聖者の人間性

世間の聖者のイメージとしては、どこかしら厳しい戒律を守っていて、温厚で優しい人というイメージがあると思いますが、僕は昔からこの戒律というものについて首を傾げていました。

なぜなら、「戒律を守らなければならない」「律法を遵守しなければならない」という一種の制限自体が、戒律を破る動機の存在を認め、また、強制されることでそれ自体が苦しみとなるのではないか、ということを考えたからです。

「決まっているからやってはいけない」

「戒めなのだから守らなければならない」

というのは、明らかに義務教育的です。

そういうことを言い出すと、

「では誰が決めたのか?」

ということや、

「どうして決められたことを守らなければならないのか?」

ということ、そして

「守らなければどうなるのか?」

というような倫理的で法律学的な分野に問いが投げ出されていくからです。

「決まっている」

ということは誰かが決めたことです。

変えぬことのできぬ理

諸行無常諸法無我一切行苦(一切皆苦)は誰かが決めたことではありません。全て形成されたものは変化をすること、それが苦しみをもたらすこと、そしてそうした関係の中から今生じているにすぎないということ、それらは、主義の範囲ではなく変えぬことのできぬ理です。万有引力の法則も誰かが「決めたこと」ではなく、単にそういう法則性がこの物理空間にあるというだけです。

そして、それが戒律であれ、法律であれ、「決まっている」ということを認めるのは、主観的でしかありません。

決まっていることというのは誰かが決めたことです。そうしたような変え得ぬ理ではないような範疇のことは、主観的にその決められた事柄や決めた人に対する自分なりの認定が必要になります。

「決まっているから守ろう」という時、その決めた権威的な存在そのものやその権威、そして決まっているとされていることを守ろうとするのも、本人に決定権があります。

つまり戒律をはじめ、何かしら「決まっていること」は、極めて社会的であり、究極的には主観でどう取り扱うかというところになるため、絶対的なものとはなりえないのです。

そういうわけで、「戒律」を「守っている」からという基準は、自作自演にしかなりません。周りがそれを根拠に、何かの判断をしたとしても、それで「聖者」となるわけではないはずです。

戒律の強制

「戒律を守れば」とか「戒律だから」、という風に物事を義務教育の校則的に考えてしまうと、結果的にその奥にあるものが何も見えなくなります。

と言っても、あえてそれを破ろうと思うことも、その戒律に縛られています。

論理的に見ても、制限はなければないほど、条件がなければないほど、心は安穏に向かいます。

そして、心が穏やかであればあるほど、戒律的なものを守ろうとしなくても、自然とそういうふうな過ごし方をすることになります。

偶像崇拝禁止

例えが変かもしれませんが、仮にモーセの十戒だったとして、その中には「偶像崇拝禁止」というのがあります。

「偶像崇拝禁止」なのに、キリスト像を拝んでいる人もいます。それがキリスト像でなくても十字架や時にマリア像なんかを拝んでいるという場合もあります。

しかし、何かに祈りたくなったり、縋りたくなったり、頼りたくなったり、懺悔したくなったり、ということがなければ、偶像を拝もうという気にもなりません。

不殺生戒

また、仏教なら不殺生戒(アヒンサー)というものもあります。

戒律として殺生を禁ずるということで、「生き物を殺しちゃダメですよ」ということですが、究極的には不可能なんです。意図して生き物を殺そうとしなくても、生きていれば免疫が細菌なんかを殺してますからね。

そうなると生まれた瞬間に自分が死ぬしかなくなるんです。でも自分を殺すというのもダメということで、いわば矛盾が生じているはずです。

で、昔は「植物は生き物扱いされていなかった」というような説もあります。じゃあ「どこからが生き物なのか」ということになってしまうんです。

よく不殺生戒を元に不殺生を実現するためにと食事の面で、菜食主義を採ったり、究極的な菜食主義としてフルータリアン(果物しか食べない人)というようなタイプの人になる人がいます。しかし、フルーツを食べたとしても、そのフルーツの皮についていた細菌を殺すことにもなりかねません。牛乳を煮沸しただけで、細菌は殺しています。

