習得

習得ということで、学力や習い事についてでも書いていきましょう。先日「われわれ初心者!」の中でも学力について少し触れていましたね。

僕には各分野特に師匠的な人はいませんが、学力をつけたり物事を習得していく場合には、「良い先生」に出会えるかどうかが結構なキーポイントだと思っています。

小さい時にピアノを習っていましたが、特に上手く弾けるわけではありません。今思うと、先生を変えれば良かったのかなぁなんて思っています。

ピアノの先生と幼き日の弱さ

まあでもそのピアノの先生のおかげで、先生によって上手にも下手くそにでもなるということがわかりましたので結果的には良かったのですが…

昔までは「バイトをしてはいけない」ということの意味がよくわかりませんでしたが、今ではバイトの弊害もよくよくわかります。

もちろんバイトをしてもいいのですが、その後を考えて気をつけておきたいのが「時給」の感覚をつけてしまうことです。

学力の付け方と「それっぽい」こと

仕事でも学習でも、「その時間、それっぽいことをしておけば良い」という癖がつくと、いつまでも伸びることはありません。

塾に行っていたとしても、塾の講師の人との相性やその人のスキルによって、同じ1時間でも大きな開きができてきます。それが数年となるとかなり大きくなります。

というより、根本的な「学力のつけ方」自体を無視して、「その時間、無難に過ごしていればいいのだ」という癖がついてしまうと、かなりの時間の無駄を作ってしまいます。

毎日謎が解けます」で次のようなことについて触れています。

よくゆとり世代は「言わなければできない」と囁かれますが、つまりは、条件反射の訓練をしないと何もできないということです。つまり頭を全く使っていないということです。

算数で言えば、1+1=2、1+2=3…とすべての問題に対して、暗記をしていかないと解けないという具合です。厳密には、それは解いていません。しかし、+と=と数の意味がわかれば、どのような足し算でも解けるようになります。指示されないとできないということは、教えてもらっていない、3+5=が出てきた時に、何もできないということです。

学校のテストや入試レベル、はたまた人が理論化したようなものなど、理解できないほうがおかしいのです。

できないとすれば、それは根本から矛盾を含んでいたりナンセンスであったりと、論理が崩壊しているはずです。

言葉の定義と、法則の理解さえしてくことができればどんな分野でも理解できるはずです。

ただ、学校教育ではそうしたものをあまりに軽視して、問題を解く方に力を入れたり、前提となる知識が理解できていないまま次に進もうとします。

でも、物事を学んでいく、習得していくということは、カリキュラムに沿ったその時間を過ごすことではありません。

中学高校レベルの英語であれば6年間費やしますが、上手くやれば6ヶ月くらいですべて終えることができるということを聞いたことがあります(といっても僕は中学生レベルですが)。

世界史の授業

中高生時代を振り返る上で一番つまらなかったのは世界史だったかもしれません。一応その頃は理系だったのため日本史はありませんでした。

世界史の授業がつまらなかったその理由は、単純で、大半が「登場人物の名前を覚えさせられるだけ」だったからです。

しかも、ファイナルファンタジー6の登場キャラは大体覚えているのに、その授業で出てきた人物の名前は全然覚えていないという感じです。

「天下三分の計を説明しなさい」

とか

「赤壁の戦いで諸葛孔明がとった戦略の概要を説明しなさい」

というものなら、もう少し興味も湧いたと思うのですが、いかがでしょう?

習得 曙光 540


学力とは何なのか、それは単に何かの対象について全体的な印象を把握していくにあたって、パーツと理屈を理解して紐解いていける能力といったところでしょう。噛み砕いて表現するならば、何か新しいことを知っていこうとした時に、単語の意味と理屈を理解して全体像を知っていくという感じです。

学習と演繹


家庭教師的なことをした時のことを思い出すと、環境等々で「勉強の仕方」にすら出会う機会がないということが残酷なことのように思えてきました。確かに学習時間という意味ではある程度平等なのかもしれませんが、先生の質も千差万別ですからね。

経験のすぐそばで!

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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