観想的な生活の評価のために

―結局学問はやはり万人に対して非常に利益になるものになった。この利益のために現在実践的な生活を営むように予定された極めて多くの人々が、その顔に汗し、しかもずいぶん頭を悩まし、呪いながら、学問への道を歩んでいるが、しかしそのような労苦は思想家や学問研究者の群の責任では全くない。それは「自家製の苦労」なのである。 曙光 41

苦労というものはすべて自家製です。自家製なのですが、その原因を外部的に作り出す人も外から見れば確かにいます。すべて自家製だからといってほかの人が何もやっていないかというとそうではありません。

苦労しているという感情は自分の中だけで起こっていますが、ある種の「苦労感」発動条件としては、ほかの人の行動がその因子の一つだったりします。普通に考えれば、他の人の行動を五感を通して認識して頭の中で解釈した結果です。

たまに「全てあなたの責任です」というような言葉が説かれたりします。言いたいことはわかりますが、言語の機能上、無理のある部分が出てきてしまいます。

「全てあなたの責任です」について

それを全く無視して「全てあなたの責任です」と言われても、全然納得いきません。

たまに自称エバンジェリストみたいな胡散臭い人は、生半可に消化したままこのようなことを言ったりしますが、それだけ聞いてそのままうなずける人はただの頭の悪い人か、何か新興宗教的なものにハマっている可能性があります。

どういうことなのか、自分で体感してみなければそんなことはわかりません。しかしながらそれでも、原因は明らかにほかの誰かだったりします。それを無理やり無視しようとすると混乱するだけです。

たとえば増税になったとしてもそれは100パーセント自分の責任でしょうか。絶対に違います。そこで100パーセント自分の責任ですと言えるのはその国家が王国のような国で、そこの王様がいうなら間違いはありません。

しかし、市民が、とりわけその国で生まれた0歳の新生児が「100パーセント自分の責任だ」と感じるのはどうでしょうか。それは違います。ぱっと見、理屈が通りません。

少し考えれば当たり前ですが、「全てあなたの責任です」と、ブックオフで100円の本を読んだ「エバンジェリスト」さんたちは平気でこんなことをいいます。言葉だけを知っていて、何もわからないままいっているだけです。

因果関係はそんなに単純ではない

そんな言葉を聞いてすぐにやろうとするのが、責任は自分にあるのだから、原因は自分にあり、自分の中の原因を探して改良すれば、結果が変わる、というようなことです。それを巨視的に社会的目線で考えてしまいます。

しかし因果関係はそんなに単純ではありません。様々なものが複合的に絡み合って、原因と条件がそろった時に現象として現れています。

そしてその結果もまた原因として、次の現象のきっかけになります。すでに現象として起こったことは基本的には変わりませんが、一瞬で流れます。もうありません。

同じような似通ったことが流れているだけで、もうありません。

観想的な生活の由来

観想的な生活の評価のために 曙光 41

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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