第1900回投稿記念

これで1900記事目になります。ブログ創設から1900回目の投稿ということで「第1900回投稿記念」です。

前回の第1800回投稿記念は、2020年4月25日だったので、前回からの100記事は、5ヶ月くらいかけて投稿したという感じです。

さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。

また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうございます。毎度のことながらたくさんの気づきがありました。また単純に応援メッセージをいただいたりもよくしました。ありがたい限りです。

PC、タブレットなど機器の電源を切ったりする習慣ができたので、ご連絡が遅くなることもありますがご容赦下さい(今後も若干のタイムラグが生まれると思います)。なお、普段使わないアドレスのため、contact以外からのご連絡は確認が大幅に遅れることがありますのでご留意いただければと思います。

それではおなじみのアクセス解析から見るアクセス状況から投稿記念の回を進めていきましょう。

アクセス状況

前回の2020年4月25日から2020年9月26日までの間のユーザーさんの数は、87,273名であり、前期間(同一日数)は、107,502名なので、比較すると18.82%の減少という感じのようでした。

古典的な言語表現が影響しているのか、特別企画「菊花の約」を投稿するたびアクセスがガタンと落ちる傾向にあります。一般投稿に戻った時にまた復活しそうな感じですので、今回の数値もあまり参考にはならないかもしれません。

男女比は男性50.7%、女性49.3%でした。前々回までは女性寄りだったユーザーの男女比でしたが、前回に引き続き若干男性ユーザーさんの方が多くなってきました。

なお、やはり男性ユーザーの方が圧倒的に滞在時間数やPV数が多いので、ユーザー数減少の中でもPV数はそれ以前とそれほど変わらず、また平均滞在時間は伸びている傾向にあります。

モバイルからのアクセスは70.18%%でした。前期間から引き続き、さらにモバイル、タブレットからのアクセスが減少し、デスクトップからのアクセスの割合が増加していました。

日本以外からのアクセスは、やはりアメリカがダントツですが、それ以外としては順に、韓国、タイ、オーストラリア、イギリス、台湾、ドイツ、カナダ、シンガポールといった感じでした。

サイト内検索

さて、毎度おなじみサイト内検索です。今回は、1406ワードでした。

いつもなら検索回数の多かったものを列挙したりするのですが、社会情勢を反映しているのか、ネガティブワードが異常に多かったので今回は掲載しないことにしておきましょう。

さて、それでは投稿記念の回としていつもと違った感じで進めていきましょう。

良い一日のスタート

先日早朝のことですが、椅子に座って鳥たちの鳴き声に耳を澄ましていた時のことです。

「優雅やなぁ」

という気分になりました。

空気も落ち着いていて、陽は柔らかく、涼しい、ということで、鳥取県の大山にいるような気分になりました。

そうなるとリゾート地にいるのとあまり変わりありません。

表面的にはただ座っていただけなのですが、一応例のごとく自動自己観察モードになっていました。

そうなると非常にリラックスはしていながら、異常に集中力が増します。

目覚めるように日常に戻りつつも、すべての野暮用のフローが見えてしまうのでその日一日に憂いがありません。

いちいち頭を使わなくても計算済み結果が頭に表示されている状態となってしまいます。

日常で何も問題が起こらないというわけではありませんが、智慧があれば、やはりそれらはすべて「取るに足らないもの」という感じになってしまいます。

それはすべての物事を解決するということではありませんが、結局「別に解決しなくても問題はないし憂いはない」という感じになるので、まさに憂いはありません。

瞬間的に嫌になることもありつつ、その感情はすぐに流れていくので、別にまあいいかということになりますし、現象として再発するようなものなのであればそれを解決する手段がすぐに見つかってしまうという感じなので憂いはありません。

起きた瞬間からリセット

気分が乗らないとか陰気な感じで一日が始まりそうな時もあると思いますが、そんな時は起きた瞬間からリセットしてしまえばいいのです。

だいたい寝て起きても意識の中に残っているのは、生存本能がもたらす危険回避の事柄ばかりとなっています。

今まで何度同じようなことを思い出して起きがけから嫌な気分になったことでしょう。

そうでなくともその日一日の義務的なことばかりが頭をめぐり、起きた瞬間から重苦しくなってしまうというパターンが結構多いのではないでしょうか。

月曜日は体が重いというようなことが当たり前かのように言われたりします。

まあ確かに職場等々へ行くこと自体が半分以上生活費を稼ぐ等々の義務的な動機に基づいているのならば気は重くなってしまうでしょう。

それ自体はわかりますが、意識の中にめぐる危険回避や義務にばかり心を奪われてしまうからこそ気が重くなってしまうという感じになっています。

そこで自己啓発洗脳系の人たちはポジティブな内発的動機になるようにと囁いたりします。

つまり、「行かなくてはならない」ではなく「行きたい」になるようにという理屈です。しかしそれはある程度自己洗脳などでできるとしても結局自分騙し要素があったりするのでなかなかうまくいきません。

