薄のろではなかった

「うすのろ」というトランプゲームがあるようで、ある日僕はそのゲームへの参加を誘われました。「うすのろのばか」と呼ばれていたりします。このゲームにはたくさんの呼称があるようですが、ひとまず僕が経験した時は、「うすのろのばか」という名称で取り扱われていました。

で、やっているうちに覚えるというような感じで曖昧な説明をされ、はっきりしたルールがわからないまま参加したのですが、ゲーム中の掛け声である「うすのろのばか」という言葉が、妙に「修行するぞ修行するぞ修行するぞ」的に聞こえてきて、軽いマインドコントロールに入りそうだったので、「ふざけるな!」と、その場でキレてしまった、という感じでした。

「うすのろのばか」という言葉への抵抗

ルールもわからないまま、うすのろのばかなどと連呼されているのが非常に腹立たしく、「うすのろのばかではない」と、いう一種の抵抗が起こったわけです。

まだ十代だったということもありますが、「一生やるか、二度と誘うな!」とキレてしまったので、今でもその「うすのろ」や「うすのろのばか」などと言われるそのトランプゲームとは無縁です。

短文でつぶやくような言葉というものは、無意識に刷り込まれてしまう恐れがあるので、こうした名称はどうかと思っています。どうせなら、もっと明るく肯定的な言葉は使えないものでしょうか。

ゲームに組み込まれた刷り込み

この時、「うすのろのばか」という言葉を使うということは、一種の自己評価と知能の低下を誘うための侵略的戦略ではないかと思ったほどです。そしてそれから、各種ゲームや学習で扱われる作品、漢字の勉強ですら、何かしらの意図が潜んでいるのではないかと疑いはじめました。

抵抗が起こらないほど、無意識にスッと入ってしまうため、「そんなに深い意味はないですよ、大丈夫ですよ」と取り扱われるものすら怪しいということを思ったわけです。

確かに深い意味はないという場合も多々あるでしょうが、何度も何度も繰り返し見聞きするということは、やはり意識の上で影響を受けてしまいます。

なので、どこかしらには害が潜んでいる可能性があるため、「無害そうに見えるものも、一応一回は疑ってみよう」と思う方が良いと思いました。

言語が縛りを生むのであれば

本来、言語が精神に縛りを生んでいます。しかしながら、言語によって教育され、日常生活を営んでいます。

日常は、言語によって思考し、言語によって行動を起こしているということになりますが、そうであるならば、せめてよい言葉によって思考し、良い言葉に影響を受けて生活するに越したことはありません。

そういうわけなので、あのゲームの呼称はロクでも無いということになります。

しかしながら、所詮ゲームであり、生きる上で必要なものでもなければ、一生やるつもりはないので、そうした呼称を変えろとも思いません。

やりたい人はやればいいですが「言葉に影響を受け自滅する危険性はある」というだけのお話です。

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