歯周病菌を思いやるなら、歯磨きも禁止になってしまいます。

生きているだけで、最近レベルは免疫が戦っていますし、究極的に何も殺さないとなると、生きることを諦めるしかありません。

目に見えて、動いているものであれば「相手が苦しんでいるかどうか分かる」ということから、苦しみが同調するという自我の勝手な解釈があります(「真理」のために!)。

他人に「戒律」と言うからには、きちんと網羅して説明する必要があります。でも、不殺生戒にしても何にしても、そうした説明はすっ飛ばして「戒律である」と義務教育的に吹聴している人たちはたくさんいるので困りものです。

そうした感じで、「罪を犯す前に殺してあげねばならない」というカルト教団がありましたが、それならば、大きな魚は小魚を食べているのをどう思っているのでしょうか。カニがプランクトンを食べているのをどう思っているのでしょうか。

そうなると、すべてを絶滅させなければなりません。そうなったらそうなったで、すべてを殺すことになるので矛盾です。

そういうわけで、こうした不殺生戒は、物理的に、そして「すべての生き物を含めた社会」的に捉えた場合は、1秒たりとも成立することはありません。

ということで、その奥に込められた意図を探る程度に受け入れるしかありません。

不殺生戒にしても厳密に定義がなされていない、ということは字義的に厳密に解釈することが重要ではなく、そうしたものから隠喩的なニュアンスを感じ、己の中で何かを掴み取るしかありません。

殺生に関する自然界のルール

手塚治虫氏のブッダで良い例えがありました。

動物に育てられた少年が、「むかつくから」という理由で小動物を殺してしまうシーンがあります。

そこで育ての親である動物に自然界のルールを破ったとして、追放されてしまう場面です。

その少年の育ての親である動物がいう、彼が破った自然界のルールとは、空腹を満たすということに代表されるように、本能的に生命維持のために、生存のために必要な理由以外のことで他の生き物を殺すことという感じです。

無駄な都合、無駄な感情によって殺してしまうのです。

それこそが戒律にある不殺生戒の本質にあたるところでしょう。

不殺生戒は、生き物全般を殺してはならないというものになりますが、善悪や倫理でよく議論される「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という人を殺してはいけない理由に通じるところがあります。そうした問いへの答えは「不殺生戒と人を殺してはいけない理由」をご参照ください。

蝉との思い出

中学1年生の頃だったと思います。

夏休みに近くの公園で花火をすることになりました。

といっても、友人の部活動の先輩が花火を用意してくれるということで、付き添いのような形で参加することになりました。

人生で明確に覚えている、「考えるより先に手が出た」シーンです。ペンギンの一件(人生で最初に本気でキレた瞬間「人間性。」)以来、それと並ぶほどに怒り狂いました。

その「先輩」が、木を登りだした蝉の幼虫に花火を向けだしたのです。

考えるより先に手が出ていました。

蝉に当たったのは一瞬だったからか、なんとか蝉は助かりました。

しかし、僕は参加者全員を半殺しにする勢いで暴れました。

自らの面白みのため、感情のために他の生き物を痛めつけ、殺そうとする人間を許しはしませんでした。

気づけば僕を押さえる友人と公園に二人、先輩にあたる一つ上の人たちは逃げて帰ったようでした。

刑法的に見ると一方的に殴った僕のほうが犯罪者です。

しかしそれでも構いません。

民法的に見ると、蝉は「物」でしょう。

しかし、僕の中では物ではありません。

怒るのがいけないとも思いません。

そして不殺生戒という戒めがあるから自らはそうしたことをしないというわけでもありません。

不殺生戒を根拠に殴ったわけでもありません。

不殺生戒ということが「決まっているから」というわけではないのです。

そして「その人の今後」なんてなことを考えて「彼のため」にというわけでもありません。蝉のためです。

僕は、小学生の時から「人間だけ」が尊いとは考えていませんでした。人間が「一番頭がいい」とも思っていませんでした。

無駄な感情で無駄な行動を起こさない分、自然界にいる動物や植物、魚や虫のほうが頭がいいと思っていたほどです。

自然界のすべてが友だちだと思っていれば、色々なことを教えてくれます。

そしてそのうち、道端で肘をついて立っているだけで、手に鳩がとまってくるというようなことも起きてきます。

よく戒律でありそうな「人に対して驕り高ぶらない」ということができたのなら、その対象をすべての生き物にしていくと良いでしょう。

その結果、おそらく不殺生戒(アヒンサー)とイコールになるはずです。

聖者の人間性 曙光 81

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