そういうわけなので気が重いという場合、無理に明るくしようなとどは思わずに、ひとまず意識を澄ますとか静めるといったことをする方が楽になります。

最高の状態となるのはヴィパッサナーとなりますが、そこまでいかなくともある程度その要素を持つような感じでしばらくの間過ごせば、どんどんと意識は落ち着いていきます。

そういうわけなので、マイナス分をリセットしてフラットな状態にまでは持っていくことができます。

手軽な方法としては、ひとまず歩くたびに右足を動かす時は「右足」とラベリングし、左足を動かすときには「左足」と確認するというようなものがあります。

そのような感じで過ごすと、いろいろと複雑そうに見えて今現在の「生」は、結構シンプルであるということが体感できるはずです。そして、自己観察に対する集中力が増すごとに、意識の中の散らかりや、散らかしてくる要因についても、「それほど大したことではないなぁ」という感じの感想がやってくるでしょう。

オーバーフローと「負のエントロピー」

馴染みのない方にはよくわからない用語を出してみましたが、まあ単純にオーバーフローとは情報過多で氾濫している状態、もっと単純には「抱え込み過ぎの錯乱状態」とそれに伴う「譫言」であり、ここで言う「負のエントロピー」とはシュレーディンガー氏の「生命とは何か」に出てくる概念くらいの感じですが、もっと単純には「エントロピー増大の法則に逆らう意志や働きや行動」という感じくらいのものです。

ということを示した上で、直接は関係ないような、抽象的でふんわりた感じで進めていきます。直接的なオーバーフローや負のエントロピーという概念というよりもそのような感じ程度で捉えていただけばと思います。

個人的にはそうでもないのですが、最近の社会情勢の影響からか、混乱している人をよく見かけたりします。そしてそれは単なる混乱というレベルを超えて、まさにオーバーフロー状態という感じで錯乱くらいにまで達しているような気がします。

もちろんそうでもない人もちらほらいるのですが、言動の節々に違和感を感じると思わざるを得ないような感じの人と当たることがよくあります。

おそらくその要因として、イレギュラーへの困惑と対処法の不確実さ、そして、一つが崩れた時に他の予定も狂い、抱え込む課題が累乗的に増えていくという感じで情報処理が追いついていないという感じになっているのではないか、と思ったりします。

まあ例えば「事業がうまくいかない」からスタートしたとしましょう。「うまくいかないものの通常考えられる打開策が通用するかわからない」、「他の方法論を探す」、「他の方法論においてもある程度の確実性が欲しいが情勢がイレギュラーなので何とも判断できない」「そうしているうちにも固定費がかかる」というのが一つの側面としてあるとしましょう。

そこから「生活費の捻出が厳しい」ということになり何かが買い替えの時期だとしても「どのようなものに買い替えるべきか」というような別の課題までやってきたりもするわけです。

そうして派生し、細分化する形でどんどんと検討する課題が増えていきます。

そしてある地点でオーバーフローとなる、という感じになっているのではないでしょうか。

「ひとまずこうしておけばしばらくは決めなくていい」というサクッと終わるような決定が下せないということから常時決定を迫られて情報の収集や決断という面で情報処理が追いつかない状態になっているのではないでしょうか。

「それは仕方がないじゃないか」ともなりそうなものですが、そんな時に原則として置いておくべきなのが、「生きる上での基本は負のエントロピー」であるということです。

シュレーディンガー氏の具体的な「生命とは何か?」というお話が直接関係するわけではありません。が、ひとまずエントロピーの増大と「負のエントロピー」を考えれば、普通の事であるということが見えてきます。

これは部屋のホコリのちらかりを考えればわかりやすいはずです。散らかる方向に向かうものをまとめる方の力というくらいの感じが負のエントロピーです。

一度ホコリが散らかりだしたら、それ以上に散らかることはあっても勝手にキレイなることはありません。部分的に角にまとまるということはありますが、基本的には汚いままです。

木を燃やした時に一度空気に溶けた煙は、勝手にはまとまりません(しかし無限かのようにちらかったものを再度まとめるということは光合成という木の成長によって叶ったりします)。

何かしら動くと基本的に散らかっていきます。なので、維持するためには、それをまとめるという方向も必要になります。

というような構造は意識の中でも同様で、意識の中の情報はエントロピー増大と同じような動きをしています。

そういうわけなので本来大切なのは負のエントロピーです。

その極みは「非我」となりますが、そこまでいかなくても「あればあるほどいい」から「無ければ無いほどいい」という感じになります。スッタニパータの「牛飼いのダニヤ」等々にはそんな感じの構造が示されています。

ということから考えていくと、情報過多によりオーバーフローになっているという場合においても結局は負のエントロピーのような構造が最も理に適っているという感じになります。

具体的解決法を発見して一つずつ解決していくというのもいいですが、根本的なちらかりの対象を不必要なものとして捨てていくというのも一つの方法です。

散らかっていて「どこから手をつけよう」となっている場合は、一度その部屋から出て休憩し、もう一度部屋に入って落ち着いて眺めた時に良い手順が見つかったりします。

解決するためのパーツとしての具体的な「負の力」ではなく、まずは「意識の上での負の力」を高めることが肝心です。

それは集中であり、様々なことを一度追い出すという形となります。そして追い出すにあたって、その対象が頭にあると、それは概念として今「ある」ため「無くす」ということができません。

ということなので、意識的情報を操作するということではなく、今の体感をラベリングするということが必要になってくるという格好になっています。

それでは引き続きご愛読くださいませ。

第1800回投稿記念

Category:miscellaneous notes 雑記

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