自身の方法

思えば「多数決を信用しない」ということの原点は、幼稚園児のときの思い出に遡ります。

右と左の区別において、僕以外の全員が間違った方向に進み、僕だけが正しい方向に進みました。その理由は簡単で、かなり早い時期から自分の手のほくろを目印に左右を区別していたからこそ、正しい方を選ぶことができたということになります。

たったひとり正解だった

その時の僕以外の全員は、最初に進んだ誰かに従うように進んでいただけで区別がついてないという感じでした。それはそれで、そんな左右の区別の教育をしている最中なので間違うことがいけないというわけではありません。

しかしながら、たったひとり正解だった僕は、幼稚園の先生に褒められて少しながら嬉しかったという記憶があります。

それは正解したからということよりも「周りのみんなに流されなかった」という点が評価されたという感じでした。

その時の記憶が未だに僕を方向づけているというふうに思うことがあります。

幼稚園児や小学生の頃を含め、今までに何度も判断に迷う時、その時の思い出を思いだしました。そんなふうに過ごしてきているので、僕の中では固い信念のようなものにすらなっています。

それは何があっても意見を曲げないというようなものではなく、「多数が支持しているから」ということは、「それが正しいかを支えるものではない」ということです。

因果関係と相関関係

何やらビッグデータが云々からはじまり、何でもかんでも情報を集めれば答えが出るかのような風潮がありますが、全員が利害関係無く完全な本音で情報を出すかどうかはわかりませんし、物の購入においても、その奥にある意図や満足度は表面的な数字だけではわからない部分もあります。

そんな中、ひとまず現代において重要なのは、因果関係と相関関係をごっちゃにしないことだと思います。

以前、某大学の博士が、自身の研究結果がメディアで取り上げられた時「因果関係でなく、相関関係であることを強調したい」とおっしゃっていました。

それはそれでいいですが、そんな因果関係と相関関係の区別がついている人であれば、きっとデータの意味を理解しているので言う必要もなく、区別がついていない人ほど、それらを混同して偏見を持つだろうということを思ってしまいました。

これは、「注意書きの漢字」を読める年齢の人であれば、言わなくてもわかるものの、漢字を読めない年齢の人ならば分別がついていないので、ひらがなを使用したりイラストを使ったりしてわかりやすく伝える必要がある、というものに似ています。

なので、一般向けにお話される場合は、多少なりと砕いて話したほうがいいのではないかと思ってしまいました。

そのような感じで、何かしらのデータが出てきた時、大半のケースでは恣意的な主張への裏付けのように使われるだけで、ロクなものなどほどんどないと思ってしまいます。

統計を取ることくらいしか事実らしい裏付けのようなものを示しえないということはわかりますが、やはり「そんなに正しさを支えるものではない」と思ってしまいます。

少なくともそうしたモノを根拠に鬼の首を取ったような格好をされてもバカにしか見えません。

我が事としては、何かしら新しい試みをしてみるということのきっかけに利用しても良いですが、世間のそれは単に「現実なんて目の前にある」ということを軽視し過ぎなだけのような感じがします。

単純にデータに期待し過ぎなのと、「現実を観る力」への自信のなさの表れといったところでしょう。

凡人が天才のフリをする時に用いる統計・データに騙されてはいけない

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