という一文を見た。

明日面接だ。自分は27歳だ。

「えー。なんだかこえー。で、それがどうした?」

です。

それでも自己論争や自己説得が続く場合は以下をご一読ください。

「おまえは27歳だ。圧倒的に不利だな?多分落ちるだろう。プライドをズタボロにされてな」

「で、それがどうした?」

「そうなると嫌だろう?悲しいだろう?」

「嫌だ。悲しい。で、それがどうした?」

「悲しいのは嫌だろう?」

「嫌だ。で、それがどうした?」

「嫌なことは避けるべきだろう?」

「嫌な感情の正体はお前だ。ということでお前を避けることにする。さらばだ!ご忠告ありがとう!」

「ちょっと待ってくれよー」

観想 曙光 395

妄想は感情を知識がこじつけることで生まれる

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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